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8
オレは古ぼけた建物内に立っていた。これが走馬灯だということはすぐに気づいた。そりゃ猛スピードの車の行き交うフリーウェイ橋から落ちたんだもんな。死ぬよなそりゃ。
よくよく辺りを見渡すとそこは見覚えがある場所だった。そこはオレの生家の中だった。そして眼の前にいる穏やかな顔をした女性がオレのママだ。その隣に子どもの頃のオレがいる。子どものオレは楽しそうに画用紙に絵を描いていた。
ようやくママの顔を思い出せた。
同時に一つ納得いくことがあった。初めてクレアの顔を見たとき、酷く彼女の顔が癪に触ったのは、ママに似ていたからだ。その時点ではおそらく憎んでいたママに似ているクレアの顔を見て、オレは深層心理で苛立ったのだ。やはり、オレの脳は、心はママのことをを覚えていた。
オレの記憶は走馬灯の中にあったんだ。このまま走馬灯を見続けていれば、件の小説のありかがわかるかもしれない。しかし、万が一行き生き返りでもしない限り、現実での真相は闇の中のままになるわけだが、それはそれで仕方ない。人助けをして死ねるなんて探偵冥利に尽きるじゃあないか。オレは意外にも冷静にそう考えていた。
ママにも子どものオレにも当然今のオレの姿は見えてはいない。おれはその場に座り込み、そのまま二人のやりとりを眺めることにした。
ママは子どものオレが描く絵を見ながら微笑みながらマグを傾ける。
「ねえ、ママ何飲んでるの?」
「ん? コーヒーよ」
「美味しいの?」
「美味しいわよ」
「飲んでみたい!」
「まだガブリエルにはちょっと苦いかもしれないわよ」
「でも飲んでみたーい」
小さなオレは駄々をこねる。それを見かねたママは仕方なくオレにマグを渡す。オレは嬉しそうにマグを受け取るとワクワクした眼でコーヒーを飲んだ。
「うえ〜にがーい」
オレは舌を出し、顔中をしわしわにしながら言った。
「あはは、だから言ったじゃない。ちょっと待ってて」と言ってママはキッチンへ向かう。しばらくするとオレの小さなマグを持って戻ってきた。
「また苦いやつ? 僕もうコーヒーいらない」
「飲んでみて」
ママは頬杖をついて眼を細めながらオレにコーヒーをすすめる。
オレは恐る恐るマグに口をつける。その瞬間、オレの眼がキラリと輝く。
「美味しい!」
オレは弾けるように喜びを露わにする。
「コーヒーの量を少なくして、お湯を多めに入れたのよ。これで苦くないでしょ。特製ガブリエルブレンドよ」
「ガブリエルブレンド、僕好き!」
オレとママは笑い合った。
そこで画面が変わる。次に見えたのはオレが両親の離婚で窓から飛び降りてしばらく経った後、施設に預けられる時の光景だった。
「いつか必ず向かえに行くからね。待っててねガブリエル」
そう言ってママはオレにノートと鉛筆を渡してくれた。
「うん。待ってるね」
この時のオレはママが迎えに来てくれると心の底から信じていた。
ママはオレが作る話が好きだった。だからオレはママにオレが作ったお話を書き溜めてプレゼントしようとこの時は本気考えていた。
幼いクレアを連れてきて本を送ってくれた後、何年経ってもママは迎えに来なかった。親に捨てられたと気付いたのはこの時だった。
その時オレの小説はノート何冊分にもなっていた。
でも、もう、このお話を見せる相手は居ないんだとオレは悟った。
ここでまた場面が転換する。
眼の前ににはドラム缶いっぱいに詰められた大量のノート。オレはそれにライターオイルをかけて火をつける。
誰にも読んでもらえない小説なんて無意味だ。ただのゴミだ。ノートは二メートルほどの炎を上げて燃え上がる。此の炎の大きさはママに対する希望だった。そして、萎んでいく炎はママに対する絶望だった。
「みんな嫌いだ」
「嘘ばかりだ」
「誰も僕のことなんて大事じゃないんだ」
燃え上がる炎を見てオレは呟いた。
施設の職員が飛んできて炎を消し止めてくれたが、オレの書いた小説はほとんど燃えてしまっていた。
こんなものがあっても、もう誰も僕の元には戻ってこない。誰も僕のことを気にかけてくれない。僕は独りだ。ならもうそれでいい。もう忘れよう。この記憶に蓋をしよう。
こうやって、オレはオレの記憶に呪いをかけたのだった。
思い出した。オレは頭の怪我で全てを忘れたわけではない。自ら辛い記憶に、一人でいることの辛さに耐えられなくて、自らに呪いをかけたんだ。何も思い出さないように、強く固い呪いを。
しかしこれで謎が解けた。
オレが描いた小説はこの世にもう存在しない。全て燃えて灰になってしまった。
オレは思った。
依頼は失敗だ。
ファック。
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