掌(てのひら)を見せて

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 1 鍵を開ける時の金属音を聞くと、僕は必ず自宅にある包丁を思い浮かべる。必ず、なんて言うと大げさに聞こえるかもしれない。自宅の鍵なんて毎日開けるし(学校帰りに最低一回!)ほかの場所でその音を聞く可能性だってあるだろう。一日に何度も聞くことだってね。体育館のシャトルドアとか。でも本当のことだ。僕はその金属音を聞くと、反射的に台所にある銀色の刃物のことを思い浮かべる。食費を節約して、小遣いと合わせて買った自分の分身。そんなに不思議? 鍵も包丁も同じ金属じゃない。 二年前に父が家を出ていった。ヤマボウシが白い花を咲かせたばかりの湿気の多い季節だった。小学五年生だった僕はリビングの椅子に腰掛けてテレビの将棋番組を聞きながらテーブルに置いたジグゾーパズルと数独の新書と懸賞雑誌に載ったクロスワードを順繰りに解いていた。母さんはたまの休みなのに洗濯機を回しながら風呂場でウールの上着を手洗いしたり、百円ショップで買った備長炭でミネラルウォーターにしてから僕に温かいほうじ茶を作ってくれたり(飲む前にお塩を一さじ入れてくれた)サイフォンから取ったコーヒー豆の出がらしをベランダの鉢の土に混ぜたり、電池を入れたばかりのミニ四駆みたいに忙しなく部屋の中を動き回っていた。昼食は母さんお手製のそうめん入りの味噌汁と、タッパーに入った味噌漬けのゆで卵だった。 椅子に座ったままキッチンを覗き込んだ時、母さんは白いマグカップを片手に持ちながらあたりめをかじっていた。僕は母さんがそれを飲み込んだタイミングで声をかけた。 「ねぇ、コーヒーとあたりめって一緒に食べて美味しい?」 「合わないわよ、そりゃ」と彼女は言った。当たり前じゃん、と付け加えて眉と唇を一緒に動かした。母さんの白い顔には無駄なところがこれっぽっちもなかった。ほっぺにもアゴにも贅肉なんて付いてなくて、おでこは新品のまな板みたいで先の丸いつるん、とした小振りな鼻が付いていた。後ろから母さんの髪を見ると僕はいつも昔話で人魚姫が弾いているハープを思い出した。 そんなことを考えていると母さんはもう一度あたりめを食べマグカップに口をつけた。もちろんコーヒーにも塩が一さじ入っていた。何と何を合わせて食べても、母さんは美しかった。 「なんで合わないのに食べるのさ? お腹空いてるならそうめん味噌汁残ってるよ?」 「するめが食べたいのよ」 「あたりめとするめは違う」と僕は言った。声が普段より強くなった。いつもそうだ。母さんが変なことをすると僕はイラついて声がきつくなって、夜になって布団に入るといつも何だか不安になる。 「いまなんていったぁー?」母さんはコーヒーの残りをシンクに流し、ゆっくりと僕に近づいて来た。そして「正しいことばっか言ってると女の子にモテないよ」と言って僕の耳にキスをした。僕はすぐに腕を曲げて鼻から下を隠し、横目で精いっぱい母さんを睨んだ。思いっきり睨んだのに母さんが目を逸らしてくれないから急いでテーブルに顔を伏せた。鼻息が容赦なく顔に跳ねかえり、唇がむずがゆくて右脳が溶けそうになった。 ひっひっ、って声が出そうになるのを必死でこらえた。 すると母さんは僕の後頭部に口をつけて 「晩御飯もそうめん味噌汁でいい? あれ? 味噌汁そうめんだっけ?」とささやいた。 僕は「イヤだ」と言いながら熱くなった耳を隠した。 近所のスピーカーから七つの子が流れた時、母さんが玄関で「あっ」と声を上げた。僕は焼きたてのクロワッサンみたいな色をしたトイプードルが映ったジグゾーパズルを解いていた。光沢のある表面と違い、裏面は苔の生えたセメントみたいな色をしたちゃちなものだった。父がどこかで勝ち取ってきたこのおもちゃを僕はテレビを見ながらよく解いていた。あまりに何度も解いているので、その日は左手で彼女のつぶらな瞳(なぜメスってわかるかって? あれだけ何度も目が合えば誰にだってわかる)のピースは最後に入れる、と言う縛りを設けてそれを解いていた。完成まであと2ピースの所で僕が顔を上げると、母さんは財布の中を確認し「んもう! またやられた」とドアに向かって言った。 僕がトイプードルの目を入れようとすると、外からカラスの鳴き声が聞こえた。 「どうしたの?」と聞くために、僕は席を立った。 父は活発な人だった。昔は数学の教師をしていたみたいだけど、僕が産まれてからは一度もずっと働いていなかった。仕事をしていないのに家にいる時間は少なく、何かと理由をつけては外に出かけて行った。雀荘やスロット、競輪場にウインズ。競艇場に将棋俱楽部。父の遊び場は町に沢山あった。家事もしない、働かない、ギャンブル好きの父。本心は解らないけれども、母さんはそれを受け入れていたように思う。我慢しているようには見えなかった。僕は頬を掻きながら母さんに出かける言い訳をする父さんを見るのが大好きだった。 何日か経って父が出て行ったと気づいた後も、母さんは決して捜索願を出さなかった。事故や事件の可能性はないと考えているようだった。折り合いの悪かった父の実家にも、僕の知る限り連絡を取らなかった。 二人暮らしになると保険会社に勤める母さんの帰宅時間は目に見えて遅くなった。それは金銭的な理由ではなく(そもそも父はずっと定職についていなかった)母さんは今より仕事に打ち込める、と考えたようだった。近所のクラスメイトの家に僕を預けることもあったがすぐにそれも無くなった。僕は正直ホッとした。他人の家で質問攻めに合ったり、僕が来たことで夕食が豪華になったり、それを一人だけ割りばしで食べたりするのが苦痛だった。 母さんが僕なんかのために愛想笑いをして頭を下げているのを見るのが悔しかった。美しく束ねられた髪を他人にさらしているのが嫌だった。そして僕には一人の時間がたっぷりと与えられた。学校が終わると母さんが帰ってくるまでずっと一人だった。今も当時も友人はいなかったし、部活にも入っていなかった。辛いと思ったことはない。一人が本当に心地よかった。でも母さんと二人でいるのが理想だった。それは認めなきゃね。母さんは何度か「大丈夫?一人で」と僕に聞いた。薄く硬い声だった。視線はいつも僕から外れていたので僕はいつも大きな声で「うん」と答えた。 「夕食を自分で作りたい」と僕が口にした時も、母さんは決して僕を見ようとはしなかった。それは父が家を出てから二か月ほどたった夏の日だった。 父がいなくなってからの僕の夕食は、冷凍食品と母さんが仕事帰りに用意してくれるコンビニ弁当だった。感謝の気持ちはあったが、僕は口当たりの悪いお米や、温めてもくたびれたままのおかずにずいぶん飽き飽きしていた。母さんが何を食べているのかはわからなかった。何度聞いても「母さんはいいのよ」とはぐらかすだけだった。 自炊の件を持ち出した時、母さんはあからさまに顔を強張らせた。僕が原因で母さんの美しい顔がゆがんだ。あの顔を思い出すと、僕は今でも胸が痛くなる。母さんは何をおいても自分のキャリアを棒に振るつもりはなかった。夕食を自分で、というのは我が家においては【小学生の子供がたった一人で夕食を作って食べること】を意味した。 僕には僕の言い分があり、母さんには母さんの事情があった。僕が何より辛かったのは、母さんの【事情】には僕の生活を守る、といった側面も多分にあった、という事だ。僕は母さんに心配を掛けたくなかった。でも僕は学校以外で、母さん以外とできる限り接点を持ちたくなかった。 その日、母さんは結論を出さなかった。 次の日から僕は、学校帰りに市立の中央図書館に寄るようになった。児童やヤングアダルト向けの棚には目もくれず、閉館までレシピ本や本ばかり読み漁った。五時を過ぎると職員に声を掛けられたことがあったから、それからはトイレの個室で読んだり、見ず知らずの女性の隣に座ったり、マスクや帽子をしたり注意深く行動した。二階建ての大きな図書館の中で毎日居場所を替えて、活字を追って写真を目に焼き付けた。小学生でも利用カードを作れることを知ったが、母さんには頼りたくなかった。隙間だらけの冷蔵庫を開け、中を想像で満たした。母さんが用意したおやつには目もくれず、戸棚の調味料を片っ端から手に取って舐めた。旬の野菜を知り、切り方を覚えた。魚のおろし方の説明文をそらで言えるようになった。いくらページを嗅いでも紙の匂いしかしなかった。同じ用語辞典と辞書を何度も読んで、新しい言葉を沢山知った。 楽しかったがそれ以上に必死だった。立ち止まると泣いてしまうと思った。一度でも泣いてたら覚えたことを全て忘れてしまう気がした。 僕は授業中も教科書の中に挟み本を読むようになった。無断で図書館から持ち出したことを告白しないといけない。教科書に隠れるほど小振りな本は少なく、同じ本を何度も読んだ。ネパール料理の本も、小野正吉やロブションの伝記も読んだ。先生には一度も見つからなかった。 その頃になると図書館通いは減り近所のスーパーマーケットを巡るようになった。その頃僕は自転車を持っていなかったので(小学五年生なのに!)どこに行くにも徒歩で向かって、毎日三件以上回った。家には誰もいないので時間はたっぷりあった。お店が近づくと、僕は自然に早足になった。 夕方のスーパーはいつも混んでいたが、本で見た実物が目の前にあるだけで僕にとっては夢の国だった。あまりに嬉しくて野菜をベタベタ触ってしまい、一度だけ隣にいたおばさんに睨まれたこともあった。 八百屋や魚屋にも通った。スーパーと違い八百屋には八百屋の、魚屋には魚屋の匂いがあった。どちらの店でも、軒先が見える位置でちらちら覗いていると店主のおじさんが声を掛けてくれた。無口でうつむくだけの僕にも彼らは優しかった。僕は聞きたいことをノートにまとめ、毎日のように質問を店先で読みあげるようになった。読み終わると、二人の店主はいつも笑った。どれだけ時間をかけて質問を考えても、一度も詰まらずスムーズに読み上げても、二人の店主はいつも笑った。僕は自分がトンチンカンな質問をしている気がしていつも恥ずかしかった。読み上げる時は紙から目を離せないので、笑っている店主の顔はいつも見えなかった。店主は二人ともゆっくり答えてくれた。僕がメモを取り終わるまで、絶対に続きを話さなかった。 彼らがお客さんと話をしている時には、バレないようにそっぽを向きながら会話に耳を傾けた。あまりに長いことお店にいるので孫と勘違いされることもあった。お店のことを聞かれると、僕は赤くなってうつむいてしまう。帰る前に、店主の奥さんや娘さんがいつも何かを食べさせてくれた。 僕はある日決心を固め、しばらくの間、夕食代と小遣いを使い食べたくもないカップラーメンをいくつも食べ、飲みたくもない甘ったるい炭酸飲料を限界まで飲んだ。すぐに耳の下が膨れ、腹が不自然に張り出した。図書館で本を借り願いが叶ったら何を作ろうか考えた。僕が自分で夕食を作らないと、僕たちに空いた穴はふさがらない、と思った。母さんはある日、ため息と深呼吸を混ぜたような吐息を履いた後で、条件付きで僕が台所に立つことを認めた。 ケトルの発するトグル音で僕は我に返った。コーヒーを淹れ、バターと少しのハチミツを溶かして飲んだ。母さんのように塩は入れなかった。母さんもバターを入れて飲めばいいのに、と僕は思った。 学生服を自室のハンガーにかけ、念入りにうがいをして簡単に手を洗った。どうせ夕飯を作るときまた洗うのだ。籐のかごに今日の戦利品を並べる。桃太郎トマトにパプリカ、ペコロスにメークイン。どの野菜もたっぷり時間を掛けてゆっくり選んだ。確かにこの野菜たちは、刻まれたり熱湯にさらされたり、姿や形を変えられても、一言の文句も言わず(まだ声までは聴いたことはない)、僕と(できれば母さんの)胃袋に収まってしまうわけで、たとえ人情味のない貨幣売買で手に入れたものだとしても、僕は家に来てくれた食材たちを仲間だと思っている。僕はかごに入った野菜を順に撫でた。偉そうにでっぷりとしながら透明の袋にぎゅうぎゅうに詰められた飴色のペコロス。僕はお前の味も香りも苦手なんだぞ。どうやって食ってやろうか。 ふと、僕は部活にも入らずトートバックを持ち歩いて嬉々としてスーパーに通う中学生、というのは珍しいのだろうか、と思った。学校の成績だって悪くないし、僕としてはほんのいくつかの癖(どんなに急いでいても信号無視はしない、掛布団の端っこの匂いを嗅がないと眠れない、よく育ったフルーツを見ると、どうにも頭をなでてしまう等)を除けば、客観的に見ても平凡な中学生だ。 紺色の無地のエプロンをつけてキッチンに立ち、下ごしらえを進めた。メークインはざく切りに。前日に買ったカリフラワーの葉をむしって茎を切り、湯を張った鍋に入れた。唇がほっぺたを巻き込んでにぃーっと広がるのを抑えきれない。 作り慣れたメニューを選ぶと刺激が足りなくてあっという間に作り終わってしまう。前にニュース番組のインタビューで土木作業員の男が「昼めし食ってる時が人生で一番幸せ」って言ってたっけ。僕は作ってる時の方が幸せだな。単調だから包丁で指を切るなんて凡ミスしちゃったんだ。すぐに砂糖で止血したけど、気を付けないとな。出来上がったポトフと買い置きのロールパンを眺め、豆腐と青豆のサラダをラップして冷蔵庫にしまう。 今日はポトフ用にペコロスを二つ使ったけど、どちらも上半分のみを使った。甘くて繊維が細かい下半分は明日のサラダに使う。そういえば寝付けない夜は枕元に玉ねぎを置くとよい、って昔読んだ本に書いてあった。今日やってみようかな。眠れないなんて御免だけど。 ポトフの柔らかい香りがして、お腹が鳴った。あとは母さんに「食べない?」と自然に尋ねるだけだ。食べるのはもう少し我慢しよう。伊万里焼の急須に濃いめに入れた緑茶を一口でも多くお腹に流し込む。こうすれば母さんが帰ってくるまでお腹が空かない。 一度だけゲップをしてから、僕は洗濯物を取り込み、それを畳みながら新しく洗濯をした。洗濯槽の匂いが少し気になったので、十円玉を六枚靴下と一緒にネットに入れ、洗濯機を回した。古い洗濯物を畳みながら、十円玉のぶつかる音がして洗濯機に近づいて耳を近づけたけど何も聞こえなかった。リビングに戻り、僕はそこから外を眺めた。外は暗くなり始めていたが、洗濯物を取り込んだ時とそれほど空の明るさは変わっていなかった。僕は短く息を吐き、拳を何度か握った。大丈夫、少しナーバスになってるだけ。言い聞かせると耳鳴りがしたので、急いで残りの洗濯を済ませ熱めに沸かした風呂に入った。風呂の前に我慢できずにロールパンを一つ齧った。残りが奇数になり罪悪感で胸が一杯になった。 二年前の僕は、家に帰ると真っ先にシャワーを浴びた。外が暗くなるにつれ、風呂に入るのがどうしても怖くなった。 その年のある冬の夜、深夜になっても帰ってこない母さんを玄関の外で待ったことがある。それは年が明けて四日ほどたった風の強い夜で、母さんは仕事が休みだったけど家にはいなかった。僕は一人で「はじめてのおつかい」を見て、なんだか眠れなくなってしまった。駐車場の脇にあるカーブミラーが震え、大粒の雨が僕を試すように降ったり止んだりしていた。部屋の中から一歩外に出ただけで母さんが早く帰ってくるわけもないのに、僕は外にいるのを止められなかった。 外で足踏みをして暖をしのぎながら、いなくなった父のことを一度だけ考えた。 家を出る前の父は、晩酌時に必ず僕を横に座らせた。コンビニで買った裂きイカやさんまの蒲焼きを皿に盛ったり、チャンネルを野球中継に合わせて音量を調節したり、タイミングを見計らって熱燗を作ったりした。