壺の碑(いしぶみ)

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 ワタシは今、あなたが買ったマンションの部屋の前の廊下で、出来立てのメロンパンみたいな色した手すり壁に頬杖を突きながらあなたのことを考えています。 今日はお家に招いてくれてありがとう。とっても嬉しかったわ。親友の幸せそうな顔を見るのは、いつも気分が良いものですね。 それにしても、ねぇ、こんなに良いお部屋いくらで買ったの? 詳しくは聞けなかったけど、けっこうしたんじゃない? ううん、違うの。ネットの金額は確認したわよ、当たり前じゃない! 私が聞きたいのはホントの値段。ちゃんと交渉したんでしょう? 六階の角部屋じゃ値切るなんて無理か。新築だもんねぇ。頭金はいくら貯めたの? 親は出してくれた? 多恵のお家はともかく、裕司さんのご実家はかなり持ってそうよね。それにしてもあなた達、まだ子ども増えるかもしれないのに、もうこのマンションに決めちゃって良かったのかしら?  同じ階のお宅のドアから、豆まきをする家族の声が聞こえます。そっか、今日は節分だったか。なんて気づかない振りして、あなたに豆や鬼のお面を買いに行ってもらったのはさすがにちょっとクサかったかしら? 文句も言わず買いに行ってくれてありがとう。ワタシが行った方が良かったかな? でも一応、今日はお客さんだしね。「トシ君の生まれて初めての豆まきを一緒にできたら一生の思い出になるわね」ってキラキラした目で言われた時、アタシさすがにグッと来たわ。そんな言葉をこの年になっても照れずに言えるのがあなたの良いところよね。そんなところは昔から本当に尊敬しています。 多恵ちゃん、裕司さん、トシ君。本当に理想的な家族。 あなたと出会えて本当に良かった。 少し寒くなってきたわ。外に出てまだ十分も経ってないのに。手がかじかんで、指先の感覚がなくなって来たの。揉んでも息をかけても全然温まらない。子供の頃はこんなことなかったわよ。二月だろうが何だろうが、スカート履いて生足出して。三十歳になると急に寒さへの免疫が弱くなるのかしら? 多恵はどう思う? 風は吹いてないの、全然ね。たった今、車を運転しているあなたには分からないでしょうけど。日向は暖かいけど、日陰になると全然違うの。マンションの廊下なんてほとんど日陰だもんね。 そっか、ワタシはもう三十歳で、多恵と出会ってもう二十年になるんですね。  小学四年の二学期だったかしら? 席替えで隣になって初めてあなたと話した時、多恵はワタシの名前を褒めてくれましたね。多恵の持ってるルーズリーフにわざわざワタシの名前を書かせて、あなたそれをじっくり眺めてたわ。視線で文字が焦げちゃうんじゃないかってくらいそれを見た後で、「茉里奈ってやっぱ可愛い」ってこちらを向いて言ったの。育ちの良い羽毛みたいなまつ毛から覗くあなたの黒目が資源に満ちた惑星みたいで、ワタシ吸い込まれそうになったのを覚えてるわ。 誰もが認めるクラスの中心人物! ってわけじゃないけど、あなた存在感はあったわよね。 相手が誰であっても気持ちのトーンを合わせられるのが、あなたのすごいところなの。のんびりしてる娘には、ただ傍にいるだけ。自称毒舌家と話すときには、その娘も引いちゃうような悪口をかましたりして!  そつなく、隔てなく。 とにかく相手とキッカケを作って二人だけで「ウンウン」って頷いて。ささやかな秘密を共有するのが上手かったわよね。 授業や行事にも真面目に取り組むわけでもないし。それでも上手くやってた。誰に媚びているわけでもないのにね。 ワタシの方は全然ダメ。綺麗になるまで片付けましょう! と言われたら、止められなくて一生掃除しているようなタイプ。 あなたが一番よく知ってるわよね? でも多恵は違うわ。程度、ってものを知ってた。適当、いい塩梅。 ねぇ? いい加減って「好い加減」って事みたいよ。 