通れるよ、きみが望めば

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 康介と太郎は少年野球でバッテリーを組んでいた。初めて二人で試合に出た小学四年生の夏からもう二年が経っていた。  康介は背の高いピッチャーだった。スピンの良く利いたストレートと、ドロンと真下に落ちるカーブを上手に投げ分けることができた。他の選手から頭一つ飛び出た身長と彼の身のこなしを見ると、練習を見た誰もが、すぐに彼を主力選手だと当てることができた。  厳しい体育教師も康介の運動神経には一目置いていた。体育の授業でいつも右打席に立つ康介が左打席に立っても、彼は笑ってそれを見ていた。康介の体育の成績はいつも5だった。  太郎も周囲から目立つ体つきをしていた。切り株みたいな太い首から、厚い胸板が張り出していた。腹は胸よりさらに勢いよく飛び出ており、東京ドームみたいな形をしていた。    誰かの家で遊ぶ時、太郎の友人(康介も含めて)はしばしば太郎を床に寝かせ、彼の腹を枕代わりに使った。太郎の腹はいつも取り合いになった。ウォーターベッドの様だという者もいれば、女性の胸をイメージしてふざけて揉みしだく者もいた。体重は学年で一番重いのに、背は康介の方が十センチほど高かった。  皆でユニフォームに着替えた時に、康介と太郎が同じトランクスを履いていたことがあった。 それぞれの母親が同じ店で買ったのだろう。二人の下着は緑と黒のチェック柄をしていた。すぐに彼らはチームメイトに茶化された。二人はパンツ一丁で横並びにされ、写真を何枚も撮られた。康介は太郎と肩を組んで皆と同じように声をあげて笑った。太郎は何も言わずにうつむいたままだった。模様は同じでもサイズは違った。太郎のトランクスは康介のそれを包み込むほど大きかった。 しばらくの間、二人にはあだ名がつけられた。 同じパンツをはいていたのに、康介は丹次郎で、太郎は手鬼だった。 康介はクラスの男子で一番モテた。美形ではなかったが、笑うとドナルドダックみたいな顔になった。お調子者で男気があり、皆が喜ぶのであれば自分がイジられることもいとわなかった。康介は誰からも好かれた。彼がクラスの中心人物であることに誰もが納得していた。太郎は康介とバッテリーを組んでいることを誇りに思った。 家の近い二人はよく一緒に帰った。康介と二人になると太郎はよくしゃべった。 太郎はナイロン製のジャパンと書かれたミズノのペンケースを康介に自慢した。小遣いを二か月貯めて買った、と太郎が言うと康介は「かっこいいじゃん」と言いながら彼の腹をつまんだ。 「昨日の巨人戦見た?」と太郎が聞くと「見てない」と康介は答えた。 太郎は風呂に入るように母にせっつかれ「このバッターまで」と何度も言うほどプロ野球に夢中だった。妹の面倒を見なければならない康介はテレビ自体をほとんど見なかった。 太郎は自分の家の不満を口にした。 「母ちゃんが帰ってくるのが遅いんだよぉ。いっつも九時とかになんないと帰って来ない癖に、帰った途端、ボクにすぐ『風呂入れ』って言うんだ。その間にカルビ焼いてあげるから、って。ボク断るんだ。だって九時って巨人の試合が一番面白い時間だろう? だからカルビ食べながら野球を見るんだ」 「見終わってから風呂に入るんだ?」と康介は聞いた。太郎は首を横に振った。 「食べ終わったら眠くなってそのまま寝ちゃうんだ。テレビを見ながらね。そいで夜中に起きて、母ちゃんに野球の結果を聞いて布団に入るんだ。巨人が勝つと良く眠れるんだよ」 「待った。風呂は? 歯も磨くだろ?」 朝ね、と太郎は静かな声で言った。 「毎日カルビ食ってんの?」 「うん。パックされて最初から味が付いてるやつ。焼くだけであんな美味しいなんて最強じゃない?」 