僕は父の横に正座で座るよう命じられ、文字通り顎で使われた。足が痺れて重心を崩すと、すぐに肩を殴られた。僕を殴るとき、父の呼吸はいつも粗くなった。用を命じられ立ち上がると、太い指で僕のふくらはぎを優しく握った。痺れてよろけると、手を叩き声をあげて笑った。 父はテレビから目を離さず飲み食いをするので、食べかけのつまみがテーブルの上や床にこぼれた。僕はそれをいつも確認した。食い散らかした残りが僕の夕食になるからだ。点差が付き試合への興味が薄れると、父は僕の服を無理やり脱がし、テレビの横に裸で立たせた。機嫌のいい日は、母さんの口紅を僕の口と乳首に塗った。裂きイカの残りを僕の性器に擦りつけ、それを指ごと僕の口に押し込んだ。いじられて変化する僕の性器を肴に、勢いよく酒を飲んだ。僕の裸を見る時だけは、父は何故か引き笑いになった。 どれだけ辛かった過去を思い出しても、母さんは一向に帰ってくる気配を見せなかった。 母さんのことを考えると、父のことを考えてしまう。 父のことを思い出すと、母さんのことを考えてしまう。 いつも僕は、どんなに空腹でもあってもあの夜の出来事を思い出すと空腹を満たす事ができた。 「それがどうした」 吐き出した言葉は口元ですぐに毒に代わり、僕の体内に戻った。でも不安なのだ。                  2 「ねぇ、ちょっと言いづらいんだけどさ」と女子生徒の一人が僕に言った。それは二学期が始まっていることを知らなければ未だ八月と勘違いするような、暑さの残る放課後だった。終礼が終わり、僕はどこのスーパーで買い物をしようか思い出している所だった。彼女の僕に対する主張は「十二歳にもなって、自身のことを「ぼく」と呼ぶのは止めたほうがいい」という事だった。僕が話しているのを聞いてわざわざ忠告してくれているらしい。 彼女は小倉さんといった。同じクラスになってから、僕は彼女の名前をすぐに覚えた。見た目がアンコに全然似ていなかったからだ。小倉さんはなおも僕に対して「男らしさに欠ける」とか「私の弟でさえ」といったことを聞き取りやすい声と手ぶりを使ってゆっくりと話してくれた。 僕に対する明確な嫌悪も感じないし(そもそも彼女は笑いかけながら近づいてきた)何かに腹を立てているようにも見えなかった。それともごく一般的な考え方をする中学一年の女の子(この言い方も後に訂正された。一二歳になると口に出してはいけない言い回しが存在するらしい。そんなの知らなかった)は、笑顔のまま本気で腹を立てることができるのだろうか?友達のいない僕はそのことを確かめたことがなかった。 小倉さんはただでさえ小さなその口を普段よりずっとすぼめて僕に向かってしゃべり続けた(僕はクラスメイトの会話に混ざれないから、毎日周りの様子をよく見るようにしていた。クラスメイトの名前はすぐに全員覚えた。小倉さんの普段の口の大きさも)。 僕は彼女の話を楽しく聞いた。小倉さんの声をずっと聴けるのなら、今日の夕食はレトルトでもいいか、と思った。 「なんで目、閉じてんのよ!」と声音が変わった。僕が驚いて目を見開くと、白くて小さな顔が目の前にあった。とてもシャープなあごのラインを持っていて、口角がオタマジャクシのしっぽみたいに跳ね上がっていた。 「○○○○」 小倉さんの口先が少しとがった。何を言われたか聞き取れない。いけない。僕はすぐに唇がとがったことについて考えるのを止めなければならない。 「ねーえ、聞いてるの?」 聞こえた、と僕は思った。思っただけで声には出さなかった。気が付くと、小倉さんは僕を真っすぐに見つめていた。大きな黒目が少し揺れ、囲うまつ毛は生命力にあふれていた。 僕はどうしても涙袋に触りたくなった。 「○○○○」 小倉さんが何か言って、鼻で息を大きく吸った。小鼻が反って空気溝を塞いだ。僕は穴の中が見えずに残念に思った。そして急に、そんなことを考えている自分が恥ずかしくなった。 僕はとっさに両指で自分の頬に触れた。頬は熱く、押してもつまんでも冷まらなかった。肌はホットケーキの表面みたいにカサカサしていた。まだ九月なのに、と僕は思った。 頬を抑えると耳が熱かった。耳をもむと、顔を隠さずにはいられなかった。上手く吸えなくて息が荒くなった。僕の小鼻は何故か反らなかった。 「ねぇ、泣いてるの?うそでしょ?」 手で顔を塞ぐと彼女の声が聞こえた。僕は泣いていなかった。目から汁が出ないように指で押した。 「そういう女の子みたいな所、直したほうが良いよ。せっかく背も高いんだし」 塩ちゃん行こう、と声が聞こえて僕の前から気配が消えた。きっと小倉さんと仲のいい塩田さんのことだ。近くで僕たちの話を聞いていたんだ。顔の輪郭がカレーパンマンにそっくりで、ふっくらし見た目の女の子だ。僕は魅力的だと思っていたけど、周りの意見は違うみたいだった。 僕はまた、ろくに話したこともないクラスメイトの情報をはっきり覚えている。相手は僕のことなんか見てもいないのに。でも何が悪い? 昔から一度に一つのことしかできないのだ。聞く、考える、話す。三つのシフトチェンジのスピードが、他の人より明らかに劣っているんだ。シフトチェンジ?なんでそんな言葉が出て来たんだろう? そうか、父さんだ。父さんに連れられて車に乗った時にその言葉を知ったんだ。サファリパークに行った時に。その時のことは家に帰ってから思い出そう。 本のページをパラパラめくるみたいに、僕以外の人達はスムーズに話をしている。 こんな苦労しているのは日本中で僕だけだ! 指の隙間から入る風が顔に当たる。風なんか何処から吹いているんだ?僕はなおさら顔から手を離せなくなった。 最近どんな些細なことでもエッチなこととつなげて考えてしまう。僕がエッチなことを考えていると、みんな急に話しかけてくる気がする。いつもそうだ。女の子はなんでそんな事がわかるんだろう? 終礼が終わり、どのくらいの時間が経ったのだろう?テンポの良いホイッスルの音が、左耳に何度も届いた。 僕の目の前には誰もいない。 教室の中にも僕しかいない。 絶対に誰もいない。絶対にいないんだ。でも手が離れない。 僕はいま、どんな顔をしてるんだろう? とにかく早く顔を洗いたいんだ。                  3 中学生になると母さんからコンロを使って調理をする許可が下りた。火を使えるようになるまでは、電子レンジと炊飯器、ケトルなどを使って僕はたくさんの種類の料理を作っていた。冷蔵庫の上からはみ出しそうなほど大きな電子レンジは、我が家には似つかわしくない多機能のものだったし、火を使わずに短時間でお湯が沸くケトルはどんな日にでも重宝した(ケトルは母さんにねだって買ってもらった。部屋の窓が結露するような時期に、少しだけ調子の悪くなった電気ポットを母さんがあっさり捨てた。すぐに替わりを買ってくれると思っていた。お湯を作る難易度が格段に上がった。何度やってもレンジではうまく作れなかった。母さんはしばらくそのことに気がつかなかった)興味本位でコンロに火をつけたことは あったが、それだけだった。使ったことを母さんに見つかり、料理自体を禁止されるのがあの頃の僕には何より怖かった。 ある日、母さんと家から一番近いスーパーに買い物に行った。彼女は仕事をわざわざ早退していた。店に歩き出す前に「ここより安いとこあるよ」と僕は伝えた。少し距離のある別のスーパーの方が僕は気に入っていた。母さんは僕の提案を無視し、長い髪をかき分けながら先に歩き始めた。僕が普段よりゆっくり歩いても、彼女はペースを落とさなかった。それどころか僕が早足で追いつくと更にスピードを速めた。母さんはなぜか仕事に履いていくのと同じヒールを履いていて、長い足を存分に使って歩いた。足音がアスファルトに小刻みに響いた。僕は小走りで付いて行った。呼びかけても母さんは振り向きもしなかった。母さんが向かう先の信号は全て青になった。大人になるとそんなことができるのか、と僕は思った。店に着くまで、信号には一度も捕まらなかった。 母さんはスーパーのかごを僕に渡しながら、「貧乏くさいこと言わないでよ」と言った。店の中では僕が前を歩いた。振り向いて話しかけても、そっぽを向かれるかせかされるかのどちらかだった。結局一度も母さんと並んで歩くことはできなかった。 家に戻ると、市販のたれを使って豚の生姜焼きを作った。買い出しで僕の提案したハンバーグと味噌汁は、どちらもあっさり却下された。図書館で見て最初に作ってみようと決めていたのだ。ショーケースに向かって何か汚い言葉を言っていたので、僕は考えるのをやめた。きっと母さんはひき肉と味噌が嫌いなのだ。家に戻り僕は母さんの指示を無難にこなした。「残っても捨てるだけ」と言われて、母さんの指示で半玉分のキャベツをゆっくりと全て千切りにした。ステンレスのボウルにキャベツがどんどん積まれていき、生姜焼きが楽に隠れるほど膨れ上がった。僕は楽しくなって振り返ったが、笑っていたのは僕ひとりだった。   思い出を振り返りながら料理をすると、決まって食べる前に食欲がなくなる。今日もこの家には誰も帰って来ないのだろう。二人分のロールキャベツも結局自分で食べた。僕と会わないようにしているのだろうか。部屋にはカトラリーを動かす音しかしなかった。食事を終え歯を磨いた後、僕は電球色のデスクライトを点けて知育用のジクソーパズルを始めた。心が冷たい夜はいつもこれをやった。何度も触れた紙製のピースはどれも少し削れていたり、めくれたり折れ曲がったりしていた。台紙に完成した消防車は、丸みを帯びて膨らんでいた。これをやっている僕を見つけると、父はよく「偉くなって俺の馬券代を稼げ」と言った。 眠くならなかったので僕は台所へ行き、図書館の雑誌で見た黄金比カフェオレを作った。母さんが選んだピンクのケトルではなく、レンジだけを使って作った。両手でマグカップを持ち、唇に近づけて眼を閉じた。 掌だけが、生きている気がした。                 4 昼休みの屋上でいつもの場所に腰掛ける。この場所を手に入れるために僕は毎日、昼休みに屋上に通わなければならなかった。 僕が勝ち取ったスペースは、屋上への扉が付いた建物の南向きの一角だった。北向きに味気なく付いた扉を開け、建物に沿って真裏まで行けばそこが僕だけの居場所だった。屋上の大部分からは死角になっていて軒がなく、目の前には緑色の粗い網目の入ったフェンスがあるだけだった。そのスペースは、天候の影響をもろに受ける場所だった。見晴らしは良くフェンスを除けば視界は開けていて、代償に陽の光や雨風を遮るものは何もなかった。日射しは概ね僕の気持ちを心地よくさせた。春の太陽は見事に大らかで温かみがあり、屋上の新入りを優しく受け入れてくれているように感じた。梅雨の時期は折りたたみ傘を二つ開き、フェンスに引っ掛けて即席の屋根を作った。 僕はカバンを開け、本屋で買った「Tokyo graffiti」を読んだ。僕には兄妹がいないので、同年代の仲間達が何を考えているのかを知りたかった。本に写る人たちと話してみたい。夏が近づくにつれ、太陽の高さは増していった。背筋を伸ばし膝に手を置いて太陽を眺めていると、いつも穏やかな気持ちになる事ができた。             天気を確認しなければならない点を、僕はむしろ気に入っていた。コンクリートの段差に座って弁当を食べたり、考え事をしたり本を読んだりした。昨日は石川啄木の詩集を読んだし、今日は梶井基次郎の作品を読もうとしていた。エッチな小説だと思って昨日は読むのをやめてしまった。 学校での自分の本当の居場所はここにしかないと感じていた。ここには誰も入ってこないと思っていた。 僕はシャツの袖をまくり、長袖で来たことを後悔した。天気はまだ夏と手をつないだままだった。このまま冬が来なければいいのに、と思った。五線譜になりそうな緩やかな風が屋上に心地よく吹いていた。 キャベツとブナしめじと玉ねぎの炒め物を食べようとしていた。オイスターソースで味付けするのは初めてだった。匂いが消えていて、味見の時よりも魅力が半減していた。大失敗にも関わらず僕はにやついていた。オイスターソースは夕食に使えばいいじゃないか。僕はもうこれからのメニューのことを考えていた。 中学生になって半年も経つのか、と思った。弁当を作るようになって半年だ。料理は飽きない。それどころか、作りたいメニューはどんどん増えた。 「ねぇ、聞いてるの?」 長い髪を耳に引っ掛けながら女の子が僕に話しかけている。この屋上で誰かに話しかけられるのは初めてだった。 「初対面の同級生に話しかけて無視されるなんて初めてなんだけど、わたしの声ってそんなに聞き取りづらいかしら?」 白い頬。きれいな耳。制服。制服?頭がうまく回っていない。僕は考えることを止め、しゃべることに意識を集中しようと思った。 「教室でいつも会ってるよ。初対面とは言わないと思う」 「それでいいのよ。一度しか話したことないんだから。でしょう?」と彼女は言った。僕は他の人みたいに上手に話せるように少しでも速く思い出そうとしたが、特に急ぐ必要はなかった。この半年で僕が会話した相手は片手の指で余るほどしかいなかった。 「座っていいかしら? いま、わたし何処にも居場所がないの。かわいそうでしょ?」 答えを聞く前に彼女はスカートのままコンクリートの段差に腰かけた。僕は寒いだろうと思って持っていたハンカチを彼女のお尻の下に突っ込もうと考えた。ハンカチを探している間に彼女がまたしゃべった。 「ねぇ、聞いてる? わたしはいつも購買で買ったツナパンを食べるの。ウーロン茶と一緒に。ほら、黒いパッケージのやつ。知ってるでしょ? もちろんあとで歯は磨くわよ。ツナって口の中に残るものね。あなたはツナって好き? いつも何食べてるの?」 質問がみるみる増えた。僕は彼女からいくつも質問をもらっているのに、まだ一つも返せていない。お尻にハンカチを突っ込まなければならないのに。女の子の体は冷やしてはいけないと図書館で読んだ人体の不思議に書いてあった。 どちらの問題を先に処理するべきなんだろう? どうしてこんなに後手に回ったんだろう? 「おいしそうなお弁当ね?」と彼女はまたしゃべった。そう、またしゃべったのだ! 僕はもう頭の中がいっぱいになってしまった。僕はとりあえず質問に答えることにした。 「台風襲来時の日直生徒の登校時間と作業の変更点について先生の見解を口頭で伝えた時に話したことがあるよね。ホームルームで君が質問したんだ。担任はその場では口ごもって答えを後回しにした。日直だった僕があの後時間をおいて職員室に聞きに行ったんだ。結局あの件はどうなったんですか? って。答えは次の日に君に話した通りだよ。全ては当日の担当者による自己判断、だってさ。でもあれは担任自身の見解だよ。学校のマニュアルじゃなくて。この前は言い忘れたけど僕はそういう印象を持った。納得のいかない答えだったよ。あの先生は自分の知らないことを他人に聞くタイプじゃない。あの先生は信用できないね」 「ねぇ、何を話しているのよ。もっとゆっくり話してよ。わたしそんなこと聞きたかったわけじゃないのよ。ただ、一度お話したことあるわよね? って言っただけじゃない」 息継ぎもせずに話し続けたので胸が苦しくなった。言葉が途切れると息が上がり、自分の耳が膨れ上がって鼓膜が塞がれている気がして彼女の言葉をうまく聞き取ることができなかった。顔を上げて彼女の表情を見て、自分が不味いことをしたのが分かった。やはりハンカチを先に突っ込むべきだったのだ。 僕ははっきりと混乱してしまった。矛盾しているけど正しい表現だと思う。