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 以前ザッカに教えてもらったことがある。  ジャパンにはヤオヨロズノカミという考え方があるらしい。つまりはどんなものにも生命が宿るとされる考え方だ。その概念を初めて聞いたとき、オレはいたく感動した記憶がある。ジャパンは素晴らしい生命で満ち溢れていると。  なぜ今そんなことを思い出しているかというと、オーバースロウで投げられる本は一体どんな気分なのだろうということに思いを馳せていたからだ。結局想像すらできなかったが、本来読まれるべきことを目的とされる本が、ランディ・ジョンソンのピッチングの如く、その身を投擲されたら、おそらくいい気分ではないだろうというところまでは理解できた。  そこまで考えたところでオレの顔にハードカバーがヒットする。その本、四つの署名は、空中で一回転するとオレを小馬鹿にする様に相棒のボルサリーノの上に着地する。 「これじゃないわ」  立ち上がり、オレにハードカバーを投げつけたミスクレアが、再び席に腰を下ろし、不機嫌そうにコーヒーを口に運ぶ。 「オーケィ。ミスクレア。ここはクールに、穏やかに行こう。この本が君の依頼の本じゃないことはよくわかった。だがそれをオレに投げつける必要があったのかい?」  カフェのテラス席にオレたちは向かい合いながら腰掛け、このしっちゃかめっちゃかなやりとりをしていた。周りの客は痴話喧嘩か何かだと思ったに違いない。  オレは左手で鼻血がだばだば流れ出る鼻を押さえ、紳士的に、努めて紳士的に彼女をなだめにかかる。 「右手がクールでも穏やかでもないわよ」  右手に眼をやると、オレのかわいい中指が、天高く屹立しているではないか。いやあ、無意識って怖いね。 「でも、ミスクレア。君はいま一つミスを犯した」 「なによ?」  ミスクレアの表情が一瞬変わる。オレはしめたと思い、中指を素早くしまう。 「君は先日、本の情報について、なにもわからないと言った。でも君は今回持ってきた本をこれじゃないと言った」 「それは……」 「なにか、を知ってしないとその言葉は出てこない」  と言いながらオレは緋色の研究のハードカバーをミスクレアの前にそっと置く。 「これはオレが孤児院に入りたての頃、母親から贈られたものだ。君の探していた、オレの本とはこれだろう?」  ミスクレアは言葉を探るように沈黙する。 「これはオレの本。君はオレと母親のことを何か知っているのか?」と、オレが畳み掛けると、彼女はため息と共に煙を大仰に吐き出した。 「半分正解で半分不正解」 「半分?」 「私はあなたと、あなたの母親を知っている。そして、私の探している本はこれじゃない」  と言ってミスクレアは緋色の研究をオレの方に押し戻す。 「ヘイ、ミスクレア。依頼を円滑に進めるためにも、もう駆け引きや、隠し事は無しにしよう。君はなにを知っている?」  ミスクレアはオレのその言葉を訊いて、苛立たしげに煙を吐くと舌打ちと共に言う。 「全く、まさかとは思ったけど、本当に子どもの頃の記憶がないのね。あなたと私は昔一度会ってるんだけど?」 「なんだって? いつ?」 「かれこれもう二十数年前になるかしらね」  ヘイヘイヘイ、そんなに昔に、たった一度だけ会っただけなら記憶があろうがなかろうが、大抵の人間は覚えていないだろ。とオレは思ったがそんな瑣末なことはどうでもいい。 「そんな小さい頃に? オレと君はどんな関係だったんだい? もしかして将来を誓い合った可愛らしい恋人同士だったとかかな?」  オレは組んだ手に顎を乗せると、小さい頃にあったかもしれない淡い恋をする自分に想いを馳せた。 「にやけ顔が気持ちわるいわよ。そんなんじゃないわ」 「じゃあなんだい?」 「兄妹よ。正確には異父兄妹だけどね」  ミスクレアはあっけらかんとそう言ってのけた。 「…………」  オレは言葉を失う、 「なによ、ただでさえバカみたいな顔が更にバカみたいになってるわよ」  ファイトクラブのマーラ・シンガーのように、重い煙を口の両脇から吐き出すミスクレアはふてぶてしく言いながら右肩を少し後ろに下げる。なんだそのポーズは、と思ったが、オレは腹の底から迫り上がってくる言葉を我慢することが出来なかった。 「はあぁあ……?」 「うるさい」  驚愕の声が最大ヴォリュームに達するより前にオレの左頬にミスクレアの右ビンタがバチーンとクリーンヒットする。なるほど、あの右肩を下げたポーズはオレのリアクションを見越してのビンタの予備動作だったわけか。と、そんなことを考えながらも構わずオレは絶叫を続けた。 「嘘だ。オレの妹ならこんな暴力的な女なはずない。オレの妹ならナタリー・ポートマンやエマ・ワトソンの様に美しく聡明で立派な女性のはずだ。いや、そうに決まってる」 「なに馬鹿なこと言ってるの? これが現実よ。現実を見なさい」  頭を抱え現実に打ちのめされるオレにミスクレアはそう吐き捨てる。ふてぶてしい。実にふてぶてしい。だが彼女のいうことも一理ある。オレは落ち着こうとタバコに火を点け一息ついた。 「話を依頼に戻そうか。それで、君がほしい本とは一体なんなんだ?」  コーヒーに軽く口をつけるとミスクレアは静かに語り出す。 「あなたが施設に預けられてから五年後、私は母と一緒に施設を訪ねたの。そのときのあなたは母から贈られたそのハードカバーをとても喜び、こう言ってたわ」  そのときの記憶は一切ないが、オレは口を挟まず、黙って彼女の話に耳を傾ける。 「ありがとうお母さん。いま僕小説を書いているんだ。次会ったときにお母さんにプレゼントするね」  そのときオレの頭の中に何かの光景がフラッシュバックしそうになるが、浮かんだそのイメージは像を結ぶ前に消え去ってしまう。 「私が探してほしいのは、あなたの書いたっていうその小説よ」 「そんなの探してどうするんだ?」  オレは単純な疑問を口にする。素人が書いた小説を安くない金額を払ってまで探し出そうとする理由が、オレには全く理解できなかった。 「理由なんてどうだっていいでしょ。あなたは仕事をこなせばいいのよ」 「そうしたいのはまあ、山々なんだが、残念だがミスクレア……」 「クレアでいい」 「は?」 「ミスはいらないわ。クレアでいいわよ、兄さん」  兄さん。その言葉にこそばゆさを感じながらオレはなんとか自分のペースを保ったまま話を続ける。 「残念だがクレア、オレは怪我の影響で子供の頃の記憶がないんだ。思い出そうにもきっかけも方法もない、過去に一度医者にかかってみたこともあったが、結局はなにも思い出せず終いだったよ」  オレは事実をそのまま口にする。 「方法ならあるじゃない」  クレアは何故か得意気な顔で言った、どうやらいいアイデアがあるようだ。 「兄さんの職業は?」 「探偵……だが」 「探偵の仕事は?」 「色々あるぞ?」 「一番ポピュラー依頼は?」 「やっぱり素行調査かな」 「次は?」 「うーむ、人探しかな」 「それよ!」  人差し指をピンと立てたクレアが言う。彼女の眼がキラリと光る。 「依頼を追加するわ。今の兄さんに過去の兄さんを探し出してほしい。もちろん探偵なんだからできるわよね?」  クレアの眼は挑発の色を帯びていた。彼女の眼を見た瞬間オレは直感的に思った。  この仕事、非常に骨が折れそうだ。
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