さざ波

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
弟は、死ぬ前の母さんと同じ背中をしていた。学校からの帰り道で弟の姿を見つけた時に俺はそう思った。病院のベッドで背中を丸め、硬そうな声の咳を出していた母さん。 いま俺の前を歩いている弟を見ると、どうしても母さんのことを思い出してしまう。 弟は俺の少し前をゆっくりと西に向かって歩いていた。太陽が弟の向こうに見える。大きな車が一台ラクに通れるくらいの道路だ。歩道と車道の境目はない。だけどあいつは道の端っこをおとなしく歩いている。夏はとっくに終わったけど、太陽ははまだまだ沈みそうにない。弟の歩く方角は、夜になると夏の大三角が見える。知っててあいつ歩いてるのかな?まさか。親父も弟も星にはこれっぽっちも興味ないもんな。 弟の歩く先には、広い河川敷がある。夏になると、花火大会でたくさんの人が集まる。俺は万華鏡とナイアガラと、最後に上がるスターマインの花火が好きで、それは親父も弟も同じだ。 俺と弟は、足音は聞こえなくても、振り向けばすぐに気づく距離にいだ。二人ともこのままのスピードで歩けば、すぐに俺が追いつくだろう。 白い軽トラックが俺たちの脇を通り過ぎて行った。弟の近くではスピードを落としてくれた。大人になったらどんな車に乗ろうかな。母さんが入院してる時に、叔父さん夫婦が見舞いにやってきて病室に本をたくさん持ってきてくれた。ほとんどは叔母さんの好きな小説だったけど、一冊だけ叔父さんの入れた車の写真集が入ってた。叔母さんは「こんな本誰が読むのよ」って叔父さんを怒った。頭は四角いけど鼻のおっきな叔父さんは、耳を掻きながら「オレはこれしか本持ってねぇんだ」って言い訳して、俺たちはみんなで笑った。。 「誰が読むのよ」って言われた本だけど、俺は見舞いに行くたびにその本を開いた。開くけど母さんの体調がいい時は、本なんか読まずに母さんとしゃべってた。 母さんが辛そうな時に本を読んだ。見舞いに行くたびに本を読む時間が増えた。すぐに本に載ってる車の名前を全部覚えた。そして母さんは死んだ。 前を行く弟に声をかけてやろうと思った。一緒にスーパーに行って、あいつが最近よく欲しがる昆虫のフィギュアの付いたラムネでも買ってやれば、すぐに元気を取り戻すだろう。 弟がランドセルを肩から外した。俺と違って弟のランドセルはあいつの肩からスルリと外れた。肩ひもを手でつかんでブラブラ振り回している。何かヤケになっているようにも見える。背中から外して少しの間に、ランドセルを四回壁に擦って、二回電柱にぶつけた。 声を掛けようとした時、弟は俺たちの家とは違う方向に曲がった。 声を掛けれなかったのは、フラフラ歩いてたくせに曲がる時に迷っていたように見えたからだ。それでも俺は特に心配しなかった。友達の家に行ったり、寄り道をしたり。あいつはまだ自転車に乗れないけれど、行きたい場所くらいはあるのだろう。 夕飯の時に必ずおやじに聞かれる言葉がある。 「今日はどこで遊んだ?」勉強のことは聞かれなくても、毎日これだけは聞かれる。 弟はいつも似たような答えを言う。三種類くらいしか聞いたことがない。答えはみっちゃん家か武志の家か、児童館ってところだ。あいつは俺と違って外で遊ぶのがあんまり好きじゃないし、交友関係は把握しているつもりだ。 ふと俺は時々あいつの靴下がすごく汚れている日があるのを思い出した。汚れたまま洗濯機に入れたのを怒ったら、次から俺に見つからないように洗面台で靴下をはたいてから入れるようになった。はたいた後に水を流さないから、洗面台は汚れたままだ。折れたシャーペンの芯みたいな小枝とか落ち葉のかけらを俺がいつも流してる。そんな日の靴下には、いつも緑色の染みがついてる。白い靴下だと、洗濯しても色が落ちなくて、だから最近あいつの靴下には、よく緑色が混ざってる。 今日のあいつの行き先は、みっちゃんの家でも武の家でも、児童館でもない。方向が違った。 