誰かとしゃべるといつもこうなるのだ。そして最後は相手が去るのをただ下を向いて待っているのだ。 遠山は僕の前から離れなかった。けどこれ以上何もできなかった。僕は「ごめんなさい」と言ってつむじが見えるほど頭を下げた。 「なんで謝るのよ? 別に謝るようなことしてないでしょう?」と彼女は言った。 僕は黙った。耳も聞こえるようになった。頭も少しはクリアになった。話を聞く経路と考える経路を遮断し、話すことに集中した。それでも言葉は何も出てこなかった。 「何か言わないとわからないでしょう?」と彼女は言った。僕はコンクリートの床に目をやり、角に溜まったほこりを確認し、フェンスのさびを眺めた。答えはどこにも書いていなかった。 誰も嫌わない無責任な風が僕を叩いた。右手に持っていた箸先が制服のズボンに付いた。なんてまぬけなんだ。顔を上げることができないので彼女が何を考えているのかわからなかった。彼女はずっと黙っていた。このままチャイムが鳴って遠山が消えればいいのに、と思った。本当は僕が消えたほうが良い事はわかっていた。 別の集団から男子生徒の笑い声と金網の揺れる音が聞こえた。彼らが笑うたびに僕は傷ついた。もう一度風が吹いて、僕と遠山の風が混ざった。 僕は大きく息を吐き、箸を握り、顎を上げて答えた。 「わからないんだ。誰かとしゃべっていると、すぐに相手と自分が何を考えているのかわからなくなる。僕がこれっぽっちも想像もしていないことを相手が言うと、それについて考えていつも固まってしまうんだ」 「あなたは何について考えているの?」 「想像もしていないことを言われたことについてさ。バカみたいでしょ? でもいつも、僕がこれっぽっちも想像もしていないことを言われたな、ってことについて本気で考えているんだ。本当だよ。そして素早く答えようとどれだけ一生懸命考えても相手が我慢できずに去っていくんだ。僕は自分が頭を働かせている間、世界でどれだけ時間が経っているのかちっともわからないんだ」 答えた後でまた耳が聞こえにくくなった。前が滲んで目も見えづらくなった。自分の不器用さが心底嫌になった。彼女は何か言っているだろうか。でもなんか全てどうでも良くなってしまった。 泣いても状況は何も変わらなかった。遠山は変わらずに横にいて、外の世界ではまた誰か笑っていた。彼女も泣いているかな、と思ったけどそんなことは起こらなかった。 僕は彼女の顔を見た。明確な意思を持って彼女は黙っていた。まだ僕の話す番みたいだった。 「僕だっていろいろ考えているんだ。いつもこうなってしまうからね。どんなに些細でくだらない話でも相手の期待に応えようとしているんだ。でもいざとなると『一時間後には答えが変わっているかもな』とか考えて、今まで必死で考えて来たことが全部間違ってるような気持ちになって、結局全て放り出したくなるんだ。」 彼女は町を見るのをやめて、そっぽを向いた。風はいつの間にか僕らに興味を失っていた。 「レールの切り替えが下手くそなんだ。信じてもらえないかもしれない。でも本当に、聞いて、考えて、話す。一個づつしかできないんだ。女の人と話すときは特に。みんなが当たり前にできることが、僕だけにできないんだよ」 たっぷり時間を取って、彼女はようやく「ふうーん」と言った。 「少しは楽になった?」 僕は馬鹿みたいにうなずいた。 空腹はどこかに行ってしまった。でもこのままでいいと思った。               5 幼稚園に通っていた頃、父と母さんが大喧嘩をした。父の女癖の悪さが原因だった。夕方と呼ぶには早い午後だったと思う。いつものように父と僕が家でくつろいでいる時に、仕事中のはずの母さんが文字通り飛び込んできて僕らの方向へ怒鳴りつけた。ちょうど前の日に「靴はきちんと玄関でそろえなさい」と言われていたので、ヒールで土足のまま入ってきたことに僕は驚いた。父も立ち上がり応戦した。父は母さんのことは殴らなかった。体を震わせていた母さんは持っていた鍵束と、テーブルに乗ったラーメン皿と電話の子機を手あたり次第に投げた。僕は怖くなり、二人の隙を見計らって外に出て、同じマンションの一階の友達の家に助けを求めた。同じ幼稚園に通う一つ年下の女の子の家だ。扉を叩いて助けを求めると、彼女の母さん親が出てきて中に入れてくれた。少し温めたタオルを使い、足を拭いてくれた。「しばらくうちにいたらいいよ」と彼女は冷静に言った。背の高いやせた女性だった。ピアノのお稽古があり友達はいなかった。僕たちは二人きりだった。後で迎えに行くの、彼女は言った。そら豆の色をしたソファがあった。木でできたピノキオの人形もあった。彼女はマフィンとポッキーとぬるい牛乳を僕にくれた。僕は少しもこぼさないようにマグカップを両手で持ち牛乳を飲んだ。「マフィンはちょうど今できたの。君が来たのとぴったり同時よ」と言いながら彼女は僕の後ろに回った。両手で僕の短い髪をワシワシとなで、ほっぺたを二回つまんで鼻の頭を人差し指でぐいぐい押した。「男の子が欲しかったのよ」と彼女は言った。 自宅に戻ると、中には母さんしかいなかった。玄関のドアを閉めると、母さんは僕に「謝りなさい」と言った。僕は意味が解らず何も言えず立っていた。 「なんで謝らないの」と母さんは言った。間を開けずに「お父さんがカッコ悪いでしょう」と付け加えた。 眠れない夜は、よくあの日のことを思い出す。僕は普段より丁寧に歯を磨き、いつもより多く口をゆすいだ。見る意味のない時計を確認し、母さんの部屋に入った。断りなく入ることは固く禁止されていた。壁にあるスイッチを押し電気をつけ、木工でできた化粧台の引き出しを開けそこにある一本の口紅を握った。 この口紅を塗った母さんの姿は一度しか見たことがなかった。「初めて使うのよ」と彼女は鏡越しに言って笑った。母さんの指の長さほどの円錐形の黒いケースを開けると、金の台座から真っ赤な口紅が現れた。友達の多いトマトみたいな色をしていた。   僕は椅子に座り、自分の唇に口紅を塗って、その顔をまじまじと見つめた。 砂浜みたいな白い肌や切れ込みの深い目じりは、父にも母さんにも似ていなかった。                6 参観日の地理の授業が始まると、母さんはすぐに教室に現れた。チャイムが鳴り終わって一分も経っていなかった。来ると思っていなかったので僕は驚いた。保護者宛てのプリントは電話機の横に常に置いていたのでそれを見たのだろう。母さんは相変わらず何日も連続で外泊することもあった。家に帰ってきても、僕が寝た後に帰宅し、起きる頃にはもういないことが多かった。テーブルに置かれた母さんの分の夕食は、一度も減ることはなかった。毎朝僕がそれを食べた。 母さんは来るときには必ず最初から来るし、来ないときは最後まで来なかった。学年ごとに授業参観は何度もあったが、開始と同時に教室に現れる父兄は母さん以外見たことがなかった。 最初に来た人はどうしても全員の目を引く。どれだけありふれていようとも、授業参観は僕たち生徒にとってもイベントなのだ。母さんの姿は茶色い板張りの床と、今年の目標が書かれた半紙がたくさん並んだ教室で明らかに浮いていた。何人かの女子生徒から「きれい」とか「誰の?」とかいう声が漏れ、あちこちでひそひそ話が始まった。担当教師はそれを注意するでもなく、淡々と授業を進めた。以前にクラスメイトが僕に話したことがある。「最初に自分の母さん親が来たら最悪」と。僕はそう思ったことはなかった。 母さんはいつも通り美しかった。相対的ではなく、絶対的に美しかった。普段と変わらない服装をしていた。僕はだらしない恰好をした母さんを見たことがなかった。グレーのボウタイのブラウスに薄手の黒いコートを羽織っていた。首元から細い光沢のあるネックレスが見えた。母さんはあの口紅をしていた。僕はこのブラウスもコートもクローゼットで見たことがあった。図書館にある雑誌で似ている服を探すのは楽しかった。 十分ほど経つと、徐々にほかの父兄が入ってきた。母さん親であろう女性が多かったが、中には父や祖父母さんと思しき人もいた。天気に恵まれたせいか、久々の授業参観か教室の後方は父兄でいっぱいになった。どれだけ人が増えても、母さんはその列の中央を譲らなかった。 父兄の中心にいる母さんの姿は、僕を誇らしい気持ちにさせた。間違いなく、僕の母さんが一番だと思った。僕は授業そっちのけで母さんの様子を覗いた。母さんは空を見たり、教室の端にある水槽を見たり、授業を受ける生徒の様子をぐるっと確認したりしていた。体は動かさず、首から上だけが動いていた。母さんの顔には一切たるみがなかった。多くの人の中で、母さんは一人だけ芸能人みたいだった。僕はあの女性の血をひいているのだ。宿題の回答を板書するために、3人の生徒が名前を呼ばれ、次々と教室の前方へ歩いて行った。男子生徒の一人はなぜか歩きながら振り向いて僕の母さんを見た。  授業が終わると、僕はすぐに母さんに近づき来てくれた礼を言った。「いいのよ」と言って、帰りが遅くなる、遅くなるから私の分の夕食は作らなくていい、と僕に言った。帰ろうとした母さんは何人かの父兄に呼び止められ、話をしていた。その甲高い声と立ち振る舞いを見て、僕は苛立ちを感じた。 「また一人で食べてる」と声をかけられた。屋上で声をかけられてから二週間がたっていた。その間に僕は彼女の名が遠山であること思い出した。苦手なんだ、と僕は答えた。 「嫌いなクラスメイトなんて一人もいないし教室の雰囲気も好きだよ。それぞれに散らばったりくっついたりするけど、何だか一つの共同体みたいに見えるんだ。でもその塊、のようなものが僕は苦手なんだ。なんていうのかな。何かを象徴しているみたいでさ。この中にいたくないって思う。率直にね。授業はみんなと受けるほうが良い、でも食事は一人の方が好きなんだ。満足してるよ。でもたまに自分は変なんじゃないかと思って一人で不安になるけどね」 「そんなことないわよ」と彼女は言った。 「教室で誰かと食べてる人がみんな人好きとは限らないでしょう。一人で食べている人が全員それを望んでいるとは限らないように。そうでしょ?私たちはそれぞれ違う人間だし、何が変わっているかなんて簡単には言えないと思うわよ?」 ありがとう、と僕は声に出していった。今日はなぜか自然に声を出すことができた。 「きれいな人だね、きみのお母さん」と遠山が言った。 「そう?」と僕は自然に答えた。 「うん、わたし初めて。ぐうの音も出ないほど綺麗な人を見るのって。シルエットとか着こなしとか。帽子をずっと持っていたでしょう?ただそこに立っているだけで素敵だったわ」 「帽子?」と僕は答えた。母さんは帽子など持っていただろうか。 「首筋のラインとか。首元とか。デコルテっていうのよここ。ねぇ、知ってる?本当にきれいな女の人って、首の周りに「自分の余韻」みたいな空間を持っているの。エアポケットみたいにね。右にも左にもあるの。自分の周りさえも自分の一部なのよ。ここに自分の空間を作れると、周りからより一層魅力的に見えるの。全部味方にしちゃうの。それでね、そのきれいな人をじいっと見てると、スルスルそこに吸い込まれちゃうの。掃除機でごみを吸い取るみたいに。あなたのお母さんにはそれがあったわ。私もうびっくりしちゃって授業中ずうっとあなたのお母さん見てたもの。いいなぁ、あんなお母さんがいて。」 遠山は一気にしゃべった。僕は自分の母さんがきれいで得をしたことは一度も思いつけなかった。 「声をかけようとしたのよ。授業終わりに二人で何か話していたでしょう?あんなきれいな人と、一度お話してみたかったの。でもできなかった。二人ともまぶしすぎて。」 「二人とも?」と僕は尋ねた。 「ええ。言われるでしょ?あなたとお母さん、そっくりよ。」 母さんの口紅を塗っているのがばれている気がして、僕は何だか恥ずかしくなった。 「私しゃべりすぎかしら?」と彼女は言った。 僕は首を横に振って質問に答えた。僕は水筒のふたを外し、家から持ってきた紙コップに、ホットレモンを紙コップに注いで飲んだ。遠山はそれを不思議そうに見ていた。 「水筒のふたは使わないの?」 僕はうなずいた。「あたしも飲みたい」と彼女は言った。これがいい、と言ったので水筒のふたに注いで渡した。彼女はそれをおいしそうに飲んだ。僕は安心してホットレモンの出来栄えに意識を集中した。今日からクエン酸の多く含まれた顆粒のものに変更していた。いつもより薄味に感じる。水筒を振るのを忘れたせいか、と僕は思った。 「ねぇ」という声が聞こえた。不吉な音色をしていた。 「なんで何も言わないの?」と彼女は言った。 「僕が?」 「そうよ、人から何か話しかけられたら、あなたも口を使って答えるべきだわ。動きや表情だけじゃなくてね。誠意をもって対応すべきよ。なんだか私が馬鹿みたいじゃない。あなたが何を考えているかわからないから、こっちとしても全然手応えがないのよ。壁に向かって一人でテニスしてるみたい」 同じことを考えているとわかって、僕は驚いてしまった。彼女が一人でしゃべっている間、彼女は一人でスカッシュしてるみたいだな、と僕も考えていたのだ。今日はとっても彼女とうまく話せている気がする。 右肩に痛みが走った。遠山にグーで叩かれたみたいだ。痛いけど胸の方が熱くなって、何だかそっちの方が気になった。僕は彼女を見た。目を合わせることはできなかった。 理由はわからないけれど彼女はもう一度、僕の肩を叩いた。今度はただ痛いだけだった。彼女は相変わらず不満そうな顔をしている。それでも僕には、彼女とのやり取りは成立しているように思えた。 もしかしたら僕の母さん親は子供のころ、遠山みたいな女の子だったのかもしれない 彼女は黙って僕を見ていた。また僕が何かを話す順番らしかった。 「ノート貸してよ」と彼女は言った。地理のノートを上手く取れなかったから、と。 僕も上手く取れなかった気がするが、後で貸すことを約束した。 遠山が不意に立ち上がり、「明日ふたりで遊びに行こう」と言った。僕はびっくりして思わず頷いた。遠山も僕を見下ろして、口をすぼめながら納得したように頷いた。次に話す言葉が見つからず、僕は間をおいて頷き続けた。文句を言われると思ったがそうはならなかった。遠山も僕と同じように頷いていた。二人とも馬鹿みたいだった。 女の子と遊ぶ約束をするのは生まれて初めてだった。僕はどこに行くかなんてまるっきり考えず、弁当に何を持っていくかを考えていた。 僕たちはデートをすることになった。遠山が提案して、二人で決めた。そのことが何だかうれしかった。そしてそれが、僕と遠山の最初で最後のデートになった。                7  待ち合わせ場所の公園で僕を見た遠山は目を丸くした。無理もない反応だった。数時間足らずのデートなのに、僕が二段組のお重を唐草模様の風呂敷に包んで持ってきたからだ。もちろん中身はすべて弁当だった。 前日、僕たちは集合場所と時間だけ決めてそれぞれの家に帰った。他には何も決めなかった。行き当たりばったりのデートなのだ。帰り道にそれに気がついて僕はすぐに不安になった。それを解消するには、「完璧な弁当」が必要だった。 「完璧な弁当」作りは困難を極めた。Aを作るとそれに合わせてBを作りたくなり、Bを本当においしく食べてもらうためにはCが必要になった。連想ゲームのようになり、必要と思った食材を全て買った。二回スーパーに行く羽目になった。 すぐに料理を作り始めた。上手くできた砂糖入りの卵焼きを満足そうに眺めた後で、朝に作った方が断然美味しいと気がついた。毎日料理をしているのになんでこんな簡単なことに気がつかないんだろう。