康介はその話を聞いて「いいな」と言った。 「俺ん家はバァちゃんが作るからいっつも煮物か焼き魚だぜ。妹は喜んで食ってるけどな 」 二人は自然と明日の試合の話を始めた。明日の相手は二人がバッテリーを組み始めて一度も勝ったことのない同地区のライバルチームだった。 太郎には別の心配事もあった。一つ年下に小柄で機敏な動きをする後輩のキャッチャーがいるのだ。先週の試合後にコーチが太郎に「ファーストをやらないか」と言った。そしたら今よりバッティングに集中できるぞ、と彼は言った。太郎はそれを断った。 ヘマをすると、キャッチャーのレギュラーを取られるかもしれなかった。 「ボクなんかいなくても勝てるんだよ」と太郎は言った。言った後で康介の顔をちらりと覗き込んだ。 「なに弱気になってんだよ。いつも接戦じゃんか。明日は絶対勝つぞ」 太郎はその言葉を聞いて安心した。ホッとしたついでに試合後に康介とハイタッチする姿を思い浮かべた。 「太郎にしかできないこともたくさんあるよ」と康介は言った。 駄菓子屋の前で立ち止まり、二人で小銭をかき集め、凍ったチューペットを分け合って帰った。 フレームにジョルノ・ジョバーナがプリントされた紫のクロスバイクが彼らの横を走り去った。二人はその自転車をじっと見つめていた。 翌日行われたライバルとの試合は勝つことができた。初回に相手のエラーもあり二点を先制し、康介と太郎のバッテリーは最後まで一点も与えなかった。 太郎は異常なほど多く康介にカーブを投げさせた。それが勝利への一番の近道だと思った。試合の途中で審判が配球に関して声をかける程だった。監督やコーチの助言も一切聞かなかった。康介は太郎のサインに一度も首を振らず、時に雄叫びを上げながら投げ続けた。太郎は自分の力を誇示するようにサインを出し、康介の投げる球を体を張って止め続けた。下級生の控えキャッチャーに最後まで出番はなかった。昨日、太郎が頭で思い描いた通りに試合後に二人は真っ先に手を重ね合わせた。 ベンチに帰ると康介は控えのメンバーや父兄に次々にハイタッチや握手を求められ、その全てに左手で対応した。彼が右手で応じたのは太郎一人だけだった。  週明けの月曜日から、運動会に向けてクラス対抗競技である棒倒しの練習が始まった。六年生のみが参加する棒倒しは、クラス内で攻撃と守備のいずれかの役割に分かれ、揃いのハチマキをして上半身裸でグラウンドを全力で駆け回り、他クラスの生徒と互いの肉体をぶつけ合いながら三メートル程ある相手陣地の木製のスティックを力ずくで倒し合う競技で、最上級生だけが参加できる小学校生活で一度しかない花形競技だった。  太郎はこの競技が嫌いだった。前の年から棒倒しに参加することが憂鬱で仕方なかった。  校庭で整列し教師の話を聞きながら、太郎は短パンの腰ひもの上に乗った自身の贅肉を指でつまんだ。 彼は何より、女子生徒の前で半裸になるのが恥ずかしかった。 理由はもう一つあった。太郎に与えられるであろう【土台役】が嫌で仕方なかった。 土台役とは守備の中心役で、相手を正面から迎え撃つのではなく、一人だけあぐらをかいて座り、スティックに足を絡め抱きついて決して離さず、相手に容赦なく傾けられる自陣のスティックの命を、一秒でも長く生き長らえさせる重要な役割だった。 機敏さには欠けるが腕力があり体格が良く、クラスで一番体重が重い生徒がその役割を担うことが多かった。土台役が耐え切れずスティックを離せばその瞬間に勝負が決まる、過酷で重要な役割だった。 太郎は前年に上級生の戦いを見学した際、ずっと土台役の生徒を見ていた。試合中の土台役の生徒はあぐらをかいて座っているので、その姿は他の守備陣に隠れて見ることができない。