あいつこれからどこに行くんだ? 俺は少し距離を取りながら、弟の後を追った。ランドセルを背負い直した弟は、熱帯魚を売る店の前で立ち止まり入り口の水槽を指でなぞっていた。そばにはクロガネモチの木があり、熟す前の実を多く付けていた。ヒヨドリが木に停まり、身の匂いを嗅いだだけで去っていった。弟はまだ飽きずに指で水槽をなぞっていた。本当は今頃、スーパーで買い出しをして親父が帰ってくるまでに飯を作らなきゃならないんだけれどな。でもそんなに遅くはならないだろう。親父と一緒にいるのが好きなあいつは、日が暮れるとすぐに帰ってくるもんな。 あと半年で俺は中学生になる。学校までバスに乗って通わなきゃならない。弟はまだ何年も小学生だ。俺が中学に上がったら、近所に住んでいる叔母さんが晩御飯を作りに来てくれることになってる。部活を始めると帰りが遅くなってみんなのご飯を作れないからな。 水槽いじりを止めて、弟はまた歩き始めた。歩くスピードが速くなった。急に走り出したり、ふいに立ち止まったりした。そのたびに俺は尾行がばれないように気を使った。弟はどんどん先へ進み、何度も角を曲がり、やがて県道に出た。右手に山があり、いくつか畑が見えた。緑が増えた分、家の数が減った。二車線道路で信号が少なく、スピードを出す車が多いことで有名な道だった。遊ぶ時は自転車を使う俺は、この道には詳しくなかった。弟はガードレールを伝って狭い歩道を歩いた。すぐ横を何台もの車が猛スピードで通り過ぎた。それでも弟は先へ進んだ。 そして俺が一瞬目を離した隙に突然消えた。 弟を見失った地点まで俺は全速力で走った。横目で車道を見た時に腹をガードレールに思いきりぶつけた。それでも俺は走った。 杉並木に囲まれたそこには、下りの石階段があった。俺が肩で息をしている間、弟はずいぶん先にリズムよく歩いて行った。最後の一段は両足で飛び、着地を決め奥に走っていった。 もう弟に声を掛けようと思い、俺は石段を下った。下り終えると、視界の先に湖が見えた。弟はその手前に置かれたお地蔵様の頭にタッチして走り出した。 その先には見知らぬおじさんがいた。 弟に声をかけると、おじさんは驚いた顔をした。弟は「よっ!」と言い、なぜか俺がいるのが当たり前のような顔をしていた。目の前には俺の体が何百個も入りそうな湖があった。自己紹介をする前におじさんは「君がお兄さんか」と言って弟と俺を横に並べ、一人で納得したように頷いていた。 ワン!と鳴き声がしてゴールデンレトリバーが駆け寄ってきた。弟は笑顔で犬の元へ走っていった。 おじさんは田沼さんと名乗った。犬の名前はペルだった。俺は名前を言った。念のため弟の名前も言った。「知ってる」と言って田沼さんは笑った。 「君のことはねぇ、いつもユウキ君から聞いてるよ」 田沼さんは大きなブルーシートをひいて腰掛け、俺に隣に座るように言った。ペルとユウキは湖の周りで鬼ごっこをしていた。 「残念だったねぇ、お母さんのことは」 「母を知ってるんですか?」 「いや。ユウキ君に話を聞いただけだ。君たちくらいの年齢の子供が母親を失うことは、周りにとっても辛い事だ。君の母を知らない他人にとってさえもね」 俺は何も答えなかった。そして、なぜ母さんがこんな目に合わなければならなかったんだろう、と考えた。それは母さんが入院中してからずっと一人で考えて続けていることだった。 「初めはね、釣り竿を持ってペルと散歩してたらユウキ君が付いて来たんだよ。熱帯魚屋があるの知ってる?僕とペルはそのお店の近くに住んでいるんだ。知らない子だから、どこかで違う道に分かれるだろう、って思ってたけどずっとずっと付いてくるんだ。 僕とペルも途中から後ろをチラチラ見ながら歩いてね、その間彼はずっと下を向いてた。そしてここまで一緒に来たんだ」 そう言って田沼さんは両腕を大きく広げた。目線はずっと遠くを見ていた。 「すいません」と俺は言った。田沼さんは首を横に振った。 「腎臓が悪かったんです。他にも悪いところはたくさんあって。結果的にはそっちが原因で死んでしまったんですけど。