最後のテロメア

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「親を大切にしないなんて、人として有り得ない」と言われると、苦い思い出が胸に蘇る。会社の忘年会で年の離れた後輩に件の発言を喰らい、その子に当たり散らした事があるのだ。特段ストレスが溜まっていたわけではない。プライベートは何年も無風状態で心が乱れる要素が無かったし、仕事も概ね順調だった。短大を卒業後、二年程アルバイトをしてフラフラしていた私を初めて社員として雇ってくれた会社だった。実家暮らしの私にとって待遇も給料も申し分なかった。  子持ちのパートさん以外全員が集まった宴席は佳境に入っており、場の雰囲気も各々の席順も開始当初とは様変わりしていた。八回目の忘年会に臨んだその日の私は、終始長机の端で飲んでいて、私の周囲には彼女しかいなかった。 具体的に何と罵ったのかは覚えていない。おそらく「決めつけんな」とか「何がわかる」とか言ったのだろう。酒の勢いを借りて「お前なんか死んでしまえ」とまで口走ったかもしれない。とにかく覚えているのは、「不当に」侮辱されたと感じたことだ。 酔っていた私は何故か普段より集中力が増していて、自分でもびっくりするほど相手の顔を冷静に観察することができた。いつもは小心者のくせに、その時だけは相手を罵った事など全く気にならなかった。 場の注目が集まる中で彼女は「そんなヒドイこと言わないで下さい、あたし泣きそうです」と口に出した。 それを聞いて私は彼女の瞳をじっと見つめた。自分の鼻息が耳障りで仕方なかった。 彼女の瞳には涙なんか全く溜まっていなかった。むしろカラカラに乾いていた。私がその言葉を使うなら涙が出る直前だ、と私は思った。腹が立ってイライライライラしている内に、時間をかけてゆっくりと彼女の瞳に涙が溜まっていった。 私の頭はマグマの様に燃えたぎり、頬は熱く火照っていた。だけど耳だけはひんやりしていた。私はその後も彼女を罵倒し続けた。腹の底から出た声は、自分の出した物じゃないみたいだった。バックをつかんで金も払わず店を出た。そして私は六年勤めた会社を辞めた。 三島由紀夫が亡くなった年齢になった今では、当時の関係者に申し訳ない思いに駆られるだけだ。 一連の出来事をトピ建てして投稿すると「素直になれて何よりです」とか「あなたも泣いていいんですよ」「自分の過ちを認められるのはいい事です」とか上から目線の物言いが続々コメント欄に届く。自分の恥をさらすと、なぜか上から目線のコメントが集まるのだ。 こちらとしては笑い飛ばしてほしいのに。エンターキーを無駄に叩き、ストレスを解消する。こんな事トピ建てする自分も悪いのだが。 自分の過ちを「本当に」認められるようになったのは、ずいぶん大人になってからだ。 「あなたの言いなりになる事を優しさと呼びたくないの」と捨て台詞を残し、私は30年過ごした家を飛び出した。定年間際の父は仕事に出ており、私は茶の間に母と二人きりだった。母は私の捨て台詞を聞いてもこちらに向き直ることはなく、縁側の福寿草を見ていた。 家を出た私は、短大時代の彼氏の家に転がり込んだ。厚かましい願いにも関わらず、彼は私を受け入れてくれた。事情を聞き終わるとすぐに車を出し、ユニクロとドラッグストアに連れて行ってくれた。どちらも車がないと行けない様な大型店舗だった。お金は全て彼が払った。私は人生で自分の貯金というものを持ったことがなかった。昔から事情を知る彼はお気に入りの洋食店で夕食をご馳走してくれた。  私たちは二十代の四年間を恋人として過ごした。別れた後は何年かに一度連絡を取り、近況報告をするだけになっていた。頻繁に連絡を取り合っていたわけではないが、彼に女性の影がないことは私には分かっていた。付き合い始めた頃、彼は経済学部の学生だったが、二年留年した後に退学した。彼はクレジットカードの明細や株主総会の送り状などのDMを作成する会社にマシンオペレーターとして就職した。