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「眼を閉じて、ゆっくり呼吸をしてください。今あなたは年齢は十二歳です。今あなたの眼にはなにが見えますか?」  眼を閉じて、ベッドに身を預ける。水の中に揺蕩うような心地よい感覚がある。いい気分だ。でも身体はそうでも頭はそうはいかないみたいだ。シット。 「…………だめだ。なにも見えないよ先生」  オレは診察室のベッドから起き上がりながら言う。 「本当になにも見えなかった? 断片的な風景とか」 「見えたような見えなかったような」  オレは自分が見えたままの感想を口にする。 「そうか。大抵の患者はこの催眠カウンセリングで過去の記憶を取り戻すものなのだが、君の記憶は深層心理のかなり奥深くまで仕舞い込まれているようだね」と精神科医のデンバン博士が残念そうに腕を組む。 「記憶が完全に消えているって可能性は?」 「それはありえない。人間の脳はそういう風には出来ていない。必ずどこかに痕跡が残っているはずなんだ。それこそ脳以外の場所にもね。だが、この催眠療法は適切な方法ではなかったみたいだ」  デンバン博士は確信に満ちた声色で言う。 「じゃあどうすれば」 「思い出を追体験してみるといい。昔行った場と所、見たもの、食べたもの。それらを巡っているとふと記憶が戻ってみたりするもんだよ」  なんつー適当な、とオレは思ったが、探偵の仕事もそうだ。地道な捜査の積み重ねが最良の結果に行き着いたりするもんだ。オレは博士に礼を言って診療所を後にする。  オレの自分探しの最初のプランは有名な催眠療法による記憶の想起だった。まあ、芳しくない結果に終わったわけだが、こんなことでは挫けない。まだまだプランが残っている。オレはプランBに移るためにサブヴェイに乗り込んだ。  プランBとはオレの育った家、つまり生まれ故郷を訪れることだった。しかしオレは過去の自分に会うこと、つまり記憶を取り戻すことに積極的ではなかった。記憶を取り戻すこと、それはすなわち、自分の過去の痛みを再び味わうことを意味していた。忘れていた辛い思いをもう一度体験することを楽しみにするやつなんていないだろう。もれなくオレもその一人だ。憂鬱なため息が出る。 「次は上手くいくといいわね」  隣ですっかり助手気取りの我が妹クレアはドーナツを頬張りながら言った。呑気なやつだ。オレは彼女の膝の上の箱からドーナツを取って食べる。 「クレアの生まれはどこなんだ?」 「クイーンズよ」 「小さい頃本は読んでたのか?」 「それより外で遊ぶのが好きな子どもだったわ」 「だからそんなに凶暴なのか」 「兄さんこそ、窓から飛ぶくらいアクティブな子どもだったんでしょ」 「まあな、そのせいでいい歳こいて自分探しなんて依頼を受けてる訳だが」  オレは半分以上残ったドーナツを無理矢理口に詰め込み、飲み込んだ。 「あら、私は自分の思い出巡りなんて楽しいと思うけどね」 「ティーンのころの思い出なんて、大人になった今じゃろくなもんじゃないと思うけどな」 「そのろくでもない思い出も含めて人生なのよ」  クレアは遠い眼しながらを言う。若い癖に意外に年寄りじみたことを言うんだなとオレは思った。  そんな話をしながらオレたちはクリーブランドに到着する。バスに乗って院長に教えてもらった住所に向かう。辿り着いたオレの生家には当然のことながら、他の家族が住んでいた。その家は庭に大きな樫の木が生えていたが、オレはそれも覚えていなかった。  家を十分ほど眺めても何も思い出せないオレはプランBの失敗を悟り、クレアに帰ろうと提案するが、返事はない。  あいつはオレの隣から姿を消していた。どこだと探す暇もなくクレアは見つかった。なんとあいつは元オレの生家の現在の住人、人が良さそうなマダムと談笑しているではないか。