第一部・3 世界の色が変わった日

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はじめまして。ごく普通のその一言がやけに耳に残った。 目が合うとはにかむから、形の良い唇の隙間に八重歯が覗く。 本当に初めまして、か? なんて不思議な疑問が湧いたが、こっちは知ってる顔なのだから初めましての気がしないのは当たり前だ。 妙な興奮で頭が混乱しているんだと思いながら、口先だけの歯切れの悪い「はじめまして」を返した。 「はい、じゃあ挨拶はこの辺にして」 佑賢の落ち着いた声が空気を変えてくれる。 彼に仕切りを任せておけば大丈夫だと、幸助は自分を落ち着かせることに集中しようとした。背もたれに身を沈めて、空腹でもないのにメニューを広げて意識を逸らす。 「櫂くんにはざっと話してるけど、幸助が何にも理解してないからもう一度簡単に説明します。今回櫂くんにお願いしたいのは……」 佑賢がこちらを見たが、幸助は顔もあげずにステーキのページを見つめていた。 意識して呼吸を繰り返していたら、早かった動悸は落ち着いてきた。佑賢の説明が始まると、耳馴染みのある低い声のおかげで更に平常心が戻ってくる。 幸助は、今の自分の緊張を「有名人に会ってしまったから」だと解釈した。 バンド活動をしている以上、メジャーで活躍するアーティストと出会うなんてよくある事だ。 世話になっている田中もドラマの主題歌に抜擢されるような有名バンドのギタリストだし、田中伝いに尊敬するミュージシャンを何人か紹介されたりもしている。 が、それはあくまで、似た音楽性の人間に限られる。いわゆるハードロック・エモコアバンドとは距離が近いが、ALLTERRAのようなJ-POPよりのバンドとはそもそも活動する環境が違うのでなかなか出会うことがない。 だから幸助にとって八坂櫂は、先輩や成功者という地続きの存在ではなく、テレビの向こうの芸能人という印象の方が強かった。
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