月ごとに日勤と夜勤が入れ替わり、春と六月に来る繁忙期には毎日もれなく三時間の残業があった。定着率の低い職場だったが、彼にはその会社が水に合っていた様だった。 「工場って勤めた事あるか? ないだろ。学校みたいなチャイムが頻繁に鳴って、誰も踊らないラジオ体操が流れて、誰にも聞こえないような小さな声でしゃべる朝礼が行われるんだ。最高だろ?」と彼は言った。 私は囚人みたいじゃない、と思ったが彼には言えなかった。 居候を始めた私は、昼も夜もないくらい働いた。全国チェーンの定食屋の調理や漫画喫茶のフロント、高校生に混じってコンビニの夕勤で働く事もあった。 私はすぐに一人で住む賃貸を借りた。シャワールーム付きの1DKだった。部屋を出るとき、彼はとても淋しそうだった。「もっといればいいのに」と何度も言った。それがプロポーズの言葉なんかじゃないことは二人ともハッキリと分かっていた。 浮気の心配もなく、この上なく人柄の良い彼に対して結婚願望が無かったか、と言ったら嘘になる。しかし婚姻届けにも保証人欄の記入と必要と知り私は現世での結婚を諦めた。私には彼以外、署名してくれる様な人はいないのだ。 家を出てからもう十六年になる。飛び出したその足で当てつけみたいに携帯電話の番号を変えたことを思い出した。両親には引っ越し先も教えなかったし、手紙もハガキも出さなかった。捜索願が出され実家に連れ戻される事も頭をよぎったが、そんなことは起こらなかった。両親とは十六年間、一度も連絡は取っていない。 近ごろ家に一人でいると、過去の思い出で頭がいっぱいになる事が増えた。良い事も悪い事もどうでもいい事も同じくらい思い出した。 今日は夕食に鶏ささみとベーコンと小松菜を使ったカルボナーラを作った。輸入食品店で買ったマレーシア産の胡椒をかけたペッパーを振りかけた。作る前の想像以上に肉々しい見た目になった。 ワイングラスに注いだ炭酸水で口内を湿らせ、カルボナーラを口にした。人生で食べたどのパスタより美味しかった。これを看板メニューにして店を開けるんじゃないか。パスタ屋は日本中にある。他の人に出来るなら自分にもできるだろう。 半分食べたところで急に食べる手が止まった。胃がムカムカして炭酸水でも抑えきれなかった。 馬鹿なんじゃないのか。店なんて開けるわけないだろう。当てのない来客用に無理して買ったモロッカンのパスタ皿にフォークを投げつけた。 私はしばらくパスタを憎むだろう。大家、勤め先の上司、敬愛するコラムニスト。しばらくの間、誰に命じられても食べないだろう。いつもこうだ。都合のいい夢に浸って目が覚めるとすぐに投げ出す。 そしていつも私が見るのは、世界で私だけが成功する夢なのだ。 木目のサラダボウルにシーザードレッシングをかけたレタスミックスが入っていた。一度も口をつけられていないそれはまるでインテリアのようだった。 私はこれを、誰のために作ったんだ。 私の人生にはきっと何も起こらない。これからもずっと。 植物について語るトピを開く。 「この花の名前をご存じの方いませんか?」と画像付きで書き込みがあった。 「サイネリアとノースポール」と私はモニタにつぶやいた。チーズ臭いげっぷが出てこぶしで唇を覆った。画面に息を吹きかけパソコンを閉じた。 どれだけ花の名前を知っていても、それを話す相手がいなかった。 一人暮らしを始めた後も、様々な職を転々とした。引っ越しは一度もしなかったのに、職歴だけはどんどん増えて行った。どれだけ働いても、年々できない事が増えていく気がした。失業保険が切れる前月、面接のため私は久しぶりに早朝のJRに乗った。できるだけ家から近い勤務地を探して応募した。しかし面接だけは本社に行かなくては受けられなかった。都内に出勤するだけでこんなにも人とぶつからなければいけないのか、と思った。誰にも触れられずに都内に電車通勤するなんて不可能に思えた。 新しい仕事は病院の清掃業務だった。私の仕事は病室の床清掃だった。