試合中に幾度も踏まれたり蹴られたりしたであろうその上級生は、終了のホイッスルが鳴ると顔も体も砂だらけで、一人だけ鼻血を出して涙を流していた。 太郎はその先輩の姿を見て、自分は絶対に土台役はやらない、と心に誓った。  攻撃役の生徒の選抜はすぐに終わった。康介を含めた彼らは、誰を先頭にどういった陣形で攻め込むべきか作戦を練り始めた。彼らの声音は終始弾んでおり、皆イキイキとした顔をしていた。  土台役だけが決まらずにいた。立候補制を取ってはいたが、守備役を担う誰もが太郎のことを見ていた。しびれを切らした康介が守備陣の輪の中に入った。土台役の件を知ると太郎に向かって言った。 「おい、早く練習しようぜ。お前が土台役に決まってるだろう」 太郎は康介と目を合わさず、指で首を掻きながらそっぽを向いて「ボクはやらない」と言った。太郎はその後も康介の問いかけを無視し、しびれを切らした康介は別のクラスメイトに土台役を頼んだ。背は高めだが運動経験のない、心根の優しい生徒だった。  敵味方に分かれ実戦練習が始まると、すぐに実力差が露骨に表れた。攻撃陣は笛の音と同時に相手陣地に突っ込み、グラウンドを縦横無尽に駆け回った。翻弄された守備陣は大した抵抗もできずにあっさりと敗れた。スティックを倒されても悔しがるものは誰もいなかった。問題の大部分は身体能力ではなく、精神面の差にあった。  始めはスティックを倒すと喜んでいた攻撃陣も、回を重ねる毎にその熱を失っていった。 体育教師が何度生徒を鼓舞しても、状況は悪化していった。 土台役の生徒だけが何度も「ゴメン」と言った。 鈍重な太郎のタックルは一度も相手を足止めできなかった。 授業の終盤、プレーが中断した所で、康介は右腕を振り上げ「いい加減にしろよ」と言って太郎を思いきり殴った。拳は太郎の頬骨に真っすぐ入り、彼は背中から地面にたたきつけられた。 「土台はお前やった方が強いに決まってるだろ!」と言うと、康介は校舎に向かって歩き始めた。彼が建物に入るのと同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。 康介と太郎が仲違いするのは初めてだった。 太郎は保健室に行ってアイスバッグをもらい教室に戻った。 康介は制服に着替え、とっくに早退していた。 康介の家は戸建てが林立した住宅街の中にあった。その地域は形状こそ異なれど多くの家が二階建ての戸建て住宅で、アパートやマンションはほとんどなかった。どの戸建の前にもギリギリ一台分しか停めれないような狭い駐車スペースがあった。康介宅の駐車場には、個人タクシーを営む父親の黄色いコンフォートがいつも停まっていた。康介の父はあまり熱心に働いていないようだった。 康介に殴られた日の放課後、部活が休みだった太郎は一度家に帰り康介の家に向かった。母方の実家から贈られてきたデラウェアをお裾分けするのを口実に、太郎は仲直りを図ろうとしていた。  仲直り、とはいえど太郎は自分の言動が間違っているとは思っていなかった。太郎は殴られてから家に帰るまでずっと、棒倒しの練習での自分の振る舞いについて考えていた。 やりたくないものは仕方ないじゃないか、と太郎は思った。土台役を決める際のクラスメイトの視線を思い出した。なんでボクが土台役なんだ。他人より体が大きいのはボクのせいじゃない。土台役なんて汚れ仕事、誰かに押し付けたいだけじゃないか。 母ちゃんの田舎から贈られてきたブドウを渡して少し話せば康介の方から謝ってくるだろう。 錆びかけた鉄製の門扉を開け、太郎は玄関ドアの横についた呼び鈴を押した。中から反応があるまで、指先に付いたホコリを眺めた。出てきたのは康介の母親だった。 「あら、太郎ちゃん。久しぶり。元気?」と彼女は言った。太郎は声を出さずにうなずいて答えた。 「いま康介いないのよ。