あなたはそれを小さいころから知ってた。とにかく力の抜き方が上手だったわ。 最近になってようやくそれに気が付いたの。三十を過ぎてようやく! でも、もう遅いの。ワタシにはそれがわかるの。理解と実行は別物だから。 これでもワタシ、随分ましになったのよ。誰かと意見が合わず議論が始まると、すぐに押し黙ってしまうような女の子だったでしょう?  「思ってること伝えなきゃ!」って多恵はよく言ってくれてたわよね。相手だってケンカしたいわけじゃなくて、ワタシの考えてることを知りたいだけなのにね。ワタシはミスをして相手を傷つけるのが怖くて、時の流れにすがって相手が諦めるのを待ってた。 年を取るとわかるのよね、そういうのって。 辛いことが起こった日、あなたはよくワタシを励ましてくれましたね。 ねぇ、覚えてる? ワタシが落ち込んでた帰り道、あなたいきなり他人の家のチャイムを押して、出てきたおばあさんと話し始めたの。あなたは丁寧にお辞儀をして、近くの花壇に行って、優しくキクの花といくつか野草を摘んで「ウチおいで」ってワタシに言ったの。 ついていくと、周りが茶色くて細い家ばっかりになって、その中にあなたのお家があった。 家には誰もいなくて、あなたはシマ模様の少し大きなエプロンをしてワタシにキクのお浸しと野草の素揚げを作ってくれましたね。いま思うと、あの年で揚げ物って結構危なかったんじゃない? でもおいしかったな。 他にもいろいろ教えてくれたね。あなたはわかりやすく励ますことはしなかったけど、辛い日はいつもワタシに何かを教えてくれました。 食べれる花があることも、メバルが晴れの日に鳴くことも、全部あなたに教わりました。 多恵は時に嘘つきでしたね。けれどあまり人を傷つけない嘘つきでした。 ねぇ、この話覚えてる? 五年生のころ、私達は夏休みの多くの日に開館前から図書館に並んで、ヤングアダルト用の席で宿題とか読書とか、時には小声でおしゃべりなんかしてた。あなたはいつも館内が良く見渡せる席に座って、ファーに包まれたピンク色の筆箱を円卓の一番目立つ場所において、ワタシと話しながらいつも何かを気にしてた。 ある日、ワタシが席を外した時に、何かの拍子にふと席に戻ろうとしたの。そしたらあなた「これ、落とし物です」って嘘をついて、ワタシの被ってきたキャップを図書館のお兄さんに渡してた。 お兄さんは少し屈みながら笑顔で「ありがとう」って言ってその場を離れようとしたけど、あなた必死で引き留めて、拾った時の状況とか細かく話してた。 好きだったのよね、あのお兄さんのこと。話すきっかけが欲しかったのよね。席に戻ったワタシは、夕方までキャップを失くしたのなんか気がつかないふりをして、あなたと別れた後に図書館に取りに戻った。 いいえ、そうじゃないの。謝らなくったっていいのよ。可愛い話じゃない。そんなつもりで思い出したんじゃないの。 そういえば図書館行く時、あなたいっつもマドンナの写真がプリントされた黒いトレーナー着てたでしょう? 自分の手札の中で、一番大人に見える格好で彼に会いたかったのね? 今思うと笑っちゃうわね。 あなたの学校生活に辛いことなんて何もない様にワタシには見えていたわ。でもそんなわけない。当時はわからなかったけれど、もちろん色々あったのよね。ワタシが気付けなかっただけ。 一度だけ、あなたがワタシに怖い顔を見せたことがあった。高校生の時、ワタシの家で二人でホームドラマ見てたの。 「貧乏だけどあったかい。なんていうヤツ死ねばいいのよ」ってあなた言ったわ。 自分のことしか見えていなくて、何も気付けなくてゴメンなさい。 仲良くなって何年か経ってからあなたは急に、ワタシの茉里奈って名前が気に食わない様子になりましたね。多恵だってそんなに悪い名前だと思わないけど。 ワタシの恥ずかしい話もしようかしら。あのキルティングコート! 合コンの時、あなたに内緒で用意して着て行ったの。