元々そんなに体の強い人じゃなかったんです。腎臓って体の毒素を出すところですよね?うまく言えないんですけど、母さんが死んでしまってから、 彼女が体内の毒素をうまく出せずに死んでいった、っていう事実が何だかひどく堪えるんです」 「直接の死因じゃなくても?」 俺は体育座りをして顔を隠して「はい」と答えた。見てもいないのに水面が揺れている気がした。 その時、ブルーシートが大きく動いた。俺は顔を上げ頬を拭った。 鬼ごっこをしていたペルが、僕たちの近くに滑り込んできたようだった。 「ねぇねぇ、早く釣りしてるところ見せて」と弟が言った。 田沼さんはペルをなでながら、「やるかぁ」と言って立ち上がった。木に立て掛けた釣り竿を手元に寄せ、カバンの中のタッパーを開けた。そこにはアカムシが入っていた。 田沼さんはアカムシを一匹つまみ、ユウキの目の前でぶら下げ、「今日こそ大物を釣るぞぉ」と言った。大笑いしていたユウキは、急に真剣な顔つきになり、ポケットから昆虫のフィギュアを何個か出した。 「これで釣って」 これじゃ無理だなぁ、と言って今度は田沼さんが笑った。ユウキは口を尖らせてフィギュアをポケットにしまい、走り去った。 田沼さんはアカムシを何匹か手際よく針に付け、竿を湖面に投げた。アカムシは一匹も落ちることなく水面に消え、田沼さんは隣に座り竿を俺に渡した。 「一番簡単に釣れるのはクチボソなんだけどね。ユウキ君の前で何匹も釣ったよ。そしたら彼がもっと大きな魚を釣りたいって言うんで、今はマブナを釣るためのシモリ仕掛けになってる。アカムシも五倍使う」 田沼さんはおどけた顔で手のひらを俺に見せた。 「釣りたい?ユウキが自分で釣りたいって言ったんですか?」 「そうだよ。自分で釣りたい、ってハッキリと僕に言った」 俺は釣り糸の先にあるウキを見た。どれだけ見ても、答えはわからなかった。 「アニメで見たんだってさ。主人公の男の子が、最強の大きな魚を釣って、お母さんの病気が手術で治った、って話をね。だから僕も釣るんだって」 アタリが来る気配はなかった。ペルが俺の横に座った。 「今も弟は魚が釣れたら母さんが戻ってくると思ってるんですかね?」 「思ってるだろうね」 馬鹿馬鹿しい、と俺は思った。デカい魚を釣ったくらいで母さんが戻ってくるなら何匹でも釣ってやる、と思った。 「君はそう思わないのかい?」 そのとき、竿が大きくしなった。 釣りあげるまでの間、田沼さんは繰り返し「焦るな。落ち着け。キレちゃいかん」と俺を励ましてくれた。こんなに大きな声を出す人だったのか、と俺は思った。俺が竿を引き後ろに下がるごとに、田沼さんはたも網を抱えて前に出て行った。 たも網を水面に入れ、田沼さんはこちらを向いた。 「マブナだ!こんなに立派なのは初めてだよ」 俺は竿を離した。呼吸が乱れ、手がしびれていた。横でユウキが「すごいすごい」と言って飛び跳ねている。 「クーラーボックスならあるよ。お父さんは魚さばける?」 はい、と俺は答えた。田沼さんはマブナの口から針を外そうとしていた。 「待って。考えさせて!」 ユウキと田沼さんが俺を見た。ついでにペルもこっちを見ていた。俺は息を整えて言った。 「このマブナ、逃がそうと思う」 「ヤダ!」とユウキが言った。ランドセルを持ってきて中に入れようとしていた。 田沼さんがにやけながら、網をそばに置いてくれた。 「良いんだ。今日だけは逃がしたほうが良い気がする」 弟はそれ以上何も言わなかった。 俺はたも網からマブナを取り出し、ゆっくりと針を抜き勢いよく湖に放した。 ユウキは横で俺の魚を放す動きを真似していた。 田沼さんにお礼を言って、俺たちは家に帰った。 帰り道で俺は思った。 ユウキが中学に上がる頃に、今日の話をしてみよう。 その時あいつは今日のことを覚えているだろうか? 大きなマブナを逃がした俺を、弟は笑うだろうか?
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!