病院に行ってんの、阿久津さんとこ」 病院? と太郎は思った。どうして康介が病院に行く必要があるんだろう? 「手に持ってるのなぁに?」と聞かれたので、太郎は彼女にデラウェアが四房入った紙箱を渡した。中を見て彼女はとても喜んで「夜勤明けの楽しみができたわ」と言った。太郎は自分が褒められたようで恥ずかしくなりうつむいてアゴをポリポリかいた。気を逸らそうと框の隅に立て掛けてあるスリッパに目をやっても、ニヤつくのを抑えられなかった。 彼はまだ一言もしゃべっていなかった。 「とりあえず上がりなさい。康介しばらくしたら帰ってくるから」と言って康介の母はスリッパをマットの上に並べた。太郎はスリッパをはかずに框に乗り、玄関に向き直り自身の履いてきたスニーカーを揃えた。揃い方が気に食わず何度かやり直した。家ではそんなこと一度もしたことはなかった。背筋を後ろに傾け、目を細めて最終チェックをした。 スリッパを履いて振り向いた時には、玄関には誰もいなかった。 「そろばんを休んで接骨院に行ってるの」と康介の母は言った。 マグカップ一杯に注がれたアクエリアスを見ながら、せっこついん? と太郎は言った。自分で声に出しても、どんな場所なのか解らなかった。 「どこか悪いんですか?」 康介の母は自身の右ひじをポンポン、と二度叩いた。 「わたしもマッサージはしてあげるのよ、特に試合の後はね。それでもやっぱり朝起きたら痛いみたいなの。完投した日はね、いつもこーんなに腫れるの」と彼女はハンドパワーを使う人みたいに指を広げて言った。 「それは痛いんですか?」 「治療のこと? マッサージのこと? まぁどっちにしても痛そうね。ご飯左手で食べたりしてるし」 確かに康介は試合の後、いつもひじを冷やしていた。周りのチームのエースピッチャーも皆そうしていた。太郎はそれがどれだけ辛いことなのか知らなかった。 康介しかピッチャーがいないんです、と太郎は言った。言った後で着ているロングTシャツの裾をきゅっ、と握った。 彼女は太郎の頭を撫でながら「タロちゃんが謝ることないじゃん」と言った。 「懐かしいね、この呼び方」と言って、自分用のマグカップに入ったコーヒーを大事そうに口に運んだ。 「昨日はね、特に辛かったみたい。ひじだけじゃなくてね、親指の付け根にポコン、ってて突起ができてたの。触るとゼリーみたいにグニグニしててね。こんなの初めてなの」 僕がカーブを投げさせすぎたからだ、と太郎は思った。手首をひねって負荷をかけて、僕のせいで痛くなったんだ。 そのことを彼女に言おうとしてもどうしても声に出せなかった。自分は何てズルいんだ、と太郎は思った。 「そうだ。このこと誰にも言うなって言われてるんだった。まぁ、太郎ちゃんだからいっか」と言って彼女は「ブドウ食べる?」と声をかけた。 「なんでそんなに強いんですか?」と彼は[誰かに向かって]尋ねた。聞いてすぐに、とても惨めな気持ちになった。 答えは何も帰ってこなかった。 僕はいっつもどこも痛くない、と太郎は思った。どんな練習をしても、どれだけ長い試合をしても、寝て起きたらどこも痛くなかった。 康介はいつも泣きごとを言わない。 僕に対してすら言ったことはなかった。 もしかしたら【僕だから】言わなかったのかもしれない、と太郎は思った。 仲が良いだけでは、もう康介の横に立つ資格はないと思った。 門扉まで見送りに来た彼女に「昨日、あのチームに初めて勝ったんです、ボクたち」と太郎は言った。 へぇ、と言って彼女は、門柱の上にあるシーサーの頭を何度か軽く小突いた。 「そんなこと言ってなかったけどな」と口をとがらせながら彼女は言った。 それはまるで太郎たちと同い年みたいな表情だった。 帰ります、と言った太郎を引き留めて、彼女は「楽しみなさい」と言った。 太郎はろくに返事もせずその場を後にした。 