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 先ずオレが最初にやったことと言えば自分の実家を探すことだった。  実家が残っていれば、本なんて数冊が屋根裏で埃をかぶっていると相場は決まっている。  普通の人なら、ただ里帰りをすればいいだけの話だが、オレはまず里探しから始めなければならなかった。  今まで何の弊害もなかっただけに、オレは記憶を失ったことを、窓から飛び降りたことを、過去を失ったことを初めて悔やんだ。  でもまあ、そんなことをしても仕事は前には進まないので、とりあえずオレは十代のころにいた孤児院に連絡を取ってみることにする。  もうその孤児院は閉鎖されてしまっていたが、何とか孤児院時代の友人のツテで当時の院長と連絡を取ることができた。  幸いにも院長は紐育に居を構えていたので、おれはクリーニングでピカピカになったジバンシィを纏うと、教えられた院長の住所へと向かう。  太陽もすでに傾き始め、紐育の明と暗の境目を妖しげに映し出す。 「久しぶりね。元気そうで良かったわ。今探偵として働いているのね。クールだわ。私探偵小説が大好きなの」太陽のような笑顔と、良く通る声で、元院長アリス・オルダーソンは紅茶を二つ乗せたお盆をもってキッチンから現れる。 「探偵なんて実際地味な仕事ですけどね。院長もお元気そうで何よりです。また魅力的なボディになったんじゃないんですか?」 「あらわかる? 毎晩旦那がほっとかないのよ」と言い、院長は恰幅の良い身体を艶めかしく動かしオレを挑発してくる。オレは苦笑いで応戦する。 「ところで今日は何の用で来たの? 確か電話では本がどうだとか言っていたけど」 「ちょっと依頼でオレの本が必要で、実家の方に探しに行こうかなと。院長オレの実家の住所ってご存じですか?」 「あら、あなたの持ってた本ならここにあるわよ」 「え?」 「ちょっと待ってて。確か地下室にあったから取ってくるわね」と院長は地下室に降りて行った。  ヘイヘイヘイちょっと待て、ベリィラッキー過ぎないかベイビー。早速手がかりどころか本命に当たっちまったか?  「あったあったわ」と院長が地下室から大きなクッキーの缶を抱えて戻ってくる。缶には明らかに子どもの筆跡でガブリエル・アシェットと書かれていた。きっとガキの頃のオレが書いたのだろう。オレは若干の緊張感を覚えつつ、缶の蓋を開ける。中に入っていたのは。  シャーロック・ホームズ緋色の研究のハードカバーだった。  この本を見たときにオレの頭の中は激しくスパークする。  探偵(オレ)、探偵の本=オレの本。間違いないこの本だ。これがミスクレアの探していた本に決まっている。と、探偵の直感がそう告げていた。ビンゴビンゴビンゴ!  もっと手子摺る依頼だと思っていたが案外拍子抜けだったな。と、オレは少々脱力すると同時に自分の探偵としての才能に恐怖を感じる。 「院長は他の孤児たちの物もこうやって保管してるんですか?」  オレは緋色の研究を持ってきたカバンに仕舞うと、当初から感じていた疑問を口にする。 「全部じゃないけど、孤児院が無くなるときに残っていたものはほとんど引き取ったわ。私が持っていればあなたみたいに会いに来てくれる子がいるんじゃないかと思ってね。今も昔もあなたたちは私の大切で大好きな子どもたちよ」  嘘のない満面の笑顔で言う彼女を見てオレは柄にもなく泣きそうになってしまった。親の愛情を受けていた時代のオレの記憶はもう無い。オレにとってはこの人こそが母親だった。  これ以上ここにいると本気で泣き出しそうになるので、オレは、院長に身体に気をつけてください。とだけ言うと、逃げ出すように彼女の家を後にする。  用があってもなくても、ここが自分の家だと思っていつでもおいで。と院長は言ってくれた。       結局我慢できず、オレは院長に見られないように少しだけ泣いた。  親の離婚を経験している子どもは数多くいて、その誰もが大なり小なり心の傷を負っている。オレの崇拝しているカート・コベインやチェスター・ベニントンだってそうだ。彼らはその悲しみやエネルギーを音楽へと変えた。ならオレは? そのエネルギーをなにに使っている? 決まっている。オレはそのエネルギーを何かを探すために使っているんだ。  そのときオレは立ち止まり、近くのベンチに腰を下ろすと、何気なく。カバンからハードカバーを取り出し、パラパラとめくってみる。  おかしい。この本を読んだ記憶がまるでない。  大怪我の後にこの本を手に入れたとしてもあまりにも記憶がなさすぎる。いや、これだけ有名な作品だ。登場人物の名前などは勿論知っている。でもどんなストーリーかは全く思い出せない。オレは居ても立っても居られず、ベンチから立ち上がると、踵を返し院長の家へと戻った。 「あら、おかえり。どうしたの? 忘れ物?」 「院長、これは本当にオレの本ですか? 読んだ記憶が全くないんです」  切迫したオレの声と表情に何かを察したのか、院長の顔からも笑顔が消え、真面目な表情になる。 「それは正真正銘あなたの本よ。でも施設にいる間あなたはその本を読むどころか触りもしなかったわ」 「なぜ?」 「その本はあなたが孤児院に入った直後にお母様が持ってこられた物だったのよ。あの子は探偵小説が好きだからって言って」  オレが探偵小説が好き? 自分のことなのに初耳だ。どうやら大怪我で記憶をなくす前のオレは本当に文学少年だったらしい。 「でも、あなたはその本をクッキーの缶にしまって一度たりとも読まなかったわ」  なるほど。だから読んだ記憶がないのか。当たり前だ。今のオレならよくわかるが、当時のオレはそれまで持っていた本への情熱を失ってしまったのだ。怪我により人格や趣味趣向が変わってしまうことなんてよくある話だ。  それでもこれはオレの本で間違いないらしい。  しかし、とりあえずオレはこれをミスクレアに渡してみようと思った。ある考えもある。 「ところで院長、オレの実家ってご存知ですか?」  依頼はこれで完遂だろうが、一応当初の目的である自らの実家について訊いておこうと思った。 「あなたのご実家? たしか……」と言って院長は書斎から古くなった名簿を取ってきてパラパラとめくり出す。 「ガブ……ガブリエル・アシェット……あった。オハイオ州、クリーブランドね」と言い院長は住所をメモに書いてくれた。 「もう今は別の人が住んでるんじゃない?」 「ですよね。オレもそう思います」  オレたちは二人で笑いあった。 「仕事の成功を祈ってるわ。頑張ってねガブリエル」 「ありがとうございます」頭を下げて、再び院長宅を後にする。  その本はあなたが孤児院に入った直後にお母様が持ってこられた物なのよ。  サブウェイに乗ってる間、オレは院長の言葉を思い出す。それまで一度も考えたこともなかったが、オレの母親とはどんな人なんだろうか。そもそも今も生きているのだろうか。  地下から地上に出ると、もうすっかり紐育は、煌びやかで下品な光で彩られていた。空はベルベットみたいな闇に包まれていて、どこか別世界のように見えた。  見慣れた愉快な別世界の中にオレの身体は溶けていく。
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