入院患者の病室に入り、ダスターで空拭きをして、その後モップで水拭きをするだけだ。共用トイレや廊下は別の職員が担当した。顧客のいる病室に入ることができるのは専門職なんだよ、と研修初日に教わった。 仕事の引継ぎは三日で終わった。先輩である女性は三日間私に付き添うと、風の様に職場を去っていった。 私の職場は救急指定病院だった。エントランスに院長らしき人とツーショットで映る有名人の写真が貼ってあった。みな体調が悪そうで笑った。 三階建ての建物の一階は外来のみで、二階と三階が入院患者用の病棟となっていた。私の仕事場は二階と三階だった。 この病院には全部で百六十床の入院用ベッドがあり、四人から八人で構成される大部屋が三十五部屋あった。その他に「特室」と呼ばれる個室が五部屋あった。それぞれの大部屋の隅にはオシメからこぼれた患者の汚物が付いた部屋着がどんどんそこに放り込まれた。特室にはソファーとテレビとユニットバスが付いていた。 私は週に五日、一日二十部屋ほどの病室を五時間をかけて回った。ヘルパーが「病室のホコリの九十五パーセントは人間の皮膚組織なんだよ」と教えてくれた。三日に一度回っても、ホコリはいつも溜まっていた。私にはそれが不思議でしょうがなかった。 患者の八割以上は高齢者だった。痴呆や薬の副作用で長時間泣き叫ぶ者も多かった。仕事をしていると「殺してくれ」とか「早くここから出して」などいつもどこかで叫び声が聞こえた。 手のかかる患者の手には、ミトンのような袋が被せられており、悪さができないようになっていた。ナースコールはわざと床に落としてあった。 入院初期に「一日中ここにいると頭がおかしくなりそうよ」と笑って言った老婆が、一週間後に私を口汚く罵った。別の部屋の高齢者の男は、怒鳴りながら同じ内容の指示を三日連続で私に出した。 一人で勤務するようになって二週間ほど経った頃、休憩中に喫煙所で看護師長の女性と話す機会があった。私はアイコスで彼女はバージニアを吸っていた。 「知ってる? バージニアを吸う女にデブは一人もいないのよ」と彼女はタバコの先に火を点けながら言った。 「デブの女は細いタバコを吸わないの。自分が太く見えるから。散々いろんな女を見てきた経験よ。赤のマルボロが一番デブが多い、ラッキーストライクはたまにいる、ピアニッシモは一人だけいた。」 「ねぇ、この話面白いでしょ?」と聞かれて私は精一杯笑った。 婦長は充分に太っているように私には見えたが、それは黙っていた。話し終えると、臭い男の金玉みたいな尻をブルブル震わせながら婦長は去っていった。私は休憩中の方がよっぽど疲労がたまった。 私はよく、機械室で昼食をとっていた。ここにはよっぽどの事がないと、誰も入ってこないと思った。 私が気に入っているこの場所に、ある日先客がいた。顔合わせの際に当院で一番の新入りと紹介されていた看護師の男の子だった。 「誰もいない時此処に来るんす」と彼はろくに話したことない私に軽い口調で言った。 「ほら、病院って毎日すごい量のゴミが出るんす。だからごみ捨ての仕事も多くて。すぐに仕事に戻りたくない時、ここに寄るんす。ご一緒していいすか?」 もちろん、と私は言って、部屋の奥から予備の丸椅子を出して彼に渡した。 女性に指示されながら働いている男の看護師は、べらぼうに背が高いか、平均より小さいかのどちらかだった。彼らは総じて人当たりが良く、コミュニケーションスキルが高かった。いつも変わらぬ姿勢で働く彼らは、女性看護師のメンターみたいに見えた。彼は背の低いタイプの看護師だった。 「ユングは人生を少年期、青年期、壮年期、老年期の四つに分けたんす。ユングは壮年期について内的価値に関心が向かう時期と位置づけました。ユングの事はご存じっすか?」 「私、短大しか出てないから」 「関係ないすよ。学歴なんて」国家資格をもつ人に言われると腹が立った。 「僕だって本と動画の受け売りです。ユングは壮年期を『働き盛りで内的価値に関心が向く時代』と定義しています。