覚えてる?  ピンクでテロテロした光沢のある生地で、白くておっきな太いベルトと、もっとおっきな白いファーが付いた最悪のやつ! いつも二人で買い物に行くけど、あの時だけワタシあなたに内緒で買い物してたの。 一人で着た時は「ワタシに着られる為に用意された服だ!」って本気で思ったのよ。 でも違った。すぐにわかったわよ、待ち合わせ場所での皆の反応見たらね。 よりにもよって、なんであんな服着て行ったのかしら? 帰り道に近くの服屋のスタンドミラーであなたにも着てもらったわ。とっても似合ってた。掛け値なしにね。 ワタシが着ると、不思議の国のアリスのトランプ兵みたいになっちゃうのよ。 なんでかしら? 身長も体型も顔の大きさも似てるのにね? 肩幅の違い? あなたはワタシに「似合ってるよ」って言ってくれたわ。 あれ、本気? どう客観的に見ても、ワタシは多くの集団でも浮いてしまうタイプの存在だったと思います。 あなたがいなければもっと悲惨で陰鬱で、色の少ない学生生活だったことでしょう。 また少し寒くなってきました。雲が太陽を半分隠してワタシに意地悪をします。 ねぇ、あの雲なんか裕司さんに似てない?  まだお昼を過ぎたばかりなのに、あなたが買ったマンションの廊下は、なにか化け物でもいるんじゃないか、ってくらい怖くて冷たい。 この世に【温かみのある廊下】なんてものは存在しないのかしら? どう思う? 人工的で苦みのある明るさか、容赦ない嘘で固められたような静けさ。 ワタシはどちらかしか知らない。 ねぇ、多恵。ワタシ、あなたにとっても感謝してるのよ? 初めて彼氏ができたのはあなたよりずいぶん遅かったけど、処女を捨てたのはワタシの方が早かったと思うわ。多恵ってそういう所、意外と古風でオクテだったじゃない? お互いに就職してからも、私たちはいろんな話をしたわね。色々あって、ワタシは男に幻想なんて持ってなかったし、仕事も楽しかったから結婚なんていつでもよかった。 でもあなたは二十代で結婚することに随分とこだわってたね。 「お手柔らかにね」って言われて呼び出されたレストランで、あなたは裕司さんを紹介してくれましたね。彼はお店の椅子が気の毒になるくらい逞しい体つきをしていて、たくさん汗をかく、何かとよく笑う男性でした。彼はとってもお腹が空いている風だったけど、多恵が話し始める度にいちいち手を止めて、いつもより良くしゃべるあなたの顔を見ていました。 多恵がいつも選ぶタイプの男性じゃなかったけど、ワタシは一目見てお似合いだと思ったよ。あぁ、ワタシの親友はこの男性を生涯の伴侶に選んだんだな、って知ることができてワタシも幸せな気持ちになった。 だから裕司さんだけ先に帰して二人で飲みなおした時、あなたが言ったことはワタシには意外だった。 「彼と二人で会って、茉里奈と浮気しないか確かめてくれない?」 あごを下げていつもより目をおっきくして、カクテルグラスに掛けてあるライムをかじりながら、何でもなさそうな声であなたは言った。 ワタシがいくら断っても「絶対、最後まではしないでよね」って繰り返した。 逃げられない、って気づいた時にはワタシのゴブレットの中身はとっくにぬるくなってた。(ねぇ、あのとき私達なに飲んでたっけ?) ねぇ、多恵。 あの時きっぱり断ってたら、私達今頃どうなってたんだろうね? ワタシの方から彼と約束を取り付ける必要はなかった。段取りは多恵が上手にやってくれたわね。 裕司さんからあなたへの誕生日プレゼントを選ぶ名目で、ワタシは裕司さんと二人で会った。 思ったより全然早くカタがついて、ワタシがあなたにあげる予定のプレゼントも、彼と一緒に選んだ。 ワタシずっとドキドキしてた。だって男の人を誘惑したことなんてないんですもの! だから彼の行きつけのバーに誘われた時、あまり上手く話せなかった。彼が道化になって笑わそうとしても、学生時代のバカ話を聞いても、あんまりうまく返事できなかったの。 