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 その後オレたちは件の家で救急箱を借り、頭の傷の応急処置をしたあと、肩を落としながら帰路についた。 「これで八方塞がりね。ワルシャワ食べに行く?」  バスに揺られながら明らかに落胆した様子のクレアが言う。あまりの落ち込み具合に少し可哀想になってくる。オレの割れた頭にはうっすらとプランDの文字が思い浮かぶが、あまりに現実的ではないと思い、直ぐに記憶から消した、かわりに至極当たり前なことがオレの頭をよぎった。 「ママに会うってのはどうだ?」  オレのその提案にクレアは「その手があったか」と言う顔をする。というか実際に言った。 「その手があったわね、なんでもっと早く気づかなかったのかしら。確かにママに会ったらなにか思い出すかもしれないわね。兄さん頭割り損ねアハハ」 「アハハじゃねーよ。死ぬかと思うくらい痛かったぞ」  今更ながらのことに気付いたオレたちステューピッド・ブラザーズは明日母の病室を訪ねることを決め、クレアは病院に面会の連絡を入れる。  そのとき、橋の上を走っていたバスが急停車し、オレは前の座席にしこたま頭を打ち付けた。いくらヤシの実のように硬いオレの頭でも、流石にパカリと割れるのではないかと思うほどの衝撃だった。痛みに悶えていると、にわかに車内が騒然としだす。 「飛び降りだ!」  車内の誰かが言った。反射的に窓の外に眼を向けると、百メートルほど先の橋の梁に一人の中年の男が今にも飛び降りそうな様子で立っていた。橋の数十メートル下は車が猛スピードで行き交うフリーウェイで、落ちたらまず助からない。あたりにかなりの野次馬が集まっており、そのせいで渋滞が発生していた。とりあえずオレは進みそうにないバスから降りて、野次馬の方へと向かってみる。その後にクレアが続く。 「ちょっと兄さんなにする気?」 「なにもしないさ。ただの野次馬根性だよ」  最初オレは本当にそう思いながら野次馬に紛れ、こんな渋滞を起こす傍迷惑な奴の顔を拝んでやろうとした。その男はどこにでもいそうなただの中年男だった。生気が消え失せ、人生に絶望し、橋から飛び降りる以外の選択肢などないが、その勇気もなく、一粒の砂のような奇跡を待っている。そんな風に見えた。 「早まるな」 「早く飛んじまえ、迷惑なんだよ」 「残された人のことを考えて」 「死ぬならさっさと死ね」  野次馬が思い思いの言葉を男に向け吐き散らすが、男にはまったく届いていないようだった。  ここで、なぜかオレは自分でも不可解な行動に出る。なんとオレは野次馬を掻き分け、欄干を乗り越えて、中年男がいる橋の縁に立つと。男の隣に腰を下ろしてタバコに火を点けた。このときのオレが考えていたことは、窓から身を投げたときの自分のことだった。あのとき、自分が何に絶望し、なぜ身を投げるに至ったか、何故かこの男と話せばそれが少しわかるような気がしたのだ。 「吸うかい? ミスター」  同情も怒りも心配も、なにも感じさせないオレの声色に呆気に取られたのか、男は「あ、ああ」と、差し出されたタバコを反射的に手に取って口に咥える。  火を点けてやると、男は震える手でタバコを吸うと、口から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。 「タバコってこんなに美味かったのか」  消えりいそうな声で男は言った。オレはその言葉をただ黙って訊きながらタバコを燻らせている。 「あんた、何も訊かないんだな。てっきり俺のことを説得しに来たのかと思ったよ」  男は先程より少しリラックスした様子でオレの隣に腰を下ろした。 「説得して思いとどまるならこんな傍迷惑なことしてないだろ。飛びたきゃ飛べばいい。見ててやるよ」オレは言う。 「事業に失敗して多額の借金を抱えちまった。妻子にも逃げられ、もう人生のドン底だよ。最後に、俺という人間がいたことをみんなに知ってほしくてこんな方法をとっちまったのかもな」  男は言う。その言葉からは全てを諦めているという感情がありありと伝わってくる。 「そりゃ辛いな」 「ああ、だから全て忘れるために終わらすんだ」 「忘れるのもなかなか辛いもんだぞミスター」  オレはタバコの煙を細く吐き出す。 「どういうことだ?」 「オレは子供の頃の記憶がないんだ。親の顔も覚えてない」 「そうなのか。兄さんも辛い思いをしているんだな」 「そうでもないさ、今記憶を探しているんだが、上手くいかなくて、でもそれがなかなか楽しい」 「そうか、記憶見つかるといいな」  男はそう言って立ち上がり、縁へと、一歩、二歩と踏み出す。 「最後に兄さんみたいな人と話せて良かった。ありがとう。さようなら」  男が橋から身を投げようとしたとき、ある言葉がオレの口からこぼれ落ちる。 「空の星が一つ消えて誰が気にする? オレは気にするよ」  男の動きが止まった。男は橋の縁に立ち尽くしたまま、肩を震わせ泣き始めた。彼は何も言わずにずっとその場で泣いていた。  いつの間にか野次馬たちは誰一人として言葉を発していなかった。渋滞の中ようやくパトカーが到着する。 「ほらミスター、お迎えだぞ」 「俺はまだ生きてていいのかな」  男は涙声で言った。 「オレが決めていいのなら、生きてていいさ。人生は良いことも悪いことも同じくらいあるって誰かが言っていた気がするしな」 「……そうだな、もう少し生きてみることにするよ」 「死んでるより生きてる方がきっと少しはマシさ」 「ありがとう。兄さん名前は?」 「ガブリエル・アシェット。紐育で探偵をやってる。困ったことがあったら相談に乗るよ。ミスター」  オレは男に向けて右手を差し出す。 「俺の名前は……」  男も右手を差し出すが、オレたちの右手が繋がれることはなかった。  その瞬間、男の足が橋の縁から滑り落ち、彼の身体は宙へと投げ出される。野次馬の中から悲鳴が上がる。  オレは頭で考えるより先に男の右腕を掴むと、自分の足を軸に、身体を一回転させ男の身体を橋の内側へ投げ飛ばす。それはつまり、オレと彼の位置が入れ替わったことを意味した。オレの身体は重力を失い、宙に放り出される。橋の上から無数の悲鳴や絶叫が訊こえた気がしたが、吹き荒ぶ風の音でそのほとんどがオレの耳には届かなかった。  叫ぶのも忘れ、顔面蒼白のクレアの顔を見ながら、ゆっくりとフリーウェイに落下してゆくオレの頭の中には、プランDのことがよぎっていた。  プランD。それはさっきより強い衝撃を頭に与えることだ。あまりに現実的ではなかったが、このように偶発的に起こることなら試してみてもいいと思う。まあ、死んだらそんときだ。いやにゆっくりフリーウェイへと落ちていく中、オレは男の顔を思い出していた。絶望に苛まれた顔。でも、彼の眼にも一筋の光があった。彼はまだ生きている。彼は立派な光だ。ここでオレも一つ得心がいく。オレはきっと窓から飛び降りたくなんてなかったんだ。きっとオレもあんな眼をしていたのだろう。誰かに止めてほしくて、ただ抱きしめて欲しかっただけなのだろう。身体と脳が極限状態のいま、たぶんおれの脳以外の部分が思い出したんだ。  でも、まず彼を救えてよかった。命を一つ救えて良かった。人助けも探偵の役割だからな。後悔はない。そこまで考えるとオレの身体はフリーウェイに叩きつけられる。  ぐしゃりという音の後に、意識が一気にブラックアウトする。
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