明らかに僕は混乱していた。結局ほとんどの料理を朝に作り、戸棚の最上段にあったお重に詰めこんだ。入れるべきか迷った料理もすべて詰め込んだ。これからすぐに家を出るのだ。キッチンに不自然な形跡を残しておきたくなかった。 僕は自転車に乗り、片腕で風呂敷を掴みながら待ち合わせ場所に向かった。 遠山の提案でまず食事をすることになった。自転車を止め、木製の四人掛けのテーブルにお重を広げた。水筒や紙コップやひじ掛け用のフェイスタオル、割りばしや紙皿、二種類のティッシュや小瓶に詰め替えた味ぽんを置くと、すぐにテーブルがいっぱいになった。遠山はまた目を丸くした。理由はよくわからなかった。食べながら僕は、全ての食事を自分で作っていることを話した。 「いつも食べてるお弁当も、自分で作っているの?」と彼女は言った。僕はポテトサラダを噛みながらうなずいた。味見した時よりマヨネーズの味が悪目立ちしていた。 「お母さんもおいしいって食べてくれる?」と聞かれて僕は首を振った。 「だって夜は一緒に食べるでしょう?」と彼女は言った。僕はしゃべりすぎたのだ。 僕は事の成り行きを説明した。父が出ていったこと、母さんの仕事が忙しくなったこと、一人の時間が長くなったこと。救いも教訓も一つもなくて、デートにふさわしい話題とは思えなかった。 遠山に促されて彼女の持ってきたトートバックを見た。 ミナペルホネンのトートバック。家から盗ってきたの、と彼女はおどけて言った。反応に困っている僕に「盗んできたのよ」と付け加えた。 「今日みたいな日が来たら、これを持って出かけようって思ってたの」 僕は遠山にサンドイッチを勧め、自分はおにぎりを食べた。お米を食べないと、どうしても力が出ないのだ。遠山は「わたしもおにぎりが食べたい」と言った。 「おにぎりの方が好きなの」 「気持ち悪くないの?」 「あなたが握ったんでしょう?なら食べられるわよ」といって躊躇なく食べた。 僕たちは楽しく食事をした。好きなテレビの話とか、小学生時代の話(僕と遠山は違う小学校だった)をした。午後に半分食べることにした。まだ一日は始まったばかりなのだ。用意したティッシュで彼女が唇を拭いたとき、僕が背中のリュックからマドレーヌを出して大笑いした。 「あなたにお願いしたら、リュックから何でも出てきそうね」と彼女は言った。 タオルと味ぽんは誰も使わなかった。 遠山の提案で、バスに乗ってスケート場に行った。市が運営する屋内リンクだった。バスの中で僕たちは、横並びに座った。ぶかぶかの白いトレーナー越しに腕が何度もくっついた。僕が風呂敷を持って、遠山がリュックと水筒を膝の上に抱えた。僕は窓の外を見るふりをして、彼女のもみあげを見た。意志が弱そうでふわふわしていた。らしくないもみあげだと思ってうれしくなり、このままスケート場なんかつかなければいいのにと思った。 リンクに着くと、すぐにスケート靴とヘルメットをレンタルした。膝のサポーターを借りようとして、遠山が借りなかったので止めた。3種類の大きさの中から中くらいのロッカーを選んだ。持ってきた弁当箱がすっぽり入って二人で笑った。遠山が少しだけ空いた隙間にトートバック。をぐるぐる巻きにしてぎゅうぎゅう押して閉めた。財布を言忘れてすぐにもう一度開けて、トートバックが飛び出してきて笑った。詰めた。背は五センチくらい違うのに、靴の大きさは二センチしか変わらなかった。 遠山は特にスケートが上手いわけではなかった。僕も別に上手くなかった。秋の終わりのスケート場には、人工的に作られた寒さと静けさがあった。僕は外の寒さの方が好きだった。スケートの上手さは同じくらいだった。決まりがあるかのように、みんな派手な色の服を着ていた。白い上着を着ているのは遠山だけだった。思う存分すべり、僕たちはリンクの外で休憩した。足首を動かすたび、スケート靴がぎしぎし動き、エイリアンみたいだな、と思った。遠山には言わなかった。喉が渇いていたけど、水筒にはわかめスープしか入っていなかった。しょっぱくて舌がベタベタした。靴を脱がずにウォータークーラーまで競争して、その水を交互に飲んだ。 リンクを出た後で、次はあなたの行きたい所に行こうと言われた。今がとても楽しくて、次に行く場所なんて考えもしなかった。二人でスケート場のベンチに座り、僕は考え込んでしまった。 そんなこと言われなければ乗るはずだったバスが僕らの前をゆっくりと通り過ぎた。 「別に面白い場所じゃなくてもいいのよ」と言って彼女は両足をピンと前に伸ばした。ごつごつした青いデニムと黒いコンバースのスニーカーの間から彼女のくるぶしが見えた。僕はなおさら困ってしまった。女の子と出かけたことがないので、女の子と行くべき場所がわからなかった。僕はそのことを正直に答えた。 「そんなに難しく考えなくていいのよ」と彼女は言った。 「別にずっとここでしゃべってたっていいわよ。ほんとよ」 また沈黙が訪れた。遠山は両手をベンチにつき、遠くを見て黙っていた。 「この辺りに来るのは初めて?」 「父と何度か来た事があるんだ。競艇場とか釣り堀とか。このスケート場も来たことあるよ」 「釣り堀? 釣り堀があるの?」と彼女は言った。 僕は釣り堀に行きたがる女の子がいるなんて思いもしなかった。 僕たちは入り口でお金を払い、練り餌と小エビを買った。父と来た頃より、小さく見えた。コンクリートだらけの店内の中央に一メートルくらいの高さで、教室の半分くらいの広さの水槽があり、角に設置されたポンプからは、小さな滝のように水が流れていた。十人ほどの客があちこちに散らばっていた。僕たちはポンプからできるだけ遠い場所に陣地をとった。遠山は初めから興味津々だった。メンマみたいな色をした竹竿と水色のバケツをもって場内を歩いた。彼女は「わたしが持つ」と言ってきかなかった。 小エビを針につけるより、練り餌を触ることを嫌がった。 「わたしこういう場所の方がすきかも」と言った。僕たちは何匹も釣った。父と来た時もこんなに釣れたことはなかった。釣られまいと魚が跳ねて、僕たちの服や席のそばに置いていたリュックと風呂敷が濡れた。僕は濡れることなんて気にしなかった。そんなことどうでもよかった。 僕たちは帰りのバスの中で、釣り堀屋のおじさんにもらったグレープ味のメントスを食べた。遠山はメントスを奥歯で噛み切ろうとして、何か熱いものを食べたみたいな顔をしていた。同じ顔をしたくて僕も真似して奥歯で噛んで食べた。 停留所に付くと、僕たちはどちらともなく、待ち合わせをした公園に戻り、残りの弁当を食べた。手つかずのサンドイッチや乾いたピクルス、胡椒の効いたアスパラベーコンなんかを一言も口を利かずに食べた。僕たちはお腹がすいていたのだ。釣り堀の魚を食べるわけにはいかない。 遠山がふぅ、と吐息を漏らした。メントスだけがたっぷり残った。遠山が断ったので自分のポケットに入れた。会話が途切れても、今はもう怖くなかった。 三時半を回ったころ遠山が「もう帰らなきゃ」と言った。 「犬の散歩があるのよ」 僕はいくつか質問したが犬種がパピヨンであること以外、何も答えてくれなかった。 遠山は立ち上がり「本当に楽しかった。起きてから今までずっと。あなたのおかげよ。でも次からはそんなに頑張らないでね」と言った。僕は恥ずかしくなって自分の爪を見ていた。 遠山は自転車にまたがり「いつか学校にわたしのお弁当も作ってきてよ」と言った。 僕の答えを確認して彼女は去っていった。 家に戻る気にならなくて、僕は回り道をして帰ることにした。弁当箱が入った風呂敷を手首に引っ掛け、人気のない道を全力でこいだ。風がかわるがわる僕にハイタッチして通り過ぎていった。ペダルを漕げば漕ぐほど、夕日が町に沈んでいった。 駅前のロータリーで母さんの姿を見つけた。縁石のそばの背の高い街灯に寄りかかっていた。黒くて速そうな車が、母さんの前に停まった。運転席には僕の知らない男がいた。 遠山宛の弁当なんて、早く作ってしまうべきだったんだ。                 8 遠山とのデートの後、いくつかの変化があった。母さんが時折、僕がいる時間に家に帰って来るようになった。帰ってくる時には決まって夜の7時頃に家に現れ、10分も経たないうちにまた出ていった。母さんの仕事着は、以前に比べ地味になっていた。色味と色数が抑えられ、主張が少なくなった。代わりに家を出ていく時の恰好が派手になった。クローゼットの服は僕の見たことない服で埋まった。僕が学校に行っている間に、どんどん入れ替わっているのだろう。 母さんとの会話も増えた。ゼロがイチになった。「夕食あるよ」「いらない」。お決まりのラリーが終わると、母さんは10分間にノルマをこなすようにひたすら一人でしゃべった。 何度かに一度、あの授業参観の話をした。よく「あそこにいた他の女たちは汚かった」と言った。センスの欠片もない恰好でよく外に出ることができる、とかあそこまでいくともう女じゃない、とか美容院で本読んだだけでオシャレになれるわけないだろう、と言った。そこまで言うと「でも一度は会っといて良かったわ」といつも付け加えた。何が良かったのか僕にはさっぱりわからなかった。 その他は仕事の話だったり、満員電車の話だったり、同僚がどれだけ使えないか、といった話だった。僕は相槌を打ったり、母さんの話の行き先が僕の予想通りだった時には、大きな声で返事をしたりした。 何度返事をしても、母さんは僕とは話そうとしなかった。徹底的に僕を避け、一人で沈黙と戦い続けた。溜まった留守電を再生せずに消したり、僕の財布に金を突っ込みながらひたすらしゃべった(補充された金額を見て、母さんが家を空ける日数の見当がつくようになった)。 僕は一度、母さんに向かって手を振って見たことがある。あまりにこちらを見ないので、本当は見えているんじゃないか、と思ったのだ。僕は母さんが口を動かしている間中ずっと、両手を母さんに向かって振り続けた。母さんはそのまま出て行った。 母さんはいつも体を締め付けるような細い服を着て、大ぶりな装飾品をつけた。美形の子役みたいなカバンを下げ、天賦の才に恵まれた白馬のような靴を履いた。身に纏うもの全てが、母さんの下僕のようだった。 家を出る時、いつも最後にママさんバレーに行くと言った。 一人になった部屋で何度も(もういいよ母さん)と思った。二人の空間にどれだけ言葉が飛び交っても、誰も得をしていないように思えた。 母さんは毎回トイレには入らなかったので、僕は母さんが帰ってくると、トイレに入るようになった。ドアを閉めると、母さんの一人語りはピタッと止んだ。見ていないようで見ているのだ。そのことは僕を余計に悲しくさせた。 ある日、僕は母さんが出て行った後で四階のベランダから外をのぞいた。黒塗りの車が当たり前のようにそこにいた。母さんはためらいなく乗り込み、車はあっという間に去っていった。 僕はサンダルを履き、外に出てゆっくりと母さんの走り去った方向を眺めた。秋の夜はためらいというものがなくて、いつでも簡単に僕を飲み込んでしまいそうだった。目に映る紅葉の色は僕を不安にさせた。 心臓は左にあるのに、こんな時はいつも右胸が痛い。僕は両の頬を指でつまみ、唇を伸ばした。 デートの後、僕はよく腕立て伏せをするようになった。最初に痛むのは胸筋だけど、音を上げるのはいつも二頭筋だった。時間がたつと広背筋が一番痛んだ。回数は決めず気の済むまで腕を痛めつけた。楽しさは感じなかった。達成感も喜びもなかった。筋肉のきしむ声を感じると、なぜか落ち着くことができた。 砂漠の中にいる夢を見るようになった。砂漠は見渡す限り広がり、僕は斜面の中腹にいる。制服を着ているが何故か裸足だ。夢の中の僕は状況に疑問を持つこともなく、斜面の頂上へ向かい歩き始めた。想像より砂面は固く、足の指で楽に砂をつかむことができる。体力など気にせずに全力で登る。脚をかいて砂を蹴り、前傾したまま進んだ。バランスを崩し、手をつく。痛みはない。そもそも足も熱くないのだ。どれだけ登っても頂上にはたどり着かない。呼吸も乱れない。疲労も感じない。 不意に立ち止まり、もと来た道を眺める。何も変わっていない気がする。最初から一歩も動いていない気がする。そもそも砂以外何もないのだ。風も感じないため、方角もわからない。僕は砂漠に迷い込んだのではなく、クロッキー帳の中に閉じ込められたのではないかと感じる。 真横に走ってみようと考え違和感に気づく。腹が膨れているのだ。肉と米をいっぱい食べた時のように、腹が膨れている。胃からではなく、腹だけが膨れている。もともと満腹感も空腹感もない。走っている間に膨れたのだろうか? 考えるのを止めて僕は走り続けた。砂漠をさまよう中、確信を持った。 僕の腹で何か生きている。それに気づいたとき、いつも目が覚めた。                9  それからしばらくの間、僕は砂漠でお腹が膨らむ夢を何度か見た。夢での出来事は同じでも、お腹の何かは少しずつ大きくなっているように思えた。 僕はその夢を見ると学校を休んだ。数えるほどの日数だったが、どうしても起き上がる気にならなかった。学校に連絡し食事もとらず眠り続けた。昼間に夢は見なかったし、どれだけ寝ても夜にはまた眠くなった。何度起きても部屋に母さんの気配は感じられなかった。 母さんの行動が学校で話題になるまで時間はかからなかった。誰かが町で母さんを見かけ、それがすぐに広まった。母さんはクラスメイトの母さん親にも嫌われているらしかった。 僕にはウワサ自体を否定する材料がなかった。 多くのクラスメイトは談笑しながら僕の顔を見たりしていた。日を追うごとに視線は増えて行った。他のクラスでも評判になっていると知った。 こんな時は人の声がよく聞こえた。僕に触ると何かが「うつる」らしく、近づく者はいなくなった。他者と雑談をしているクラスメイトとよく目が合った。全員に一日中監視されているみたいだった。一度も話したことないクラスメイトに「通信簿もってこいよ」と言われたりした。このままいくとあっという間に日本中の男と「ヤってる」ことになるんじゃないかと感じた。 日を追うごとに母さんの男性遍歴に関するエピソードは増えて行った。担任と腕を組んで歩いていたとか、パチンコ屋でしゃぶってるとかいった軽いものから、簡単に口に出せないようなものもあった。 しばらくすると、彼らは自らの頭でこしらえた話を、僕に聞かせた。こんなこといわれていたぜ、と彼らは言った。三人に一人は「大丈夫か?」と言った。休み時間の度にそれは続いた。ネタが尽きると、僕の近くであえぎ声をあげる度胸試しが彼らにとって人気のゲームになった。すれ違いざまに僕の尻を叩く遊びも同時に始まった。 教室にはいつも多くの人がいた。みんなが何かされる僕を見てケタケタ笑っていた。誰もが同じ笑い方だった。僕以外の全てが一つの生き物みたいだった。 母さんは彼らのたくましい想像力の恰好のオモチャになり、僕は彼らのゴミ箱みたいだった。 水を飲まないと落ち着かなくなった。僕は大量の水を飲んだ。家でもどこでも、飲みたいと思い始めると抑えが聞かず、心が受け入れるまで水を飲み続けた。学校では今まで通りの弁当を食べた。学校が終わると、体が汚れるものを食べて、打ち消すように水を飲んだ。何度かに一回はそのまま吐いた。 マラソンの授業で教師にタバコの吸いすぎを疑われた。僕があまりに走れなかったからだ。周囲からオナニーのし過ぎだ、と揶揄された。 牛丼を食べるために、夜中に外に出るようになった。アルコールやキッチン洗剤を体にかけ、たわしで体をこすった。親指の指紋を消そうと爪で何度もほじくった。