太郎は近くの公園を目指して早足で歩き始めた。着くまで泣くまい、と思っていたのにその願いは叶わなかった。 着古して生地がよれたロングTシャツで何度も涙をぬぐった。 歩けば歩くほど、みるみる陽が落ちて行った。すれ違った青年が、ダウンのジッパーを上げた。 時間が経つほど、太郎の涙だけがどんどん熱くなった。  太郎は三方を戸建てに挟まれた小ぶりな公園のブランコにゆっくりと腰掛けた。ここに座るまで泣くまい、と我慢していた涙はとっくに枯れ、乾燥で痒くなった頬を太郎は何度もかいた。カラスが遠くで素っ頓狂な声を出し、街に夕暮れの終わりを知らせていた。  太郎は初めに康介のことを考えた。彼の抱える右腕への痛みを思い、改めて胸を痛めた。 やっぱり謝るのはよそう、と太郎は思った。もし明日すぐに謝れば、康介はいつもの笑顔で簡単に許してくれるだろう。ボクだって少しでも早く仲直りしたい。 でも今回はそれではいけないのだ。これまで過ごしてきた時間や信頼に甘えたくはなかった。 そこまで考え終えると、太郎は自分のこと[だけ]を考え始めた。他者からの評価や自分の人生で起こった出来事を分析し、とことん己と向き合った。園内の街路照明が灯るのと引き換えに、辺りには太郎以外誰もいなくなった。 彼は根っからのキャッチャー気質だった。自分にとって大切なことを考え始めると、結論が出るまでトコトン何時間でも考え抜くことができた。 いくつかの星が控えめに姿を現し、家路に向かうサラリーマンの姿が目立つようになった。ケータイが何度も震えていることにも、ブランコの鎖を握っているせいで手にシワがついたことにも太郎は全く気づかなかった。今の彼には巨人もカルビもどうでもよかった。 深く息を吐き、思考を中断すると目の前に鉄棒が見えた。 太郎は鉄棒も苦手だった。ほとんどのクラスメイトは逆上がりもできるのに、彼は前回りすらできなかった。体育の授業中も、友人との話に夢中なふりをしてやり過ごした。いつも適当で陳腐な理由を並べて逃げ続けた結果だった。  太郎は今なら克服できると感じ、駆け足で鉄棒に向かい周囲に人がいないのを確認して息を整えた。バーを順手で持ち、自分の体を腰まで持ち上げて、恐怖を感じる前に目をつむってグルリと回った。 付いた足は無様に後ろに滑り着地には失敗したが、一度回れるようになると前回りなんて簡単じゃないか、と太郎は思った。自信がついた彼は、シンプルな前回りを何度も何度も繰り返した。気の済むまで回り乱れた三半規管を整えている最中に、彼はとっくに夜が更けていることを知った。  翌日の昼休みが始まってすぐに、太郎は教室で大声を出して男子生徒を集め、皆に自分が棒倒しの土台役を務めることを告げた。男子生徒を一斉に集めるために大声で走り回ったので、クラスにいたほとんどの女子生徒も驚きながら彼に注目した。 太郎の決断を聞いて、男子生徒たちは彼の決断を歓迎した。康介はアゴをしゃくりあげ、ん、と短い返事をした。もしかしたら声なんて出ていなかったかもしれない。でも太郎にはそれでよかった。康介よりずっと、男子生徒たちの方がよっぽどホッとした顔をしていた。 康介は太郎の前に立ち、右腕を高く上げハイタッチを促した。太郎が腕を上げた途端、彼の腹に康介の前蹴りが入った。 康介のズボンのウエストから、黒とミドリのトランクスが覗いた。太郎のTシャツの腹の位置に、くっきりと康介の足あとが付いた。 それを合図にクラスメイトが次々と太郎に群がり、彼の腹の肉をつまんで笑顔で逃げていった。 康介は文句を並べる太郎の背後にそっと回り、彼のズボンを勢い良く下ろした。 卒業の日まで、太郎のあだ名は「岩柱」になった。
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