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カーテンの隙間から日が差す。窓から吹き抜ける風が頬を優しく撫でる。
舞は小さな体を起こし、寝室を抜けた。
階段を下り、洗面所にて支度を済ませる。冷たい水が舞を呼び起こし、撫子色のエプロンで身を包む。花柄の可愛らしいエプロンに機嫌が良くなり、舞は鏡の前で一回転してみせた。
軽快なリズムで階段を上がり、先程まで寝ていた寝室で母と父を起こした。眠そうな両親の手を引き、舞は居間へと足を運ぶ。
「お母さん、今日は何を作るの?」舞は胸の前で手を組み、お得意の上目遣いを披露した。
「今日はフォンダンショコラを作ります!」
母は舞の頭に手を添え、できるかな、と問いかける。舞は二つ返事で元気良く返す。
舞が台に乗り、シンクで手を洗う。その間に母は慣れた手つきで材料の準備をこなす。
「よし。じゃあお母さんはチョコレートを刻むから、舞ちゃんは生クリームを沸かさないように見ててくれる?」母が台をコンロの前に移動させる。
分かった、と舞は台に飛び乗り、まじまじと鍋の中を見つめる。ざく、ざく、とチョコレートを刻む音が一定の拍を取って台所に響く。舞はその音に合わせ体を揺らす。
「お母さん、周りがふつふつしてきたよ」舞は母を呼ぶが、鍋からは一度たりとも目を離さない。
母が隣から火を止め、台を移動させた。
「そうしたら、このチョコレートと混ぜます。でもすぐ全部入れたらだめだからね。少しずつ、少しずつ入れるの」母はそう言いながら舞に手本を見せた。舞は母を真似してゴムべらを踊らせる。始めはチョコレートの茶色が徐々に薄く変わっていくのを見て舞はとても興味深く思った。次は何色になるだろう、その好奇心が生クリームを入れる手を早めた。
「舞ちゃん、上手だね。お母さんはこれ包んじゃうから、舞ちゃんはチョコレートとバターを混ぜながら溶かしてね」母は机の上に用意したボウルをコンロの水を張った鍋の上に置いた。
舞は完成を待ち遠しく、でもそれまでの道のりを踏みしめるように過程を楽しんだ。
しかし、舞は混ぜ続けても二つの材料が溶けない事に気が付いた。もっと力強く混ぜれば溶ける、そう思った舞は力任せにゴムべらを回した。すると鍋が五徳から外れ、舞は水で体が濡れてしまった。幸い、ボウルを持って混ぜていた為材料は無事だった。
がしゃん、という音に目を引かれた母と父が音のした方を見ると、水が滴る舞が今にも泣きそうな顔でボウルを持っていた。
大丈夫か、と二人は舞の元に駆け寄り、舞を抱きしめる。
「ごめんなさい。全然溶けなくて、どうしようって」舞はそう言いながら涙を流した。その言葉を聞いた母はなにかに気づいた顔をして、舞の濡れたエプロンを触る。それは先程まで洗い物をしていた際に手で受けていた温度と同じ、ずっと触っていると痛くなる程の冷たさだった。
「ううん、舞ちゃんが怪我してなくて本当に良かった。謝るのはお母さんの方、ごめんね。お母さん、火にかけるの忘れちゃってたから、それだと溶けないよね。舞ちゃん、お着替えしてからまたお手伝いしてくれる?」母は申し訳なさそうに舞の顔を覗いた。
「お父さんも舞が作ったお菓子好きだから食べたいな。良い子の舞はお母さんのお手伝い頑張れるかな?」父も舞の頭を撫でながら励ます。
うん、頑張る。と涙を拭った舞は笑顔を見せ、父と洗面所へと向かった。
数分後、黄色の生地のエプロンを身につけた舞が台所へ戻って来た。胸元にあるくまのワッペンが舞のお気に入りらしく、先程とは打って変わって上機嫌の舞がいた。
「お、可愛くて似合ってるね。これでちゃんと溶けると思うから、よろしくね」母は舞にゴムべらを手渡し、隣で鍋を押さえながら舞と共に湯煎の作業をした。
その後も母は舞との作業分担から共同作業に変え、作業は順調に進んだ。
ココット皿になだれるように生地が流し込まれ、みるみると皿の形に沿って体を馴染ませていく。その様子を見る舞はとても嬉しそうに、目からはきらきらと輝きを放っていた。
予熱しておいたオーブンに生地を入れ、一〇分程の焼きの工程が入る。その間も舞は生地から目を逸らす事はなかった。今か、今かと焼き上がりを待つ舞。少しずつ膨張し、ココット皿から顔を覗かせた生地と目が合った。
舞はその瞬間、甘い魔法にかけられたかのようにオーブンの中に釘付けになった。動物の出産を取り上げたドキュメンタリー映画のような、そんな歴史的瞬間に感じた。
ふと、後ろから母の声が聞こえた。舞は振り返ると、母は橙色のミトンを手にはめ、徐にオーブンのドアを開いた。がちゃ、と音を立てると同時に香しいチョコレートの香りが鼻をくすぐる。
「舞ちゃん、最後のお手伝いよろしくね」と言われ、母に掌ほどの大きさのふるいと粉砂糖を渡された。舞は母に言われた通りに生地の上に粉砂糖をかける。すると、見る見る茶色い生地に粉砂糖が降りつもり、真っ白な屋根ができた。
「お母さん、お化粧してるみたい!」はしゃぐ舞にそうね、と母は相槌を打ち、程なくして作業を終えた。
「はい、お待たせ。舞ちゃんもお手伝いありがとうね。じゃあ、いただきます」
舞と父も食事の挨拶を続けた。
フォークで生地を割ると、中から溶けた濃厚なチョコレートが顔を出す。流れたチョコレートに生地を絡める。フォークの上にある楽園が光沢を帯び、舞の食欲を更にかきたてた。たまらず一口、舞は頬張る。
瞬間、重厚なチョコレートの甘味が口いっぱいに広がった。舞はまたも甘い魔法にかかってしまった。一口、また一口と食べ進め、魔法が解けた時には既に皿には溶け出したチョコレートが少量残ってるだけだった。
「どうしよう。写真撮ってない」と肩を落とす舞に父はそう言うと思って、携帯の画面を見せる。そこには斜め上から撮られたフォンダンショコラと父の飲んでいた珈琲が映っており、まるで喫茶店のメニュー表に載っているような一枚だった。
「すごい、本当にお店みたい!」写真を見た舞は父と母の顔を交互に見て、言葉を続けた。
「私、大きくなったらケーキ屋さんになるの。そうしたらお母さんとお父さん呼んで、私が作ったケーキを食べてる所を見たい。その時はもう一人でケーキを作れるからね!」そう言って舞は立ち上がり、二人に向き合った。
「だからお父さん、お会計は一〇〇〇円になります!」
お金取るのかい、と父は舞の頭をぽんと叩き、居間は笑い声に包まれた。
大きな夢を背負った小さな背中は逞しく、今日も魔法を振り掛ける。
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