霜が降りる中、水着とゴーグルで外を走った。 何かしていないと、何かに飲み込まれそうだった。 何をしても、何も起きなかった。 母さんが男の人といるのを想像するだけで、僕のほっぺたはいつもカチカチになった。放っておくと細かく痙攣することもあった。そうすると僕は、人の見ていない所でつねったり、手のひらでほぐしたり、無理に笑顔を作ったりした。   屋上だけが僕の居場所だった。もともと孤立していた様なものじゃないか、と僕は自分に言い聞かせた。あっという間に秋が終わり、冬が始まろうとしていた。日を追うごとに気温が下がると、身を寄せ合って寒さに耐えていた生徒たちも屋上から去っていった。彼らには居場所がたくさんあるのだ、と思った。雨が降ると多くの日で僕は一人で屋上を使うことになった。 僕は短波ラジオを屋上に持ち込んだ。天気予報氏が、偏西風の流れを見るとこの冬は例年より寒くなるでしょう、と言った。夏が暑い年は冬も寒いんですよねぇ、とパーソナリティの男性とやりとりしていた。つまみをいじりノイズになるようにして、ユリシーズを開いた。授業もろくに聞かず、誰とも話さなかった。昼休みに屋上に来るために僕は学校に通った。ここに来ないと、壊れてしまいそうだった。                   10 部屋の電気を消したままテレビを見ることが増えた。学校が終わると寄り道せずに家に戻り、壁によりかかって地べたに座り込んで流れる映像をただ追った。たいていはニュースだったり、ドラマの再放送だったりした。作り物にはどうしても興味が持てなかったし、どこでだれが何人殺されようとも、心は動かなかった。ふと(いつまでこんな日々が続くのだろう)と思った。背中は白い壁に張り付いて、足は床に容赦なく体重をかけた。このまま立ち上がれないような気がした。 テレビはいつの間にか、子供向けのアニメ番組に替わっていた。短髪の少年が主人公で、 部屋を散らかして母さん親に怒られていた。主人公が何か言い返し、父親が大きく笑った。 僕は四つん這いのままTVに近づき、画面の中の床に触れた。床はメロンの果肉みたいな緑色をしていた。畳なのか絨毯なのかは分からなかった。家族でカレーライスを食べていた。僕は黒目が熱くなるほど、眼球を画面に近づけた。至近距離で見ると、これは本物の家族ではない、と思った。ただの絵じゃないか。不自然にデフォルメされた、二頭身の少年。過剰なほど細身の母さん親。父親だけは違和感を見つけることができなかった。 僕は画面にほおずりをした。静電気が僕の頬を蹴り逃げて行った。いくら描線の集合体とわかっていても、この家族がうらやましかった。この中に僕も入りたかった。頬が登場人物にあたりそうになり、彼らを避けた。ここも僕の居場所はない。自分はどうあってもこの家の一因にはなれないのだ。 家で夕食を作っていると、チャイムが鳴った。ドアスコープを覗くとそこには親戚のおじさんが立っていた。クリーム色をしたツナギを着て、胸元のファスナーを大きく開けていた。前にあった時よりふっくらして、髪も金髪に染まっていた。 おじさんは家の中を見渡し「お母さんは?」と言った。僕はおじさんも母さんと「ヤっている」のか、と思った。 「元気だった?」とおじさんは沖縄訛りのイントネーションで言った。二年前に父が出て行ったときにあった。その時に「島を出て五年たったと言っていた。高卒で上京し、五年たった大きくなったねぇ、と付け加えた。ご飯を作る僕に興味を示した。それも今度食べてみたいけれど、「何か、ご飯食べ行こう」と言った。おじさんはずっとにこにこしていた。僕はさっき思ったことを恥じた。 焼き肉屋を食べた。僕はお好み焼き屋に行きたかったけど、おじさんが「肉じゃなくていい?」と二回聞いたので肉になった。僕は食べたいものを頼んだ。やみつきキャベツのたれを解析したり、カクテキを食べ、作り方を想像した。トッポギとチヂミを食べ、冷麺は食べなかった。ナムルのクッパは二人で食べた。 「自分で料理する奴は頼むものが違うねぇ」といった。おじさんはゆでた野菜を食べるのは一年ぶりだといった。「いつも何食べてるの?」と聞くと、「牛丼かラーメン」と答えた。 「いろんなメニューに浮気するけどさ、結局牛丼に戻ってくるんだよねぇ」と言った。 僕は浮気と聞いて胸が痛んだ。あばらを指で押されるように、胸が急に痛んだ。「でも牛丼に玉ねぎ入ってるか」と言って一人で納得していた。「ラーメンにも入ってるんじゃない?」と言った。「俺けっこう野菜摂ってんな」と言った。 おじさんは「食べてる?」と言って米を食べていた。一口が僕の二倍くらいあって、この人に食べられるお米は幸せだろうな、と思った。逆さ箸で僕の茶碗にコメを足し、お代わりを頼んでいた。つぼ漬けのカルビをもう一度食べたい、と言った。おじさんは笑った。 遠山とデートしたことを話した。おじさんが僕のことばかり聞いてきたので、僕は遠山のことばかり話した。一通り話し終わると「今日うちに泊まりなよ」と言った。僕が頷くと、おじさんは母さんに電話をかけた。出ないと思った母さんはあっさり電話に出た。 僕たちはコンビニに寄って、別の店でDVDを借りた。 おじさんがアダルトコーナーに僕を連れて行って「好きなの借りなよ」と言った。 僕は何が好きかなんてわからなかったので、色黒の女子高生が出てくるものを選んでおじさんに渡した。「へぇ意外」とおじさんは言った。「巨乳じゃないけどいいの?」とあまりにも当然のように聞くので、僕は本当に損をしているのかもしれない、と思った。僕の背より高い棚には、裸の女の人が映ったパッケージが並んでいた。きれいじゃない女性は一人もいなかった。。おじさんが選んでいる間、もっと見てみたいDVDを見つけたが、替えてもらうのは恥ずかしいので言えなかった。 家に帰り「何食ってもやっぱ最後はこれなんだよな」と言ってコーラとポテトチップスを食べ始めた。おじさんの家は二階にあり一階にある「柴田組」と書かれた会社に勤めていた。銀色のラックにフィギュアが並び、不揃いの漫画が何冊もあった。チープな虎のラグマットとダーツとスロットマシンがあった。僕は学校は楽しい、と嘘をついた。おじさんも仕事は楽しい、と言った。 DVDをつけたところで「観終わったら起こして」と言ってテーブルの横でおじさんは寝てしまった。寝息が聞こえたところで、僕はDVDを停めた。水槽がある、と思って近づいたらポスターだった。炊飯器の上に、目が光るフクロウの像があった。洋楽のバンドTシャツが何種類も部屋の外で揺れていた。洗面台に靴下を履いた女性のマネキンが立っていた。細い脚の着いた木製のチェストの上にターンテーブルが置かれていたが、この部屋のどこを見渡してもレコードは一枚もなかった。僕は思わず笑ってしまった。  僕はおじさんに「ベットで寝なよ」と声をかけた。おじさんは一滴も飲んでいないのに ひょうたんみたいに顔がむくんでいた。「一緒に寝よう」と言われて、僕たちはシングルベッドに二人で入った。おじさんは僕の方を向いてまた眠り始めた。 僕なんかと向かい合って寝てくれる人がいることが嬉しかった。                  11 遠山と学校帰りに食事をした。「食べてから話そう」と彼女は言った。チェーン展開している定食屋だったが、中に入るのは初めてだった。 夕暮れ時の店内は閑散としており、僕たちの他に客はほとんどいなかった。表通りが見渡せる四人掛けのテーブル席に座ると「メニュー見てて」と言って遠山は席を離れた。テーブルの上にある三角柱のPOPや調味料を見ているうちに彼女は水の入ったコップを二つ持ってきた。 「ありがとう」と僕は言った。少し声を出すだけで、最近は息が上がるようになった。 「外食ってするの?」と聞かれたので、僕は首を横に振った。 「あなたの味つけは素朴だもんね。お店とは違う。ああいう味付けが好きなんでしょ? それともあの日のお弁当は、わたしに合わせてくれたの?」 「薄かったかな」 「そうじゃないの。薄いとか濃いとか、そんなことが言いたかったわけじゃないの。あなたにしか出せないんじゃないか、って思う独特の味がしたの。安っぽい言い方だけど」 僕は水を飲みながら言われたことについて考えていた。考えながら飲んだので軽くむせた。「そうかな」と僕は答えた。 「君の言ってくれたことは嬉しいよ。本当に。でも僕は、基本的に料理本に書いてある通りに作るし、アレンジもしない。人に食べてもらうときは特にね。だから作り手によって味が変わるとは思えないけど」 「目隠ししてたってわかるわよ」と彼女はメニューを見ながら当然のように言った。 僕が黙っていると「耳栓したって鼻つまんだって同じよ」と付け加えた。 彼女は脱いだブレザーを畳んで脇に置いた。胸元に馬のマークが付いたブラウンの長袖のセーターを着ていた。髪は黒く、肌とシャツは違う白だった。彼女が目隠しと耳栓をして、鼻をつまみながら僕の作った料理を食べる姿を想像した。僕はまた呼吸が荒くなって、彼女の口元から目が離せなくなった。 「あなたもたまにはこういうお店に来るべきだわ。うーん。違うわね。他の人が作った料理をたまには食べるべきよ、って言うべきかしら。わたしはたまに来るの、一人でね。自分で作ったものばかり食べていると、偏っちゃうのよ。体の中も頭の中も、知らず知らずの内にね。だって誰も何も言ってくれないんだもの、そうでしょ? そしてズルズル気が付かないうちにルートを外れて、崖からストン、って落っこちてしまうのよ」 「ルートってどこにあるの?」 「人の道よ。人間が本来歩むべき道、って言えばいいかしら? 自分で作ったものばかり一人で食べていると、そこから外れてしまうのよ。簡単にね。もういいかしら?」 「君も料理をするの?」と僕は聞いた。 「しないわよ。私は料理をしないから説得力に欠けるかもしれないけれど、言ってることは正しいと思うわよ。ねぇ、こんな話やめない? お腹がペコペコなのよ」 「うん。誰かが作ったものを食べるのは、僕にとっていい勉強になると思う。こういうお店、一人ではまず来ないから」 「違うのよ。勉強とか経験じゃないの。そういう話じゃないのよ。あなたとしたかったのは。ただ二人で食事を楽しみましょう、って言いたかったのよ、わたしは。肩の力を抜いてね。あなた、そんな的外れなことばかり言ってると本当にいつか一人ぼっちになっちゃうわよ。学校の成績は悪くないのに、あなたって本当にお馬鹿さんねぇ」 むっとして言い返そうとすると、遠山はメニューで顔を半分隠し、僕に言った。 「このお店、いい匂いするでしょう? メニューにもその匂いが染みついているの。きっと美味しいお店は、メニューまで美味しい匂いがするんだわ。さっきもいったけど、お腹ペコペコなの。頼んでから時間が掛かるのよ、このお店。宅配ピザみたいに」 僕は大きく息を吸った。焼き魚やみそ汁、肉の脂の匂いがした。僕にとっては香り、と表現したくなる匂いだった。 「メニューかじってみてもいいわよ。でも一人でやってね」と彼女は言った。 「そんな下品なことはしない」 「地獄に落ちるわよ」 一人で? と僕が聞くと「当たり前じゃない」と彼女は口を開けて笑った。 彼女は「たくさん食べて、たくさん話すの」と外に向かって言った。母さん親が乳母さん車に乗る赤ん坊にフードをかぶせていた。彼女の話が終わると、僕はメニューを広げた。 遠山は唐揚げ定食を食べ、僕は山菜うどんとオクラの乗った冷奴を頼んだ。唐揚げを食べる女の子を見るのは初めてだった。彼女は僕の冷奴を半分食べた。僕は彼女が唐揚げにかけていた魔法のスパイスに夢中になった。 満たされた僕たちは公園に向かった。                 12 公園に着いた僕たちはケヤキや銀杏の葉を踏みながら園内を歩いた。遠山は自分の靴底が地面に触れないように落ち葉の上を不規則に歩いていた。僕はそれに後ろからついて行った。ゲームに飽きた遠山は野球場の脇にあるベンチに腰を下ろした。 「この落ち葉くん達は、この後どこに行くのかしら?」 「業者が来て回収するんだよ。トラックが公園の中まで入ってきて、ビニールシートに落ち葉を集めて、クレーンでシートの四隅を引っ張り上げてトラックに乗せるんだ」 「つまんないわ、そんな答え」 「事実なんだからしょうがないだろう」と僕は反論して肩に付いた落ち葉を払い、彼女の隣に座った。 まぁね、と彼女は言った。「そんなに面白い事ばっかり起こるはずないものね。それとも伝記を残したり後世に名を残したりするような人たちの周りでは、起きてから寝るまで面白いことで溢れているのかしら? ロックスターとか」 僕は何も答えることができなかった。もちろんロックスターの知り合いなんて一人もいなかった。僕は夏休みに本で読んだ、大事なライブの前にコウモリを食べるミュージシャンの話をした。彼女は僕の話を途中で遮ってこう言った。 「あなたは自分が特別な人間、って思ったことはある?」 ない、と僕はきっぱりと答えた。僕の人生には平凡なことしか起こらない。これから先もずっと。 二人の間に静寂が流れた。大柄な三毛猫が、水飲み場のそばを悠々と歩いていた。 「ごめんなさい。わたしが悪いの」 「次は必ず面白い話をするよ」と僕は言った。 彼女は首を横に振った。 「なんでもいいから話したかったの。あなたとならどんな話でも楽しくなるはず、って思ったの。そんなことあるはずないのに」 「だからごめんって」 「そうじゃないの。わたしが悪いの。準備ができていなかったのよ。あなたとの時間を楽しむ準備が。ずっと考えてたのよ。一緒にご飯食べてるときもずっと。なんで今日あなたを誘ったんだっけ? って。最近いろんなことを考えてしまうの。頭が破裂しそうなのよ」 「疲れてるんだよ。しばらく何も考えないほうが良い」 彼女は下を向いて黙り込んだ。その姿はいつもより小さく見えた。 「立ち止まってみたかったの。どんどん先に行かずにね。今のわたし達にはそうすることが必要だと思うの」 「僕たち?」 彼女は何も答えず、前方を指でさした。口ひげをたっぷり生やした細身の男が息子とフリスビーをして遊んでいた。 「素敵ね」と彼女は言った。 「あなたの好きなことを教えて?」 僕は考えるふりをして言った。  「そんなに多くないよ。料理をしたり、本を読んだり」 「それは知ってるの。わたしの知らないことを話して」 今度は僕が黙ってしまった。僕はいったい何が好きなんだろう。 「パキスタンのバスのクラクション。前にテレビで見たんだ。ギターの弦を弾くような音とか、汽笛みたいな音とか。音色の違うホーンを何本も組み合わせたりして。パキスタンの人たちは陽気な人が多いんだ。性格がカラっとしているんだって。砂埃のたくさん舞う道路で、大勢の車がクラクションをたくさん鳴らして走るんだ。一台ごとに音色が全然違うんだ」 へぇ、と彼女は言った。気の抜けた炭酸みたいな声だった。 「いつか目の前で見れるといいわね」 見る? 直接みたいなんて考えたこともなかった。テレビに映ったパキスタンの人々の顔を思い浮かべた。 「あなたのノートを見るのが好きなの。借りたの覚えてるでしょ?」 フリスビーをしていた子供が、父親に手を引かれながら僕らの前を横切っていった。 「授業中によく見てたの。あなたがせっせと黒板を映しているのを見ると、胸がいつも温かくなったの。そうするとね、耳たぶの後ろがむずむずしてくるの。それでね、周りに気づかれないように頬杖を突くふりをして、首筋をぐりぐり押すの。気がついたらわたし笑ってるの。止められないのよ、押すことも笑うこともね。笑い終わるとね、急に心細くなるの。