彼は意外なことを言ったわ。「多恵との関係が冷め始めている」って。マッカランを舐めるのと同じスピードで、ワタシに構わず理由を話し始めた。聞けば聞くほどワタシ腹が立ったわ。この男なんて頭が悪いんだろうって思ったの。 自分の彼女の親友にそんなこと無防備に話す? ワタシが告げ口するかも、とか考えないわけ? 何か言ってやろうって顔を上げたら、裕司さんとっても悲しそうな顔してた。最初からこっちなんて見てなかったのよ。だからワタシも、彼の話が途切れたところで自分の話をしてやったの。 今の職場がタイピングが早くないと使い物にならないこと。自分のペース、という実体のない物がいつまでも経っても掴み切れずに、仕事中とてもストレスが溜まること。どの職場でも初めは上司に褒められること。 「でもそんなのはいつも長く続かないんです。ワタシが成長していないと見えるらしくて。 周りに遅れないように一生懸命になる事はできるんです。でもそれだけ。努力して他人より少しでも前に出て、目標がなくなった途端にワタシは駄目になるんです」 そこまで一気にしゃべると私達は黙りこくって、各々の目に映る景色をしばらくの間、眺め続けた。 お互いに自分の話をしただけ。ホントよ。 それでも私たちの間には、確実に新しい何かが産み出された。 同じ電極を無理に近づけた時みたいに裕司さんとワタシの間には、抗いがたい身勝手な力と、どこにも捨て置くことのできない未熟な熱を帯びた空気が流れていた。 ねぇ、多恵。 ワタシちゃんと断ったの。断ったはずなのよ。 でもね、あのとき彼にどんな誘い方をされたのか。 そんなことすら、今のワタシにはもう思い出せないのよ。 ワタシと裕司さんの心が繋がるまで、それほど時間はかからなかった。少なくともワタシはそう思っていた、さっきまではね。 二人で会ったその日から、私達は何度も逢って、何度も何度も交わった。 彼はいつもワタシの乳首をたっぷりと舐めたわ。ほら、ワタシのってけっこう膨らんでるじゃない? 初めは彼のセックスに良い印象を持てなかった。いいえ、罪悪感とかじゃないの。単に淡泊で粗野で気が利かなくて、終わるのがとっても早くって、私の趣味と会わなかっただけ。 でもある日から、彼はセックスの前にワタシのお腹にすがって、如何にワタシを抱きたいかしゃべりまくって、泣いて泣いてお願いする様になった。ワタシも簡単には許さないの。時間を掛ければ掛けるほど、彼の瞳には艶が出てきて、口角が泡で一杯になって、ワタシはそれでも絶対に彼を許さないの。 焦らすと声音がどんどん高くなるのよ、全くもう! なんでかしら? たっぷり待たせた後で激しく交わって、食事をしてからもう一度するの。 私達はいつも、SM風のセックスと素朴で緩やかなセックスを一度ずつしてたの。 裕司さんはワタシの手料理をいつも美味しそうに食べたわ。初めは作るの嫌だったのよ。 だって彼、大手百貨店の物産展の企画担当でしょ? 日本中の美味しい物を沢山食べているでしょう? それでも彼は、素人の作るポトフを文句も言わず喜んで食べた。 スプーンを咥えたまましゃべるから「汚い」って注意したら、「だってスプーンがうめぇもん」ですって。 いつも美味しい物食べているでしょう? と聞いたわ。多恵の料理のことではありません。お仕事で、という意味。そしたら彼は「あいつの料理には遊びがない。型通りのメシしか作らないんだ。あいつ豆腐ハンバーグとか変わり種だと思ってんだよ。嫌いなんだよな、冒険するの。自分の価値観以外は認めないんだ」って。 そういう偏屈な所、これからは少し直したほうが良いと思うわよ。 多恵の話も沢山したわ。うがいする時のカエルみたいな音とか、お風呂で指の毛を剃ることとか。そういうのがいちいち冷めるんだって。 勝手よね、男って。 彼はいつもワタシを[女の子]として扱ってくれるの。それって大事なことよね。多恵ならこの気持ちわかるでしょう? 