01.悪女

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01.悪女

 ()の皇帝を打ち倒し、長きに渡る戦に終止符を打て。  それが、アルフォンソが父より与えられた王命だった。  鮮血が降り落ち、厚みを増した豪奢な絨毯は、歩みを進めた先から足音を吸い込んでいく。むせかえるような鉄の匂いと、積み重なった死体の山。 (これが夢であったなら、良かったのに……)  アルフォンソの周りを囲む直属の騎士たちは、誰もが優秀だった。相手側の兵士はアルフォンソに指一本触れられぬまま、剣戟に斃れては命を落としていく。  将軍として、敵の命を奪えと命じたのは己だ。それでも、この惨状を見てしまえば、口の中に苦いものがこみあげる。圧倒的としか言いようがない力の差だった。  それなのに、絨毯を踏みしめ進める脚は、愚かにも震えていた。  ――なぜだ。  敵との力量さは、すなわち国力の差とも言い換えられる。  すでにガノア帝国は壊滅寸前。帝都はとうに陥落し、戦える兵力はほとんど残っていない。かつては帝国の味方だった国も、こちら側に引き込んでいる。いまやガノア帝国に助太刀する国はなく、兵糧だって十二分に勝っている。  そう、今からガノア帝国が勝利する見込みは皆無と言っても良い。そうだというのに、アルフォンソの胸には名状し難い不安が渦巻いていた。  王が求めるのは、目の前の玉座に鎮座する皇帝の首。皇帝の息の根を止めるまで、この不安が尽きることはない。  妾腹の子とあって、王の子として一番先に生を受けながら、アルフォンソの地位は不安定だった。幸い、王はアルフォンソに少なからず目をかけてくれている。この戦で武勲をあげることで、少しでも自分の地位を確固たるものにし、王の期待に応えなければという思いがあった。  アルフォンソは覚悟を決め、己の腰に下げていた剣を引き抜いた。天窓から射す血のような夕暮れの赤が、刃に反射する。  赤光を受けてなお、玉座の上の皇帝は我関せずといった様子でアルフォンソを見ている。 (やはり、狂っている……)  喉の奥から響くような笑い声をあげた皇帝は、焦点の合わないアイスブルーの瞳でアルフォンソを睨め付けた。  アルフォンソの父とそう歳も変わらないだろうに、老人のように真っ白に変化した毛髪。片手には、戦場には似合わぬ宝石の嵌め込まれた金色のカップを持っている。血管の浮き出る手は皺だらけで、細かく震えていた。  老人のような見た目と、それと反する生命力に溢れた血走った瞳。これ以上見ていたくないと思うにもかかわらず、視線を逸らすことを許さないとでも言いたげな眼光の強さだった。  そして、この光景をさらに異様にしているのが、皇帝の側に控えている女だった。  皇帝とは反対の、夜空をそのまま映し取ったかのような豊かな漆黒の髪に、真白の肌。紫水晶のごとく煌めく瞳は、吸い込まれるような神秘的な色をたたえている。大きく胸元が開いた紫紺のドレスは、彼女の豊満な肢体を美しく彩っていた。戦場には不釣り合いな美女は、すべてを見透かすような視線でアルフォンソをじっと見ているのだった。  ——ガノア帝国の皇帝は狂っている。    噂はかねがねから聞いていた。そして、かの賢帝を狂わせた悪女(ファム・ファタール)、皇后アドリーヌ。彼女の存在により、賢帝は愚帝へと変貌してしまった。  彼女の一族を重用し、古くからの臣下を軽んじた。当然気に入らない臣下たちとの間には確執が生まれ、そんな臣下たちを疎んだのか、皇帝は次第に(まつりごと)から離れ始めた。失策が増え、その帳尻を無理やり合わせるために重税を課した。農作物は育たず、民たちは貧困にあえいだ。その結果、路頭に迷った子どもは盗賊となり、少ない物資を盗み合った。かつて賢帝と言われた皇帝の御代は、こうして崩れていった。  愚帝のために、命を賭した兵たちは、何を思ったのだろうか。思いを馳せていても、死体の山は何も言わない。  皇帝を殺し、王国の統治下に置いたほうが民のためである。そう言ったのは、父王だったか。アルフォンソも頷いた。そうするのが賢明だと。 いつの間にか、口の中はからからに乾いていた。 「最後に聞く。降伏という選択肢もあるが?」  思いきって声をかける。皇帝のアイスブルーの瞳がアルフォンソを見つめた。狂人とは思えないほど、澄んだ瞳だった。その瞳の中に、救いを求めるような切実な光を見た気がして、アルフォンソは思わず息をのむ。 「ふふっ。ふふふふふ」  皇帝が答えるより前に、笑い声をあげたのは皇后だった。 「何がおかしい」 「ふふふ……ははははははは」  皇后の高らかな笑い声は、よく響いた。アルフォンソの問いかけにも構わずひとしきり笑い、そして表情をなくした皇后はアルフォンソを見つめた。 「哀れね」 「……哀れ? それはお前らの方だろう」  民を失い、臣下を失い、国を失い――。  賢帝と言われた男のすべてを奪った悪女は、ただ優雅にほほ笑む。 「そうかしら? そうかしらね?」  私はそうは思わない、と皇后は呟いた。  視線の合わない皇帝の手を取り、そしてそこに口づけを落とす。この狂人を、心から愛しいと思っているような、恭しい口づけだった。皇后の行為に何も反応を示さぬ皇帝は、ただアルフォンソをじっと見つめている。 (終わらせろ、とでも言っているのか……?) 「殿下」  後ろから、部下の急かす声が聞こえた。  ここにいるのは、丸腰の皇后と、狂人と化してしまった皇帝だけ。首さえとれば、すべてが終わるのだ。  覚悟を決め、アルフォンソは刃を振りかぶった。まっすぐに落ち着いた瞳で、皇帝はちらとこちらを見る。一瞬胸に感じた戸惑いを隠すように、ただ腕に力を込め、大きく振り落とした。  ぐっと強い感覚があり、あたたかい血が噴出した。ごろりと足元に落ちた首は、今はただ宙を見る。その首さえ愛おしげに拾ったのは、皇后だった。皇帝の血しぶきを一心に浴びた姿は、まるで悪魔のように見えた。  皇后はにっこりと笑い、こちらに首を差し出す。 「さぁ、殺して」  その声に答えぬまま、アルフォンソはもう一度剣を振りかぶる。先ほどより、いささか軽い感触がして、簡単に皇后の首も落ちる。落ちた首は、死を迎えたというのに艶やかな笑みを薄っすらと浮かべていた。  人を殺したのは始めてではない。それでも眼前の光景に吐き気を催しそうになり、ぐっと耐える。部下たちが見ているのだ。目を閉じ、不快感が消えるのを待ってから、アルフォンソは床に落ちた皇帝の首を掲げた。 「我らの勝利だ!」  王子として、将軍として、相応しい声を出せていただろうか。  こうして、百余年にわたるガノア帝国の歴史は幕を閉じたのだった。
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