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 オレはレイチェルとクレアに汚された一張羅のジバンシィを馴染みのクリーニング店に持っていくと、染み抜きが終わるまで、上下ジャージにボルサリーノという最高にイケた出で立ちで、ある場所へと向かった。  オレには捜査状況が手詰まったり、依頼に対して何の情報もなかったりしたときに必ず行うルーティンが存在する。それさえ行えば頭は冴え、妙案が閃き、オレの脳細胞はこれ以上ないくらいに活性化するのだ。 「ヘイ、ザッカ、もう一杯」  一気飲みしたショットグラスを、勢いよくテーブルに置くと、オレはゴキゲンにアブサンの三杯目を注文する。この、喉と胃が焼けそうな感じがたまらない。因みに入店してまだ五分だがオレの脳細胞は既にフルスロットルで動き回っている。  オレは依頼が入ると、とりあえずいつもこの親友のやっているバー、“ザ・カクレガ”にやってくる。決して金が入ったから飲みに来てるわけではない。断じてない。  ホームズにコカイン。コゴロウ・モウリに麻酔といった具合に自らの真価を発揮させる外部装置は探偵には必須なのだ。 「今日はいつものバドワイザーじゃないんだね」    オレの親友でありバーのマスターであるユキヲ・マツザカが、ズレた眼鏡を上げながらアブサンのお代わりをテーブルに置きながら言った。オレは彼のことを親しみを込めてザッカと呼んでいる。 「今回の依頼は中々の難題でな。いつものバドワイザーでは刺激が足りないんだ」 「よかったらどんな内容か訊いてもいいかな?」  ザッカは自分の分のバドワイザーを持ってくると、オレの向かい側に腰を下ろす。 「ヘイヘイヘイ、ザッカ、オレはこれでも探偵だぜ? 守秘義務ってもんがある。そうほいほいと依頼内容を話すわけないだろ」と言ってオレは、ショットグラスに入った68度の酒アブサンを一気にあおる。  開店前のバーには客なんて当然いないし、誰かに訊かれる心配もないのだが、そこは探偵の矜持だ。と思い、オレはアブサンのお代わりを頼んだ。 「そうかあ、でも酔って勝手に話し出すことも多いからなあ、ガブは」  と言ったザッカはアブサンが入ったショットグラスをトレーいっぱいに乗せて戻ってきた。こいつ、オレを酔わせて内容を訊き出すつもりだな。甘い、甘すぎる、まるでピーカンパイのようだぜスウィートジャパニーズ。酒を呑むが、酒には呑まれない男、それがオレ、ガブリエル・アシェットなのだ。 「つまり名前もわからない一冊の本を探せって依頼な訳か」 「え?」  と言い、オレは我に帰る。よく見たらトレーいっぱいに乗っていたショットグラスが全て空になっている。この一瞬でなにが起こった。 「ヘイ、ザッカ一体オレになにをしたんだ? 今そこにあったアブサンはどこに消えた? まさかヨージュツを使ったのか? ジャパニーズマジックか?」 「いやいや君が勝手に、エネルギー注入! とか言って一気に呑み始めて一瞬で酔っ払って依頼内容を話し始めたんでしょーが。え、もしかして覚えていないの?」  時計を見ると既に一時間が経過していた。オレはアブサンを呑み過ぎて記憶を飛ばし、あまつさえその状態でザッカにベラベラと依頼内容を話してしまっていたらしい。まあ68度だしね。たくさん呑んだらそうなるよね。と自分に言い訳をし、守秘義務のことも記憶から消そうとする。 「話してしまったのなら仕方ない。ザッカはこの依頼についてどう思う?」 「うーん、そうだねえ」  ザッカは考え込む素振りを見せながら、自分では考えないのか? という視線を向けてきたが、オレは華麗にそれを無視する。 「これは君の一番好きな本を探せってことじゃないの?」 「一番好きな本? なんだそりゃ?」 「例えば今まで読んだ中で一番感動した本とか、自分の人格形成に影響を与えた本とか。そういうのだよ」  この優男はなかなかどうして結構鋭いところがある。こいつのアドバイスはいつもオレを導く。ザッカもオレの依頼の話を毎回訊いて楽しそうに推理を披露する。だからオレたちは親友なのだ。 「一番好きな本か、そんなものなんてないぞ?」 「え? ないの?」  ザッカはハトがマメデッポウを食らったような顔をする。 「そもそもオレは本を読まない。まあ、ポルノくらいならたまに読むが」 「低能なバカの典型みたいなセリフを吐くなよ。じゃあ子どもの頃に読んだ印象に残ってる本とか……あ、そうか、君は」  そう、オレは子どもの頃の記憶がない。伝え聞いた話だと、十二歳のとき、親の離婚のショックで窓から飛び降りて頭に大怪我を負ったらしい。それが原因で怪我以前の記憶が全くない。親の顔も一切覚えていなかった。  オレは病院を出てすぐに施設に入ったから本当は両親などおらず、捨て子だったんじゃないかも思ってたりした。というか、今でも思っている。十二歳以前のオレは一体どんな人間だったのだろう。オレは酩酊した頭で記憶の階段を降りてみるが、ある地点からその階段は無くなっていて、それ以上下に降りれなくなっていた。 「意外に子どもの頃は文学少年だったりしてね。今の君からは想像できないけど」  グラスを片付けながらザッカは言った。 「しかし案外、そこにヒントが有るかもしれないな」  とりあえずオレは自分の子どもの頃の時代を当たってみることにする。さて、なにから始めるかと考えていると、オレのスマホがジバンシィのクリーニング完了のメッセージを受け取った。  さて、仕事だ。とオレは席を立ち、ザッカにこの依頼に感じたごく単純な疑問をぶつけてみる。 「でも、オレの一番好きな本なんてなんで欲しがるんだろうな?」 「さあ? 君のファンなんじゃない?」  ザッカは興味が無さそうに言った。どうやら依頼人の心理は彼の琴線には触れないらしい。  オレは記憶の階段を降りるために、バーの階段を地上に向け登る。
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