あなたはずっとそこにいるのにね」 遠山はそう言って首筋を僕に見せて「ここ」と言った。僕は恥ずかしくて上手に見ることができなかった。 互いがそれぞれ話すと、すぐに沈黙が訪れた。今日の沈黙はなぜか好きになれなかった。 「わたしの家にいる母さん親はね、二人目なの。半年前に弟を一人連れてやって来たの」 「パパは上手くやれると思ったみたい。一つも問題は起こらない、って本気で思ってる口調だったわ。何事もバランスで考えるの。男と女、大人と子供が一人づつ、オールオッケー、みたいにね。数でしか見ないの。相性とか、個々の人格とか。そういったことは一切考えない人なのよ」 「本当のお母さんはどこにいるの?」と僕は聞いた。 「犬が嫌いになっちゃったの。あいつは弟と一緒に犬も一緒に連れてきたの。あいつのせいで全ての犬が嫌いになっちゃった。わたしが散歩に連れて行くの。毎日決まった時間にね。あいつは絶対行かないの。パパがいない時は、すべての世話をわたしがするのよ。別に誰かと遊びたいわけじゃないの。習い事をしたいわけでも、予定があるわけでもないの。顔も仕草も本当に可愛いのよ。でも散歩の時、前を歩かれるのがどうしても我慢できないの。ずいぶん我慢してるのよ。それが今のあたしの役割だから。」 銀のウインドブレーカーを着た太った男が遠くのベンチに腰を下ろした。大きく足を開き、剥き出しになった頭皮を掻きながら缶に入った飲み物を飲んでいだ。 「わたしはママの血を上手に継げなかったの。あんなに優しい人はいないわ。ママの両親も優しい人だったの。ママはあの二人の作った結晶みたいなものだったのよ」 「二人で遊んだ日にね、あなたも散歩に誘いたい、って思ったの。あなたと歩けたら、全部許せそうな気がしたの。でも考えてしまったの。『もしそうじゃなかったら?』って。嫌いなものに触れているときの私を、あなたにだけは見られたくなかったの」 まだ暗くなっていないのに、公園の灯りがついた。僕は何故か無性に腹が立った。 「許してくれる?」 僕は大げさなくらい大きく頷いた。初めて彼女の目を見て話すことができた。 「パパとあいつがママを殺したんじゃないかって思ってしまうの。そんなわけないのにね」 遠山は僕の目を見て頷いた。目に溜まった涙をセーターに付けた。セーターは涙を受け入れなかった。                 13 「わたしのこと、太ってると思う?」 「君は太ってなんかないよ」 「今よりずっと綺麗だった時期があるのよ。新しいお母さんが来てしばらくたった頃ね。今より肩と脇の下がスッキリしててね、後ろにある世界がよおく見えるの。頬骨も太腿も、背中も完璧だったわね。とにかく余計なものが何もないの。体中に好きなだけカンナをかけたみたいにね。そんなときって髪型もなぜかばっちり決まるの。不思議。自分でもとってもびっくりしたの。こんなに綺麗なのわたし、って。お父さんも嬉しそうだったし、お母さんもたくさん褒めてくれたの。それをきっかけに少し打ち解けたのよ、一緒に洋服を買いに行ったりしたわ。 でもすぐにダメになっちゃったの。三か月くらいしかもたなかったんじゃないかしら。 今思うと、ほんの少しふっくらしただけなの。ママに似てきたのね。 一度あのわたしを見ているから、それが基準になってるのよ。父ははっきりと言ったわ。『前の方が良かった』ってね。二人ともわたしを軽蔑した目で見てたわ。 過去の自分に戻ろう、と思って色々試したのよ。思いつくことは何でもしたわ。でも駄目だった。一番綺麗なわたしはもうどこかに行ってしまったの。ピークはもう過ぎてしまったのよ。 おかずが四個あるとするわよね。ハンバーグでもいいわ。一人一つって思うでしょ? 家では違うの。母さんはわたしのおかずを半分に割って、弟のお皿に盛るの。毎日のようにそんなことがあるの。弟が残すと、当たり前みたいにそれをゴミ箱に捨てるの。 わたし一度睨みつけたわ。ごみ箱に捨てた時にね。そしたらあの女、ゴミ箱のふたを持ちながら『食べたきゃここから取っていいわよ』って言ったの」 「君のお父さんは何も言ってくれないの?」と僕は尋ねた。 「いないときにやるのよ。露骨なことはね」 わたしだって子供じゃないんだもの。時間がたつと、折り合いをつけられるようになったわ。目を背けたってしょうがないじゃない。少し太った。それは本当のことなのよ。 でもね、あれから何か食べようとすると、今までのことが頭をよぎることがあるの。 そして何を食べても美味しく感じなくなっちゃうの。 「僕たちはまだ中学生じゃないか」と僕は言った。 遠山は僕を睨みつけた。 「ねぇ、お願いだからあなただけはそんなこと言わないでよ。わたしも悪かったわ、いきなりこんな話持ち出して。でも、あなただけにはそんな言われ方されたくないの」 「ごめん」と僕は言った。 「僕が悪かった。どこかで聞いたような言葉なんか言うべきじゃなかった。君がいろいろ話してくれたから、驚いてしまったんだ」 遠山は僕から顔を背けて黙っていた。しばらくすると、丸まった背中がゆっくりと揺れ始めた。 「君の嫌がることはしたくない」と僕は言った。そっぽを向いたまま彼女は答えた。 「違うの。そうじゃないのよ。それじゃ全く足りないの。何もしていないのと同じなのよ。自分でも勝手だと思うけど」 「思わないよ」と僕は答えた。 「忘れないで。大切に思っているのよ。あなたが思っている以上に。絶対にわたしの前からいなくならないでね」 手を伸ばすと、彼女の方が消えてしまいそうだった。僕は彼女に触れることができなかった。                    14 「僕たちは仲のいい家族だったんだ。確かに父さんは働いていなかったけど、楽しい思い出の方が多い気がする」 「夏のある日にね、母さんが言ったんだ。『いい加減タバコ止めなさいよ』って。父さんは『そうだなぁ』とかいってさ、いつも通り誤魔化そうとしてた。でもその日はしばらくテレビを見てたらさ、急に『タバコ吸うの今から止める、お前らついて来い』って言い始めたんだ。僕はお腹が空いていたから『お昼ごはん食べたい』って言ったんだけど聞き入れてもらえなくて、残ったタバコと家中にあった百円ライターをビニール袋に入れてさ、小さいシャベルを持って三人で近所の大きな公園に行って穴を掘って埋めたんだ。母さんは笑いながら『バカじゃないの』とか言って手伝ってくれなくて、僕と父さんで穴を掘ったんだ。一度家に帰って、ショッピングモールのファミリーレストランで昼ご飯を食べに行った。あの日の母さんが一番笑っていた気がする。父さんはビールを飲んで、ずっとしゃべり続けていた。店を出て三人でモールを見て回った。初めてだったな、あんなこと。母さんの洋服を見たり、父さんがキャンプ用品を欲しがったり、僕の靴を買ってもらったりした」 「夕方になったらね、父さんが『先に帰っとけ』って言って先に行っちゃったんだ。母さんはしばらくそこに立っていた。母さんの顔が怖くて、僕が手を握ったら『行くよ』って言って後をつけ始めた。そこから先はわかるよね? 父さんは公園に戻って、四つん這いになって汗だくでタバコを掘り返していたんだ。シャベルは家にあるからさ、最初は爪でほじくろうとしてた。でも上手くいかなくて、土だらけの手で子供に頭を下げて、スコップを借りてた。掘り返してポリ袋をびりびりに破いて、近くの木にもたれ掛かってタバコを吸い始めた。肘にもジーパンにもたくさん土がついていた。僕と母さんは遠くからそれをずっと見てたんだ。 僕は一度だけ母さんを見た。一度しか見ることができなかったんだ。ひん曲がった母さんの顔は、西日に照らされて鉄が溶けたような表情をしてた」 「母さんのあの顔を見た時、僕の中で何かが変わってしまったと感じるんだ。確かに僕は今、母さんが原因で嫌な思いをしている。でもそんなものは、僕がじっ、と堪えていれば、いつか止むものなんだ。被害を僕の所でせき止めれば、母さんまで伝わらない。そうすれば僕は、あの顔をもう一度見なくて済むんだ」 「僕は屋上に通っている。入学してから毎日ずっとね。それが心の支えになっている。でもね、今は太陽がとても遠くに感じるんだ。夏にはあんなにも僕を励ましてくれたのにね。そのことが少し寂しいんだよ」 僕はゆっくり息を吐いて、息を整えた。一度にしゃべって頭が熱くなった。 僕はカバンからブランケットを取り出し、遠山の膝に掛けた。彼女は僕に礼を言い、布を広げて僕にも掛けた。 「なんであなたが叩かれているのかわかる? 今までもあなたのことを叩いてやろうと思っていた人はいたはずよ。常にね。誰とも交わらず、黙々と生きているあなたが自由に見えるのよ。あなたみたいな生き方は癇に障るの。ある人たちにとっては。でも他の人よりも柔らかそうで脆そうなあなたを、誰も叩けなかっただけ。みんなストレスが溜まっているのよ。好きな時に思い通りに叩けるオモチャが必要なのよ。みんなあなた自身が憎いわけじゃないのよ」 僕は何も言わなかった。何の説明にもなってないじゃないか、と思った。 「なんで今日まで声を掛けなかったかわかる? あなたが少しもわたしのことを見てくれなかったからよ。あなたが学校を休んでいる時、わたしも家で眠り続けているのよ。おそらくあなたと同じようにね。あなたはそんなことすら気づいてないでしょう? そのことが寂しかったの。あなたの方からこっちを見てほしかったの。 今日なんで声を掛けたかわかる? わたしにも聞いてほしい話があるからよ。あなたが思っているより沢山。思ってることを全部誰かに聞いてもらってはいお終い、ってしたくなるのよ。解決なんかしなくてもいい。あなたが思っているほどわたしにも余裕なんてないのよ」 向かい側の通りにいる郵便配達員が、原付に乗って走り去った。 「また屋上に戻れば良いって思ったんだ。一人で本を読んで、食事をする毎日にね。君のことは頭をよぎらなかった」 そう、と彼女は言った。 「わたしが消えたら悲しい?」 悲しい、と僕は言った。 「わたしも同じよ。あなたがいなくなったら悲しい」 「君がいなくなると悲しい。確信を持って言えるよ。でもね、『僕がいなくなると君が悲しい』っていうことが、どれだけ考えても理解できないんだ。疑ってるわけじゃない。ただわからないんだ。そしてそれが、僕の本心なんだよ」 彼女は立ち上がり「さようなら」と言ってカバンからクロッキー帳を出して僕に投げつけた。教室で黒板を見つめる僕がそこに描かれていた。 「あなた今、本当にひどい顔してるわよ」                   15 ポニーテールの男は、母さんと一緒に玄関にやって来た。僕は夕食を済ませ、シャワーを浴び終わったばかりで、濡れた髪の毛のままで洗い物と明日の弁当作りをしていた。厚みのある体格をしたポニーテールの男は、僕よりずっと背が高いのに足の長さは同じくらいだった。ホームベース型の顔面は、薄いフレームの丸眼鏡のせいでより大きく見えた。 「挨拶しなさい」と母さんが言った。僕がそれに応える前に、男は勝手に自己紹介を始めた。男は母さんに仕事を教えてもらっていることを僕に伝えた。両手を膝に付き、園児に諭すように言った。放っておくと僕の頭を撫でてきそうな声音だったので、僕は鳥肌が止まらなくなった。想像より甲高い声を聞いて、母さんより僕の方が年が近いのでは、と感じた。 男は手に持った巾着袋から靴を取り出して僕に差し出した。牛蒡の色をしたパタゴニアのマウンテンシューズだった。「サイズが合わなくてほとんど履いてないからあげるよ」と言った。 僕が何回か断っても相手は引かなかった。しまいには母さんと二人で半ば強引に僕の足を取り、素足を靴に詰めた。 「良いじゃない」と母さんが言った後で「ホントにもらっていいの?」と男に確認した。男は「まだまだ家にあるし」と言って僕の方を見ながら言った。とにかく早く脱ぎたかった。ソールの柔らかさが気持ち悪かった。 靴を僕に与えてから、男は露骨に馴れ馴れしくなった。上座の椅子に腰掛け、砕けた口調でよくしゃべった。ティッシュを取り、テーブルに飛んだツバを軽く拭いた。男は当たり前の様にタバコに火をつけ、母さんは灰皿を差し出した。 「突っ立ってないであんたも座りなさいよ」と声が聞こえた。僕はどうしても座る気にならず椅子のそばに立ち続けた。 「緊張してんのよこの子」と母さんが言って、「へぇ」と男はにやけながら答えた。雑に処理された灰が、テーブルに何度も落ちた。タバコくらい上手く吸えよ、と僕は思った。 部外者は僕みたいだった。 男が不意に「俺にもなんかメシ作ってよ」と言った。母さんではなく最初から僕に言った。 「宿題があるから」と言って部屋に戻り、机に座って教科書を広げた。隣の部屋の笑い声は次第に大きくなっていった。 一時間ほどたった後で、母さんがノックもせずに部屋のドアを開けた。 「ねぇ、あんたの料理、どうしても食べたいんだって。なんか作りなさいよ。冷蔵庫の中、たくさん入ってたじゃない」と言った。 僕は明日のお弁当で使う予定だった豚肉を使い、生姜焼きを作った。ポニーテールの男は換気扇の下でタバコを吸いながら僕の姿を見ていた。明日のお弁当の分を避けようとしたら「おれ全部食えるよ」と言われた。僕はやけになって皿に盛った。 僕が食事をテーブルに運んだ時、男は椅子に膝を立てて座っていた。男に割りばしを渡したら、母さんが「ちゃんとした箸あるでしょう」と言った。「ないよ」と僕が言うと母さんはキッチンに音を立てて歩いて行き、すぐに藍色の箸を持ってきた。 「毎日馬鹿みたいに洗い物してんだからあるに決まってるでしょう」と言った。 男は「うまいじゃん」と言いながらマヨネーズを山のようにかけて豚肉を食べた。キャベツとみそ汁を中途半端に残し、最後に漬物を受け口で食べた。僕は他人が肉を食べている姿を見るのが苦手だと知った。男が爪楊枝で歯をほじくりだしたので、僕が皿を片付ける羽目になった。母さんはそばにいるのに何もしなかった。シンクが洗い物でいっぱいになった。なぜか食べ物以外の匂いも混じっている気がした。白い皿にベットリ付いたタレが憎らしく見えた。皿を水に漬け終わると、「ついでにお茶入れなさいよ」と母さんが言った。「濃いめな」と男が言った。 大きめのグラスに青汁と大量の唐辛子を入れ、戸棚の奥に入っていたカビ取り用の洗浄剤や、何度も排水溝を洗ったスポンジの水を入れて使わなかった割りばしでかき混ぜた、遠くの方で笑い声が聞こえた。僕はグラスを力いっぱい握りしめ、中身をシンクに流した。 お茶を飲むと、男はあっさりと帰った。見送りから家に戻った母さんは僕に言った。 「あんな態度取ることないでしょ。なに不機嫌になってんのよ。お兄さんと仲良くなれて良かったじゃない」 僕はいつもより音を立てて洗い物をした。母さんは「こっち向きなさい」と僕に怒鳴った。 「あんた屋上に行って一人でご飯食べてるらしいじゃない。学校に友達いんの?」 「関係ないよ」と僕は言った。母さんと二人でしゃべるのは久しぶりだと思った。 「母さん親に向かって関係ないって何よ」と言った。玄関にある置き時計の針が十一時を指した。 「そうじゃないよ。一人でご飯を食べることと、友達がいるかどうかは何の関係もない、って言ったんだ」 母さんは黙った。次に何を言おうか考えてるみたいだった。 「何よその顔。ぶつわよ」と言って、手を振り上げて僕を牽制した。 僕は思わずため息をついた。 「謝りなさい。お母さん傷ついたのよ。謝りなさい!」と彼女は言った。 遠山は僕に (あなた今、本当にひどい顔してるのよ) と言った。 今の方がひどい顔してるだろうな、と僕は思った。 硬直した頬が口を動かそうとするのを必死で拒んだ。