9

1/1
前へ
/9ページ
次へ

9

 意識が覚醒すると同時に身体中に酷い痛みが走る。  つまりオレはまだ生きているということだ。瞼を上げるのも苦痛なオレはとりあえず、うぅ、と唸ってみる。 「兄さん? 気がついた?」  鉛のように重い瞼を開けると、今にも泣き出しそうなクレアの顔が視界に飛び込んでくる。 「レイチェル! オレのレイチェルは無事か?」 「目覚めて第一声が猫のこと? あのかわいい猫なら私が面倒見てるわよ」  クレアは呆れながら言った。オレは心の底から安堵し、自分が生きていることをようやく認識する 「なんでオレは生きてるんだ? フリーウェイに落ちたんだぞ。まず車に轢かれてその後、後続車に轢かれまくってミンチになってるはずだろう」  身体中は包帯まみれだが、よく見るとちゃんと手も足もついている。一体どんな奇跡が起きたのか。 「それがね、兄さんが落ちたのが丁度トラックの荷台の上だったのよ。所々骨折はしてるけど命に別状はないってドクターが言ってたわ」 「運がいいんだか、悪いんだか」  オレはベッドに全身を預け脱力する。 「兄さんは一週間寝てたけど、ここの支払いはミスタードミニクが肩代わりしてくれたわ」  一週間も寝ていたとう事実に軽く衝撃を受けつつ、オレは初めて耳にする名前に疑問を覚えた。 「ミスタードミニク? 誰だ?」 「兄さんがフリーウェイで助けた男の人よ。あの後、事業がうまく回り出して、家族も戻ってきたらしいわよ。良かったわね。命を賭けてまで助けた甲斐があったじゃない」  たった一週間でそこまでことがあったのか。やはり人間、やる気になればなんでもできるじゃないか。痛い思いもたまにはするもんだ。いや嘘だ。痛い思いはなるべくしたくない。痛いの嫌い。痛い泣きそう。  オレはミスタードミニクの顛末を聞いて満足し、することもないので、再び眠ろうと眼を閉じる。何故かとてつもなく眠かった。 「ガブリエル」  聞き覚えのある声、それもついさっき耳にした声がオレの耳に届く。オレは反射的に眼を開き、身体を起こした。そこには電動車椅子に座った初老の女性がいた。病魔に侵されているのだろう。手も足も枯れ木みたいに細い。しかし、その眼差しは、優しく慈愛に満ちた眼差しは、走馬灯の中のママと全く変わっていなかった。 「ママ……」オレは無意識にそう呟いていた。 「兄さん、ママのこと思い出したの?」  クレアは驚いた様子で言った。 「さっき走馬灯の中で会ってきた」オレは言う。クレアは、なに言ってるのこの馬鹿。といった顔をする。 「ガブリエル、ごめんねずっと迎えに行けなくて。私、私……」  ママはがりがりに痩せてしまった手でオレの手を握る。謝罪の言葉を口にしようとしていたが、いざその場になるとうまく言葉にできないみたいだった。なにも言わなくていい。その気持ちを込めてオレはママの手を強く握り返した。その意図が伝わったのかママの眼からは大粒の涙が溢れ出した。 「いいよ。ママにだって色んな事情があったんだろ? もうなにも気にしてないよ」  この言葉はオレの本心だった。オレはママを赦した。  走馬灯を見て感じた。ママへの愛は確かに本物だった。そして、今、ママに会った時に感じた感情も確かに愛情だった。オレは今でも彼女を愛している。  忘れていたわけじゃなかった。オレはずっと習慣でママへの愛情を覚えていた。 「ガブリエルブレンドが飲みたい」  オレは呟くように言った。ママはよく覚えてたわねと嬉しそうに笑うと、ゆっくりとガブリエルブレンドを淹れてくれた。 「いい知らせと悪い知らせがある。どっちから聞きたい?」  オレはガブリエルブレンドを飲みながら言った。  クレアは、やっぱり不味いわこれ。と言いながらマグを置き「じゃあ良い方から」と言った。 「子どもの頃の記憶が戻った」オレは言う。 「ほんとに? じゃあ小説の方も在り処もわかったの?」と、クレアとママの眼の色が変わる。その顔を見た後に悪い知らせをするのは正直心が痛んだが、まあ仕方ない。事実は変わらないのだ。 「それが悪い知らせだ。小説はオレが全て燃やしていた。オレの書いた小説はもうこの世に存在しない」 「そう、残念ね」  ママに明らかに落胆の色が浮かぶ。しかし、ここでオレは考えておいたアイデアを提案する。 「そこでプランEだ」 「プランE? なによそれ」  クレアが驚いた反応を示す。当然だ。オレもつい五分前に思い付いたプランだ。しかし、かなり冴えたプランだと思っている。 「オレの書いた小説は燃えてしまったけど、オレが今まで経験してきた日常を話すよ」 「日常?」 「事実は小説より奇なりってね。ほらオレの職業は?」  オレは得意気に言う。クレアとママは顔を見合わせて、笑いながら言った。 「探偵!」 「正解! 探偵の日常はそこそこ面白いぞ?」  包帯まみれでベッドに横になるオレは語り出す。少しカッコ悪いが、家族にカッコつけても意味はない。これからオレはママとクレアとたくさん話し、失った、自ら捨てた時間を少しずつ埋めて行くのだ。時間は有限、いつかは必ず終わるのだ。しかしそれは悪いことではないはずだ。終わるのを含めて人生なのだから。  人生はなにが起こるかわからない。それが人間の少し不思議で当たり前な日常だ。  オレは無意識に、子どもの頃書いていた小説のタイトルを口にした。   「名探偵ガブリエルの大冒険」  オーライ、なにから話そうか。  END 
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加