でも世間一般では、働き盛りで心身ともに成熟していて、社会的重責を担う年代、と言われているんです」 「社会的重責」と私は口に出した。微かに聞こえる消防車のサイレンのように、一生自分には縁のない言葉に思えた。 「バリバリ働いて重責を担いながら、内的価値に関心がいく時期、ってのは僕にはいささか忙しすぎます。ピリピリもするでしょうし。苦手なんす、忙しなく動くのって」 いささか、と私は声に出した。この子はときどき面白い言葉遣いをする。私にこの年代の子供がいてもおかしくないんだな、と思った。 「僕はいま青年期ですが、良かったな、って思いますよ。そんな時期が来たらすぐにピュ~ってどっかに逃げ出しちまうかもしれない。」 逃げられないよ、と私は思った。そんな簡単だったら、皆とっくのとうに逃げだしているんだよ。そう思いながら私は、「逃げちゃいなよ」と口に出した。 彼はそれには応えず「じゃ俺、行きますね」と言った。彼の肩越しに見える窓から、遠くにある工場の煙突が見えた。 「一時間丸々、ここにいるわけにはいかないんす。休憩時間の半分は、先輩ナースと話す時間を作るようにしてるんす。あえてナースって言いますけどね。処世術ってやつですよ。コツはね、馬鹿になってひたすらしゃべって、相手に僕は自分の事をあなたより下に見てますよ、って態度で知らせるんす。卑屈になっちゃいけません。夏みたいにカラッとやるんす。そして、休憩が終わるときに『まだまだ話し足りない』みたいな顔をするんです。やってらんないっすよね。 大変ね、と私は言った。それは私がずっと逃げて続けてきたことに思えた。 「コーヒーご馳走さま」 「いいんです。だれかに何かをおごりたかっただけすから。そんな時ありません? 肉まんとかペットボトルじゃダメなんす。缶じゃなきゃね。硬さと重みが必要なんすよ。硬くて重い何かを強く握りしめて誰かにハイ、って渡したくなるんす。今回はコーヒーで助かりました。ツレといたら何買わされるかわかりませんからね。今までもそれで何度か後悔したんす」 私は肉まんの姿を思い浮かべながら「午後も頑張ってね」と言った。 彼は私に手を振りながら出て行った。 私は休憩を終え、午後の仕事に入った。最初の部屋の拭き掃除を適当に終え、次の部屋に入った。本日からの新規の患者がいる、と引継ぎが入っていた。 陽の光が良く入る窓際のベッドに枕を背もたれにして女性が座りながら外を眺めていた。 私は思わずベッドにぶら下がったプレートを確認したが、全くの別人だった。 私が立ち尽くしていると白髪まみれの彼女はこちらを向いて 「怖いの」と言った。 彼女の薄い唇は、私のそれとよく似ていて、目の前にいる女性は私が最後に見た母と瓜二つだった。 私も怖いの、と声に出した。 ごめんね。母さんの何の力にもなってあげられない。 「怖いの」と彼女は繰り返した。 彼女の声を聴く度に、私はその場に崩れ落ちそうになった。 私は速足で部屋を出て空き部屋を探し、誰にも見つからぬ様に入り口の扉を閉めた。 暗い湿った部屋の中で、床に向かって「ごめんなさい」と何度も口に出した。 私は聞き分けの良い子供で、素直で従順な女の子だった。 もしかしたらそう思っているのは私だけかもしれない。 いつから私はこんなに偏ってしまったんだろう? 私がワガママを言った事だって沢山あったはずなのに。 こぼれ損ねた涙で、まつ毛がいっぱいになった。 いま変わらなければならない、と私は思った。 いま、抱えているこの気持ちを伝えなければ、私は一生このままだと思った。 どれほどの言葉が必要だろう。十六年前より年を取った両親には、直に話さないと伝わらない事も多いだろう。 私はいてもたってもいられなくなった。 モップの柄を強く握りしめ、病室を出て辺りを見回した。 婦長の背中を遠くに見つけ、私は思わず走り始めた。
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