僕はなんとか「ごめんなさい」と口に言わせた。                    16 初対面の日を除いてポニーテールの男が家の中に入ってくることはなかった。その替わり何度か三人で外食をした。母さんは二日に一回は僕を誘った。僕は必ず母さんの誘いを断った。たいていの場合、母さんはあっさりと引いた。僕が行かないと確認できると、いつも派手な服に着替えて家を出て行った。「誰か」への言い訳に義務的に僕を誘っているようだった。 何度かに一度、母さんは絶対に引かないことがあった。僕はしぶしぶついて行った。それでも首を縦に振らないと、母さんは家の中で黙り、結論を先送りにする術を覚えた。チャイムが鳴り、ポニーテールの男が玄関まで来てしまうと、僕の思考回路はショートし、ついていくことになった。 車内には弾力のある革張りのシートがあった。母さんがいつも助手席に座り、僕が後ろに座った。「特注なんだぜ」と男は言った。車内はいつもハッカドールみたいな匂いがした。車がスピードを上げる度、僕はいつも事故に遭え、と思っていた。このポニーテールを引っ張ったら死ねるのかな、と何度も思った。僕だけが死ねる確率は低そうだったので止めた。 行き先はいつも彼らが決めた。全国チェーンのレストランのこともあったし、高級そうな個人店のこともあった。どんな店で食事をしても、男はよくしゃべった。母さんの合いの手を制止して話し続けることもあった。男は縁故採用で入社したらしく、将来会社で偉くなる人、とのことだった。「まだまだ使えないけどね」と母さんは僕に言った。男は本気でムッとした表情を浮かべてしばらく腹を立てている様子だった。僕はその顔があまりに真剣だったので、少し驚いた。 男の髪型はいつもポニーテールだった。代わりに髪の色は良く変わった。金髪にしたときは竹ぼうきにしか見えなかったし、濃い茶色にしたときはガンバの大冒険の下水にいるドブネズミみたいだった。 彼らと何を食べても美味しいと感じなかった。ファミリーレストランでも、高そうな寿司屋でもそれは同じだった。遠山の時とは何もかもが違った。彼らに味の感想を求められると、彼女を思い出して僕の胸はいつも痛んだ。その質問だけ、上手く笑うことができた。 機嫌のいい時、男はよく「オレに聞きたいこと何でも聞いていいから」と言った。 「オレがこんなこと言うのはお前だけだから」とか「お前はホント伸びるよ」とか言っていた。あまりに何度も言うので一度だけ質問を考えてみたが、本当に何も浮かばなかった。 男と母さんは僕の前でよく言い争いをするようになった。男の振る舞いを母さんが窘めることが多かった。二人はよく飲食店や車の中で小さな言い争いをした。僕の前でイチャつくこともケンカの数に比例して増えた。 男は食事を共にする毎に、僕たちの親睦が深まっていると考えているみたいだった。飲食店で支払いの最中、彼は必ず、最近買ったものを僕に自慢した。レイバンのサングラスとかモンクレールのダウンとかを僕に見せびらかしたりした。全ての品物を必ず僕に触らせた。値段やうんちくの披露が終わり、僕はすぐに自慢の一品を男に返した。満足そうな顔を浮かべると、男のあごはいつも前にシャクレた。男が身に着けた瞬間に、すべてが安っぽく見えた。男自身より、製品単体の方がよっぽど価値があるように思えた。食事が終わると男は僕を家まで送り、母さんと二人で車で走り去った。次第に僕は家の前ではなく、最寄り駅の近くで降ろされることが増えた。  ある日、僕と男はトイレに行った母さんの帰りを飲食店の外で待っていた。吐く息はすぐに白くなり、僕らを外で待っていたスポーツカーも寒そうだった。男は急に僕の手を取り、自分のダウンジャケットのポケットに僕の手を突っ込んだ。僕はびっくりして手を引っ込めようとしたが、男は僕の手首を抑え、それを阻止した。ポケットの中には五百円玉くらいの大きさの薄いビニールの固まりが入っていた。握ると弾力のあるぐにぐに、とした感触があった。側面にギザギザした切れ込みがあり、同じ形をしたものがいくつも入っていた。男は「何かわかるか?」と聞いて僕に時間をかけてそれを触らせた。僕は答えがわからず、首を横に振った。男は紫がかった歯茎を見せて笑った。僕は男の息が臭くて顔をそむけた。僕はもう一方の手を使い男の腕を払いのけた。掴まれた方の手首がじん、と痛んだ。 ポニーテールの男と会ってから、料理をする頻度は目に見えて減った。献立を決めたり、スーパーで食材と触れ合うことにも何の意味も感じなくなった。 ある日、僕は一度だけ涙を流した。水に浸しておいた白菜を包丁で切っていた時、急に感情が抑えられなくなった。 とにかく誰かと話をしたくて、おじさんの家に行った。家を出てすぐに、ジャンパーを着てくればよかったと後悔した。何度チャイムを鳴らしても誰も出てこなかった。僕は帰り道に遠山のことを思い出した。彼女は (あなたが学校を休んでいる時、わたしも家で眠り続けているのよ) と言った。彼女も僕と同じ夢を見ているのだろうか、と思った。 この場所から抜け出せるなら何処でもいいと思った。だけど僕はあの夢を見る方法すら知らなかった。                  17 キッチンで涙を流した翌日、水炊きを作る為に僕はまた白菜を切った。献立を考えるのが面倒で、ほとんど鍋しか作らなくなっていた。白菜を切っている時にまた気持ちの波が訪れたが、その日は最後まで泣くことはできなかった。同じ涙は続けて流せない、と僕は知った。成長しなければならない。自分に酔っていてはいけない。昼のお弁当を作らなくなった僕は、朝から晩まで何も食べないこともあった。食べる量は減ったのに、なぜか下腹に贅肉がついた。  僕は毎朝学校を休むために自分で連絡を入れた。ある時は誰かの体調不良を装い、しまいには会ったこともない親戚の名前を出したりした。学校への連絡が終わると、僕は決まってベッドに大の字になった。僕の言葉で腹を立てた遠山のことを想った。 僕は自分の心に浮かんだ気持ちを伝えるために、遠山が僕に投げつけたクロッキー帳に彼女の絵を描き始めた。僕の美術の成績は平凡だった。それでも描くべきだ、と思った。台所へ行き、水を飲んだ。小便をし、歯を磨いた。メモ帳に試し書きをして、準備を整えた。 椅子に腰掛けた時、誰も見ていないのに僕は緊張した。 これから大好きな人の絵を描くんだ、と僕は思った。認めないことには描き始める資格がない、と思った。僕は鉛筆や全身やバストアップ、笑顔やベンチに腰掛ける姿など、あらゆる角度から遠山のことを描いた。 違和感にはすぐに気が付いた。僕はそれでも描き続けた。絵の出来栄えが気に食わなくてもとにかく最後まで描いた。手応えをに描き上げることができた絵ほど、メチャクチャに破り捨てたくなった。(実際に何枚か捨てた)  描くほどにスケッチの腕前は上達した。紙の上の女の子は、彼女を知る者なら誰もが遠山の絵だ、と言うだろう。それでも僕には納得がいかなかった。描けば描くほどストレスが溜まった。それでも僕は何枚も描き続けた。 クロッキー帳の残りが少なくなったことに気がついた僕は、自宅の押入れを引っかき回し、使いきれず押入れの奥で眠っていたノートやルーズリーフをかき集め、そこにも遠山を描いた。新聞に入っていたチラシの裏面にも描いた。エンピツが切れて、家中を漁った。どれだけ紙を使っても、一枚も上手くいかなかった。 まずはエンピツを握る右手が限界を迎えた。たいして使ってもいないのに、左腕の三頭筋も痛んだ。エンピツが持てなくなり、片頭痛がして手が震えた。デジタル時計の表示を見ても、朝か夜か判断がつかなかった。集中を解くと首と腰が硬直して足がしびれた時のように動けなくなった。喉が渇き唇が荒れていた。そうなると僕は眠ったり冷蔵庫や戸棚を漁ったりした。 ある時、休憩中に一枚の絵に目が留まった。僕の作った弁当を食べながら、彼女が空を見上げているスケッチだった。僕はこの絵に映る彼女の眼を見て、心から彼女の視線の先が知りたくなった。画角の外にある彼女にしか見えていないものが知りたくなった。僕は目の前の紙にとっさに線を引いた。 遠山の視線の先を想って書いた描線は、これまで描いた中で唯一彼女を表現できているように思えた。僕はすぐに続きを描き始めた。 遠山の魅力がみるみる絵の中に立ち上がって行く。手を動かす度に、触れるもの全てが熱を持っていった。タッチは粗く、当たりもパースも狂っていた。それでも僕は確信をもって手を動かし続けた。 僕は勘違いをしていた。 悲しませたお詫びに絵を描く? なんて傲慢なんだ。 起きている間、僕は描いて描いて描き続けた。腹が減ったら水道水を飲み、指が震えたら塩をなめた。膀胱が破裂する寸前まで小便をガマンした。乾いた手で顔をこすると、ねり消しのようなものがポロポロ落ちた。手のひらはいつも軽く湿っていた。着ている服からは年寄りのカラスみたいな匂いがした。 僕は彼女の肉体を描くことを止めた。僕にしか見えない彼女と、僕たちでしか見えなかった景色を余すことなく紙の中に描き殴った。 僕より上手く彼女の肉体を描ける人は山ほどいるだろう。しかし彼女自身を描かないことで、彼女の存在を表現できる人間は僕以外にいないと思った。 僕は遠山の絵を完成させた。今の僕にとっての遠山を目の前の絵は表現していた。星の輪郭まで見えそうな透き通った冬の夜空と、葉のついていない白樫の若木と、優しい黄色をした土がある空き地を描いた。僕は大事なものを掴んだ気がした。この感覚を失わなければ、遠山に会う度に、毎回違う絵が描ける気がした。迷ったが色は塗らなかった。これから先の絵に描けばいいと思った。 描き方を変えてからまた砂漠にいる夢を見るようになった。今度は朝も夜も関係なかった。僕は夢の中で祈るようになった。強い風が吹いて砂埃の舞う砂漠の中で、目を閉じて正座をして何度も何度も祈った。お腹の生き物は、時間が経つごとにみるみる大きくなった。それは喜ばしい事のように思えた。僕は両手で腹を支えながら夢の中を生き続けた。 僕は今なら遠山に会いに行くことができると思った。ずっと逢いたいと思っていたことに、絵を描き上げて気がついた。腕を引っ掻くと、伸びた爪に乾いた垢が溜まった。風呂で身体を洗い熱い湯に浸かると、また体が痒くなりもう一度洗った。。僕はそれを気の済むまで繰り返した。二度洗ってもシャンプーは泡立たなかった。 鏡を見ると、鎖骨とあばら骨がくっきり浮き上がった痩せた男が立っていた。腹筋が割れ、上を向いた乳首のそばに一本だけ縮れた毛が生えていた。もうあの口紅を塗っても似合わないだろうな、と僕は思った。                   18 絵を描き上げた翌日、遠山は学校を休んでいた。すぐでも会いに行きたかったが、彼女の家は知らなかったので、僕はひとまず諦めた。 僕は久しぶりに学校に昼飯を作っていった。遠山の絵を描いたおかげで自然と料理を作りたくなった。。描き上げてすぐに僕はコロッケパンを作り始めた。夜中にコンビニで食パンを買い、手でちぎったり、ミキサーに軽くかけたりして、粗目のパン粉を作った。早起きして冷蔵庫からタネを出し、油で揚げて楕円形のコロッケを半分に切って市販のロールパンにはさんだ。最初に行ったコンビニにはマーガリン入りのロールパンしか売っていなかったので、コンビニを二件ハシゴして買った。粗目につけたパン粉の分だけコロッケがパンから少し飛び出る。昼に食べることができると思うと心が弾んだ。ラップに包んで持参し、学食のレンジで温め直した。 僕は昼休みに屋上に行った。幸運なことに、僕の居場所は誰もいなかった。昼食の準備をしていると誰かが声をかけてきた。僕は驚いて振り向いた。声をかけてきたのは、前に 「自分のことを僕と呼ぶのをやめたほうがいい」と忠告してくれた女の子たちだった。 彼女たちの外見は対称的だった。シャープなあごのラインを持った色黒の小倉さんと、カレーパンマンみたいな輪郭をしたふっくらした色白の塩田さん。 「いつも外で食べるん?」と小倉さんが言った。コロッケパンを見ながら聞いてきたので、僕は何も答えなかった。 「雨でも来るん?」 「雪でも夏の暑い日にも来るよ。僕は丈夫な体を持っているからね」 「へぇ、教室じゃなんも考えんとボーっとしてるように見えるのに意外とようしゃべるやん」 冷たい北風が吹いて、彼女たちのスカートが揺れた。 「何言われても怒らんし。みんな言うてんで。自殺したらどうする?って。遺書とか日記とかあったら俺らアウトや!って」 「遺書も日記も書いてないし、録音もしていない。そもそも自殺なんかしないよ。君たちはわざわざそんなことを聞きに来たの?」 「違う!」と塩田さんが叫んだ。あまりに大声だったので僕は驚いた。 「そんなわけないやろ。あたしらは見てるだけで何もしとらんし。そりゃアンタにとっては見てるだけの奴も加害者かもしれんけど」 「じゃあ何しに来たんだよ?」と僕は憮然として尋ねた。遠山以外の人とスムーズに話ができている自分に気がついて驚いた。 「あたしは只の付き添いや。なぁ、アンタたまに教室で一人でクスクス笑てるやろ? あたしらみぃんな気づいてんで。あんたもそう思うやろ?」と塩田さんに同意を求めた。彼女は僕らのやり取りを半歩下がったところから観察していた。 僕は一人で笑っているのがバレていると思わず、愕然とした。 小倉さんは僕の動揺を見透かしたように「あれ、ほんまキモイで」と口角を上げて言った。 ロールパンの切れ込みの内側に、バターナイフでマスタードを塗った。調味料だけは食べる直前に塗りたかった。ハンバーガーショップでナゲットを買って使わずに保存していたものだ。少し甘めだが、家で塗るよりよっぽど良かった。ケチャップも同じ手段で家にストックがあった。ナゲットは皮をはいでキッチンペーパーで脂を取り除き、ミキサーにかけ、材料を加えて鍋で使うつみれにした。食べる準備している僕の手を二人が容赦なくのぞき込んだ。なぜか緊張しなかった。既にたくさん会話をしたからかもしれない。 「めっちゃ旨そうやん」 「ありがとう」と僕はそっけなく言った。 「ウチラの分もあんの?」 「ないよ」 僕は遠山と食べようと思って普段より多く準備していた。おかずも作ってあるので、元から一人では食べきれない量だった。 よかったらどうぞ、と言って僕は塩田さんにコロッケパンを手渡した。彼女はプラモデルでも見るかのようにそれを眺めていた。 「ウチ、芥子嫌いやねんけど」 「ふぅん、子供なんだね」と僕は嫌味を言った。ふっくらした女の子が後ろでクスリと笑った。 「嫌なら食べなくていいよ。僕たちで食べるから」というのと同時に、「おいしい!」と声が聞こえた。彼女につられて、小倉さんも芥子入りのコロッケパンを食べた。 二人がもっと食べたいと言ったので、僕は喜んで作った。僕は自分の分をゆっくり食べながら、遠慮なくおいしそうに食べる二人の姿を眺めていた。 僕たちは四枚のコロッケを使い、八つのコロッケパンを食べた。僕は一つしか食べなかった。彼女たちと食べると、それだけでお腹がいっぱいになった。二人は七つのコロッケパンを食べた。最後の一つは二人で分け合った。 遠山もいれば良かったのにな、と僕は思った。もしここにいたら、彼女も一つしかパンを食べないだろう。彼女のことを考えると、僕の胸は本当に温かくなった。 気が付くと二人は何かを話し合っていた。なぜか嫌な予感がした。 「よし! 今日アンタん家、行くことにしたわ!」と言った。 僕は聞こえないふりをした。恥ずかしいのに、なぜかワクワクした。                  