何をやっているんだあいつは、と思い、しばらくその談笑を遠目で眺めていると、クレアはスコップを二本と芝刈り機を引きずって、嬉しそうにオレの方へと小走りで向かってくる。嫌な予感しかしない。  クレアはスコップを一本オレへと無言で差し出す。 「なんだこれは」 「スコップよ」 「そんなことはわかってる。これで何をする気だ」 「決まってるじゃないその樫の木の根元を掘るのよ」 「なんで?」 「きっと何かが埋まってるわ。木の根元に大事なものを埋めるなんて、子どもの考えそうなことじゃない。さあ、掘るわよ。兄さん!」  クレアの声は2オクターブくらい上がっていた。よっぽどこの状況を楽しんでいるらしい。なんでだよ。 「それにしてもよく見ず知らずのオレたちにそんなこと許してくれたな」  玄関の方を見ると初老の品のいいマダムがこちらを見ながら微笑んで手を振っている。 「おまえ、余計な取引とかしてないだろうな」  オレは急に不安になって、クレアにそう尋ねる。 「庭の芝刈りをするという条件で木の根元を掘り返す許可をもらったわ」  クレアは得意げにサムズアップで応える。オレたちの眼の前には広大な芝生が広がっていた。 「その、芝刈りは、誰がやるんだ?」  オレは心の底からやりたくないという感情を視線に乗せて、クレアを見た。そんな彼女はオレの背中に手を置くと、天を仰ぎながら言った。 「地獄より光へ至る道は長く険しいのよ。兄さん」 「ミルトンを引用するな。わかったよ。やるよ。やればいいんだろ。先ずは芝刈りからだ」  余計なことを考えるのをやめたオレはジャケットを脱ぐと、芝刈り機を手に取り、思い切りエンジンをふかす。こうなったら非の打ち所がないほど、綺麗に芝を刈って、ついでに井戸が作れるくらい深い穴も掘ってやる。もうどうにでもなれだ。 「じゃあ私は木の根元を掘り返しているから、芝刈りが終わったら合流してよね」  と、クレアはスコップを手に取り勇ましく肩に担ぐと、樫の木の方へ向け歩き出す。  それからオレはひたすら芝生を刈りまくった。刈って刈って刈りまくり。まるでオフロードだった芝を、綺麗な、それは綺麗な緑の絨毯へと変えてやった。そしてオレは、男らしくスコップを掴むと、クレアと共に樫の木の根元を掘った。途中、劣化した小さなキャンディの缶が出てきたが、そこに入っていたのは、小さな動物の骨だった。後々聞くとそれは、今の家族が昔飼っていた小鳥らしい。オレたちはそれを丁寧に埋葬し直すと、採掘を再開する。オレとクレアは無心で掘った。石油でも出てくるのではないかという勢いで掘りまくった。木の周りを二メートルのドーナツ状に掘り終わる頃には。まだ頭上にあった太陽も傾き始めていた。ここでようやくオレたちは限界を悟った。 「プランBも失敗ね」  泥だらけのクレアは、掘った穴を埋めながら落胆した様子で言った。 「まあ、よくやったさ。我ながらよくもこんなに掘ったもんだ」  同じく泥だらけのオレは汗を拭いながら言う。当然だがお気に入りのジバンシィもクリーニングコース決定だ。 「う、ううう、うわぁ〜ん」  しばらく無言で穴を埋めているとクレアが急に大声で泣き出した。オレは大いに動揺する。 「おいおいどうした」 「だって、だって見つからないんだもん、小説」 「たかが素人が書いた小説だろう。オレの記憶が戻る気配もないし、もう諦めようぜ。貰った金は返すから」  正直オレはもう自分の記憶が戻ることはないと思っていた。生家を見ても、特徴的な樫の木を見ても、その根元を掘り起こしてみても、何も記憶の最上層には浮かんでこない。デンバン博士は脳以外の部分にも記憶があると言ったが、どうやらそれはオレに当てはまらないみたいだ。 「今日はここいらでもう帰ろうぜ。なんか食いに行こう。美味いワルシャワの店を知ってるんだ」 「嫌よ! ママと約束したんだから!」  なだめるように言うと、クレアがしゃくり上げながら叫んだ。 