不倫なんて駄目だよね、親友のダンナとイッパイしたらダメだよね? でもね、多恵ちゃん。ワタシ駄目なの。裕司さんに後ろから抱きしめられて、(スプーンがうめぇもん)って言ってた時の顔を思い出したら、ワタシの体ね、もう力が抜けてビクビクして、たっぷりエッチしないと元に戻れなくなっちゃうの。  ワタシは来るべきじゃなかったんでしょうね、あなた達の愛の住処に。来る前に道端でくちなしの花を踏んだの。 こうなることはいつから決まってたんだろうね? トシ君が産まれてから数えても、多恵とは何度も会っているのに新居で動き回るあなたを見てたら、なんだか別人みたいに輝いていて、なんだか知り合いじゃないみたい。 リビングの隅にはAPRICAの黒いベビーカーに、SMOOOVEのベビークッション。 ねぇ、ワタシも念の為に調べたのよ? 裕司さん、中に出しちゃうこと結構あるから。 裕司さんに急かされて、トシ君を抱かせてもらった。丸くて重いトシ君を胸に抱きながら、ワタシは餌をよく食べる雌鶏を思い浮かべた。 ねぇ、今日ね、多恵の顔を見てハッキリとわかったの。勝ち誇った魔女みたいな顔。 アンタはワタシ達の営みのことを知っていたのね。 ワタシがトシ君を抱いている間、裕司さんはフレンチプレスで全員分のコーヒーを淹れ、多恵はグラフチェックのミトンでオーブンからマフィンを取り出していた。 四人掛けの一枚板のダイニングテーブルの中央には透明のスープ皿に溢れるほどのオレンジ千果。窓辺には申し訳程度のプリムラポリアンサ。 ワタシは部屋の隅にあるドラセナに声をかけた。「ねぇ、今日って節分じゃない?」 あなたはレモネード柄のエプロンを外して、「忘れてた! 私すぐ買ってくるね」って財布の中身を確かめ始めた。 「マフィンはいいの?」 「熱々だとすぐに食べれないし、さっと行って来ちゃう。裕司さん、先にマフィン食べちゃダメだからね」 どこまでほんと? いつから嘘?  コノヤリトリモ、ナニカノエンギ? あなたは裕司さんに目配せをした後、部屋を出て行きました。裕司さんはワタシからトシ君を奪いベビーベッドに寝かせ、すぐにワタシの唇を奪おうとしました。 眼と手でそれを制したワタシは、今すぐ一階の駐車場に向かい、ワタシに見える位置で自慰行為をする様、彼に命じました。 「早く行けよ!」とスイッチを入れてあげると、彼はシャツを脱ぎ半袖姿で外に飛び出していきました。 裕司さんがいなくなると、ワタシは再度トシ君を抱き上げ、冷凍庫の中身をかき出し彼を中に放り込みました。 外に出て階下を覗き込むと、裕司さんが笑みを広げワタシに合図をして下半身をしごき始めました。 トシ君はどんどん冷たくなっていきます。 それを見つけた多恵ちゃんの心はどうなるのかしら? 涙が熱を持ち頬を流れたので、ワタシは自分をきつく諫めた。 絶対にワタシだけ熱くなるわけにはいかない。 呼吸を整え裕司さんに目を向けると、彼はとっくに射精したようで他所の車に手をついて、シャツで手を拭っています。 こんな時によく、精子なんか出せるわね。 ワタシはなぜ、あなたに対してこんな仕打ちをしたのでしょう? 良くわからないんです。ワタシは今、子供の頃にあなたが図書館で行ったワタシに対する仕打ちについて考えています。その時のことを思い返して、はらわたが煮えくり返る思いがします。不思議ですね。子供の頃は簡単に許せたのに。 ワタシが呼んだエレベーターが六階に着きました。 乗り込んで向き直ると、両手でそっと包みたくなるような澄んだ空がワタシを優しく見送りに来てくれました。 お礼を言って見惚れていると、扉が勝手に閉まりました。 物語はこれで終わり? いいえ、そうは思いません。 ゆっくり閉まる扉の鈍い音が、ワタシにはどうしても何かの始まりの合図にしか聞こえないのです。
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