19  二人の女子は本当に僕の家に来た。彼女たちはホームルームの後、最後の一礼もそこそこに二人そろって僕の机の前にやってきた。遠山は最後まで休みだった。小倉さんが「行くで」と言って僕たちを先導した。帰り道も知らないのにどうして前を歩けるんだろう、と僕は思った。 彼女たちの提案で僕たちはコンビニに寄った。二人は細長いチョコとかパッケージに極厚と書かれたグミとか僕の食べたことない物をたくさんカゴに放り込んだ。小倉さんがビールを買おうとしたので僕は本気で止めた。彼女は「シャレやん。真面目やなぁ」と目を丸くして言った。  小倉さんは関西に縁もゆかりもないことを塩田さんが教えてくれた。僕たちは会計の途中で、小倉さんは雑誌コーナーで立ち読みをしていた。 「前はズーズー弁だったの」と彼女は言った。音の響きにハマると、飽きるまでその地方の言葉で話し続けるの、と付け加えた。僕がズーズー弁の生息地を思い出していると、彼女は 「あらゆる手を使って、その土地の方言を自分のものにするのよ。どれだけ大変かわかる?単語の意味から覚え直すのよ。いつも口では文句言ってるわ。それでも絶対諦めないの。一度ハマると、とっても努力家なの」と言った。自分のことのように誇らしそうだった。 「君も彼女と一緒に覚えるの?」 「いいえ。怒るのよ、私が勉強すると。『そういう事じゃないんだ』って。本気で怒るの。意味なんか伝わらなくても、解り合えるようになりたいんだ、って」 「ずいぶん勝手なこと言ってるように聞こえるけど」と僕は彼女を擁護した。 「違うの。彼女が私を責めたことなんて一度もないわ。彼女はいつも自分を責めるの。本当よ。大事なスパイクをミスしたアタッカーみたいに謝るの。私たち何度も二人で泣いたわ。制服のまま二人きりでシクシク泣いて、長い時間抱き合うのよ。そうやって何年も二人でやってきたの」 僕は店員から商品を受け取った。お菓子や飲み物が袋いっぱいに詰まっていて、中を覗くと、とてもカラフルで素敵だった。。 「私には何もないの」と言った。誰かに誇れるものが何もないの、と付け加えた。 いくら考えても僕には何も言えなかった。 彼女たちをドアの外で待ってもらった。女の子を家に入れるなんて初めてだった。遠山の絵を描き上げた後に、軽く掃除をしておいてよかったと思った。 小倉さんは僕の部屋の中に入ると音を立てながらベッドに勢いよく座った。スカートがふわりと浮き上がり、食パンの耳みたいな色をした太腿が見えた。ふっくら女子は床に座った。僕は紺色の座布団を出した。 何をするの? と僕は聞いた。よく考えると女の子どころか、友達を招いたこともないことに気づいた。 「とりあえず卒アルっしょ」と小倉さんが言った。塩田さんも笑顔で頷いた。コンビニで話してから急に笑顔が柔らかくなった。僕は小学校の卒業アルバムを二人に渡した。 彼女たちはテーブルにお菓子や飲み物を広げながら興味深そうにそれを見ていた。 小倉さんが急に「ポテチ買い忘れた!」と叫んだ。すぐに僕に「買って来いよ」と言った。僕は笑いながら「あるよ」と言って台所に向かった。戸棚から中華鍋を出し、菜種油をそこに注いで火を入れた。まな板とジャガイモを丁寧に洗い、皮をむかずに輪切りにした。温度計で油を確認し、少し厚めに切ったジャガイモを中華鍋に次々と放り込んだ。鍋の中のジャガイモには、それぞれに気泡がたくさん付いていて、お祭り当日の神輿と担ぎ手みたいに見える。僕はお客さんが来ていることも忘れてニヤニヤした。そして必ずジャガイモが茶色になる前にキッチンペーパーを引いた平皿に乗せて、浜御塩をいつもより少し多めに振った。 手製のポテトチップスは想像以上に好評だった。彼女たちはアルバムを見るのを放り出し、しゃべりながら食べ続けた。口の周りだけが異様な速さで動いていて、今の彼女たちは口だけで完結している生き物なんじゃないかと思った。彼女たちが「おかわり」と言ったので、僕はジャガイモが家に無くなったことを説明した。僕が作り方を説明すると、彼女たちは「できない」と言った。今度一緒に作ろうと提案され、僕は頷いた。 それから僕たちは棚に並んだ本やCDを見たり、ベランダに出て外を眺めてお互いの部屋から見える景色を語り合ったりした。文庫本を読みたいといわれたので、僕は別々のオーヘンリーの短編集を二人に貸した。つながり、という言葉がポン、と脳裏に浮かんだ。こんな毎日を送れたらな、と僕は思った。 彼女たちは人の家に来ても、自分たちの力だけで楽しむ術を持っていた。その能力の高さは、生命力の強さともリンクしているように思えた。僕は彼女たちの振る舞いに深く尊敬の念を抱いた。 彼女たちは帰っていった。食べ終わったお菓子のゴミは自分から持ち帰った。二人が帰った後も、彼女達の熱は部屋の中に残っていた。彼女達が忘れて行った飲みかけのペットボトルと、ポテトチップスが入っていた平皿を僕はしばらく見つめていた。                 20  二人が帰った後、僕は食器や調理器具を洗いペットボトルをゆすいでゴミ箱に入れたり、手をつけなかった菓子を戸棚にいれて濡れた布巾でテーブルを拭いたり、座布団を押入れにしまったりした。窓を開けて空気を入れ替えると、冬の夕暮れの嫌味のない風が部屋にたっぷりと入り、彼女たちの気配を包み込んだ。僕は少し寒くなりケトルを沸かしマグカップに白湯を注いで両の手の平でぎゅっと握りしめた。飲める温度まで待つ時間がもどかしかった。 僕はまだ制服のままだったことに気が付いて部屋着に着替えようと思った。厚手のものに変えようと靴下を脱いだところで玄関のチャイムが鳴った。ドアスコープを覗くと、そこには制服姿の遠山が一人で立っていた。僕は迷わずにドアを開けた。 遠山の顔はいつもより強張っていた。それを隠そうとしていることが僕にははっきりとわかった。彼女は目をぱっちりと開け、細い顎を少し傾け、敵意のなさを示す媚びた顔をしていた。僕はそのことに疑問を感じたが、「いらっしゃい」と言って彼女を中に入るように促した。遠山はどうやってウチの場所を知ったんだろう、と思った。 彼女はローファーを脱いで、紺の靴下のまま部屋の中に入った。スリッパを出そうとすると、手で制して断った。僕たちはリビングの中央で向かい合った。 彼女は一言も話さなかった。一言も話さず鼻を上に向け、目を瞑って部屋の匂いをクンクンと嗅いだ。 「誰か来てたの?」と彼女が聞いた。僕は小さな声で嘘をついた。 僕たちはリビングで見つめ合った。どちらも何も話さなかった。 沈黙が続いた後で僕が目を逸らした瞬間に、遠山は僕が目線を向けた方向に歩き始めた。 それは母さんの部屋だった。彼女はノブを回し、躊躇うことなく中に入っていった。 僕は声をかけずに彼女を見守っていた。それは僕の彼女に対する信頼の証だった。一直線に化粧台に向かった彼女は、中にあった口紅を手に取った。 「この口紅よね?」と彼女は言った。聞いているのに確信を持った口調だった。手にしているのは、母さんが授業参観の時につけていた口紅だった。 「この口紅をしたあなたのお母さん様は本当に綺麗だったわ」と言って、遠山は僕を自分のそばに来るように促した。 僕たちは化粧台の鏡の前にいた。彼女は口紅のキャップを開けて、中にある赤い突起を舐めまわすように見つめた。見つめた後で彼女は自身の人差し指で口紅に触れ、その指を僕の下唇の真ん中にそっとつけた。僕が顔を背けようとすると、彼女は体ごと密着し僕を押さえつけた。 僕を押さえつけると、彼女は中指と薬指の腹にも口紅をつけ始め、三本の指を使い僕の唇にそれを塗りたくった。鼻の下や口の中や頬骨の周りにも口紅がたくさんついた。 遠山は僕の目の前で明らかに狂っていた。全く吸えてないんじゃないかと思うほど呼吸は粗く、中指を使い始めてから目の焦点はブレていた。互いの距離が詰まりきっても、僕達は小刻みに動くことを止めなかった。僕は抵抗し、彼女は僕を攻め続けた。互いの頬が何度もぶつかった。吐息が何度も目の中に入った。額に彼女の唇が当たり、僕の腕は何度も彼女の胸に当たった。僕に寄りかかる彼女の肉体は、どの部分も熱を帯びていた。熱すぎて壊れてしまいそうだった。 僕はなぜか遠山を思いきり抱き締めて握り潰したくなった。 どれだけ体が重なっても、彼女は僕から離れようとしなかった。 遠山が僕の耳元で「こっちのお部屋においで」と言った。 なんでベッドの在りかを知ってるんだろう? と僕は思った。                   21 力を抜くの。徹底的にね。とたんに涙があふれた。 眼にたまった涙を落とさないように必死だった。雲みたい 僕は涙を見られないように隠そうとしたが、遠山がこちらを剥けた。 遠山の腕に流れた。お顔見せてくれるならずっと泣いててもいいわよ 僕の下唇に何かが触れた。ほら、同じ色になった。 手を僕のおでこに当ててそれをスピーカーみたいにして「○○」とかすれた声で言った。 今度はあたしの番。しくしく泣いた。頬が赤く染まった。 はげた唇が赤くなっていた。僕は遠山の唇に赤みを戻そうとした。 色を付けようと唇を重ねても、むしろ僕の方に色が付いた。 遠山は笑った。 悔しい? 僕は頷いたけど、遠山は首を横に振った。 「思い出した? 悔しい気持ち」 僕がうなずくと、二人のおでこが重なった 遠山が泣き止むまで、僕は彼女の背中をさすり続けた。  遠山はまるでこの家に来たことがあるかのように部屋を移動し、手を引いて僕をベッドに座らせた。彼女は部屋の中央で僕を見下すようにこちらを見ていた。 見てほしいものがあるの、と彼女は言うと、自らの髪留めを外して僕にそれを手渡した。 星の模様がいくつも入った藍色のバレッタだった。 「公園で話した日にね、あなたに渡そうとしたの。あなたが持っていてくれたら、わたしは自分を見失わずに済むと思ったから」 「悪かったよ。僕はやっぱりあんなことを君に言うべきじゃなかったんだ」 「良いのよ。それがわたし達の望んだことなの。悪者なんて誰もいないの」 「僕も見せたいものがあるんだ。君の絵を描いたんだ。たくさん描いて、ようやく出来上がったんだ。気に入ってもらえるかわからないけど」 知ってるわ、と彼女は言った。 「ねぇ、何度同じこと言わせるのよ? 知っているに決まってるでしょう? 何もかもね。謙遜しなくていいのよ。本当に素晴らしい絵だったわ。だってわたし、あなたの絵を見て濡れちゃったもの」 「ねぇ、今日の君、なんだか変だよ」 貸して、と言って遠山は手を伸ばした。僕がバレッタを渡すと彼女はそれを床に落とし何度も何度も踏みつけた。僕が止めようとすると、彼女は僕を両手で突き飛ばしベッドの上に押し倒した。  押し倒された僕の左手が、彼女の右足の太ももに触れた。手をどけると、僕の手が何かで濡れていた。遠山は僕の髪を撫でながら微笑んでいた。 僕の手には血がついていた。液体ではなく、少し固まり始めていた。血は彼女の脇腹にも付いていた。僕は彼女を突き飛ばそうとした。どんなに力を入れても彼女の体はピクリともしなかった。 彼女は枕の横にあるパジャマに触れ、「変なパジャマ。でも似合ってたわよ。あなたは何を着ても似合うのよね」と言って口紅まみれの僕の顔を躊躇なく舐め始めた。彼女は僕の顔を長い時間舐め続けた。舐め終わると彼女はふぅ、と息をついた。僕が目を開けると、彼女は自分の右脚の血痕を爪でほじくり、自身の唇に塗りたくった。 そして「同じ色だと思わないとやってられないでしょう?」と言って僕の唇を奪った。舌が容赦なく僕の口内に絡みつき、顔ごと食べられてしまいそうな口づけだった。  僕は全力で足をジタバタさせた。どれだけ足を動かしても、僕の腹の上で馬乗りになった彼女の前では何の意味もなかった。 彼女は僕の眉間を赤い唇で吸いながら吸いながら「本気で私の血だと思ったでしょう? そういうところ好きよ」と言った。 「ねぇ、おかしいよ。こんなのおかしいよ、遠山!」 「えぇ、変よ! どいつもこいつも頭おかしいわよ。変じゃないのは、昨日までのあたしとあなただけよ!」  僕らは抱き合った。遠山の耳と僕の耳が触れた。 「わたしの名前呼んで」 「遠山」 「下の名前で呼んで」 僕は彼女を下の名前で呼んだ。 「もう一度。お願い」 彼女の涙で僕の肩が熱くなった。 「もう一回。よしよし、ってしながら言って」  僕は遠山を抱きしめた。抱きしめて彼女の望みを全て叶えた。 「もう何がどうなってもいい、って思うことある?」 あるさ、と僕は答えた。 僕はもう一度、遠山を強く抱きしめた。                     22 「ねぇ、家まで送って」 僕らは口紅を化粧台に戻した後で、口紅と血を洗い流して家を出た。 「ありがとう」と遠山は言った。 「どういたしまして」と僕は答えた。 僕達はしばらくの間、何も話さずに歩いた。 僕は彼女についていた血の原因を知りたかった。他にも話したいことは山ほどあるのに、最初の一言だけが見つからなかった。 「あなたと離れている間、私も本を読むようになったの。最近はオーヘンリーと夜間飛行を読んだのよ」 強い北風が吹いて、遠山の頬を揺らした。彼女は僕の制服のポケットに手を入れた。 「私たち『賢者の贈り物』の二人みたいな関係になれるかしら?」 僕は黙ってうつむいた。 「あなた、嘘つきだもんね」 僕は立ち止まり彼女に頭を下げた。もういいのよ、と彼女は言った。 僕は遠山の絵を家に忘れたことを話した。取りに戻ろうとする僕に彼女は言った。 「急がなくていいの。いつか必ず見せてね」 大通りから丁字路に入るところで「ここでいいわ」と彼女は言った。戸惑う僕に「ここでいいの」と付け加えて「じゃあね」と言って一人で歩き始めた。 「またね」と僕は言った。彼女は一度もこちらを振り向かなかった。 一人になると、雪が降り始めた。ポケットに手を入れると、壊れたバレッタが入っていた。 駐車場から弾き飛ばされた石を拾った。他の石より綺麗な球体をしていた。指でさすると、石は僕に (二人ともこうなっていたかもしれないんだよ?)と言った。 僕はもう一度その石をさすり駐車場の隅に優しく置いた。 部屋に戻り、遠山の痕跡を消すためにすぐに掃除を始めた。手を止める度に遠山のことが胸をよぎる。あの瞬間、僕達は間違いなく世界で二人きりだった。シーツを丁寧に貼り直し、部屋中に消臭スプレーを撒き散らして窓を開けて換気をした。痕跡は消せなかった。脳内の彼女を追い払えなければ、何をやっても同じ気がした。 母さんが急に目の前に現れ、イヤリングとネックレスを替え、化粧台を開き露骨に怪訝な顔を浮かべ口紅を直した。視線を変えず放り投げたタバコの箱がゴミ入れの遥か手前に落ちた。母さんは僕にも聞こえる音で舌打ちをした。僕は急に目の前にいる女が汚物にしか見えなくなった。 その瞬間、ポニーテールの男に握らされた袋がコンドームだと気づいた。 出がけに母さんは「前から言いたかったんだけど、この口紅高いんだからね」と言った。 父の虐待も、あいつと食った飯は全て吐いていることも全てぶちまけたかった。 僕はポケットに手を入れ、壊れたバレッタを握った。目を閉じて遠山の顔を思い浮かべた。 それでも母さんの前に立つと声が出なくなった。声を出そうとすればするほど、喉は丸まり頬は固まり、どうしても背中が後ろに反ってしまった。 ドアが閉まり、部屋から音が消えた。僕は母さんを追いかけるように玄関へ向かった。 眼の先っぽが、熱くなって熱くなって濡れた。 どれだけ手を伸ばしても、鍵を閉めることが出来なかった。
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