「ママって、オレとお前のママのことか?」 「そうよ。もう気付いていると思うけど、今回の本当の依頼主はママなの」  少し落ち着きを取り戻したクレアは涙を拭いながら言った。ママ。オレのママ。全く顔が思い出せないが、オレが存在しているということはオレを産んだママも確実に存在していると言うことだ。今更ながらそんな当たり前のことに気付く。そしてどうやら彼女は生きているようだ。 「ママは元気なのか?」オレはクレアに訊いた。  オレの質問にクレアは黙ったまま俯いた。 「元気じゃないのか?」 「病気なの。もう永くないわ」  いくら覚えていなくとも、親がもう永くないというその言葉は少なからずオレの心に衝撃を与える。オレはそうか、と言ったまま黙り込んでしまう。 「ママが言ってたの、最後に、あのときガブリエルが言っていた小説を読んでみたい。って」  クレアの青く大きな瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。 「お前はママを愛しているんだな」 「当然でしょ。兄さんは違うの?」 「覚えてないからな」 「なんだか、昔の記憶がないって、哀しいわね。愛する人も、愛してたことも忘れちゃうなんて」  そう言うクレアの頬に静かに涙が伝う。 「もう泣くな。男は女の涙を見るとどうすればいいのかわからなくなるんだよ」  と言いながらオレはクレアにハンカチを差し出す。相手が妹でも紳士的な態度は崩さない。オレのポリシーだ。 「兄さんが泣かないから私が代わりに泣いてあげるのよ」 「うわーん」とクレアは再び声を上げて泣き出す。見た目の割に子どもみたいに泣くんだなと改めて思った。しかし、やはり女の涙は何度見ても慣れない。 「なら、プランCだな」 「そんなのあったの?」  涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をハンカチで拭いながらクレアが訊く。 「今思いついた。そもそも親は子どもを、子どもは親を無条件に愛さなきゃいけないなんて考え方は好きじゃないが、それが依頼人となるとまた話は変わってくる」  と言いながらオレはクレアに向けスコップを差し出した。 「なに?」訝しげな顔でクレアはスコップを受け取った。 「このスコップでオレの頭を殴れ」 「なに言ってるの? そんなこと出来るわけないじゃない」 「壊れたテレビ理論だ。この世の大抵のものは叩けば治る。それはきっと人間も同じだ」 「そんなことしたら怪我じゃ済まないかもしれないのよ」 「依頼人の依頼を叶えるのが探偵の仕事だ。そのために命を賭けることもたまにはあるもんさ」 「死んだらどうするの?」 「そこはお前の力加減にかかってる。記憶が戻りそうな強さで頼む」 「なによそれ。わかった、やるわ。やってやるわよ。兄さんの記憶は私が取り戻してみせる」  呆れるように笑うとクレアはバッターボックスに入ったスラッガーのようにスコップを構える。何故かうっすら殺意のようなものを感じるが、気のせいだろう。  どうやらオレの頭は長時間の芝刈りと穴掘りで完全におかしくなってしまったようだ。そうでなければ勝算のないこんな賭けに出たりしない。かわいい妹の為、愛しかったであろうママの為なんて理由では断じてない。筈だ。オレはその場に跪くと、眼を閉じて、全身の力を抜く。 「いつでもいい……」 「ぞ」と言い切る前にオレの頭がパカーンとスコップに弾かれる。首がもげるかと思うほどの勢いと、波のように押し寄せてくる痛みの中でオレは絶叫する。 「思った以上に容赦ないし、心の準備くらいさせてくれ!」  そして、ものの見事にプランCも失敗に終わったことを、オレは割れて血が噴き出し、なにも思い出せない頭で実感したのだった。
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