文は揺蕩う

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 早朝。  一段と空気が澄み、朝明けが煌々と縁側を指す時間がある。夏がさしかかり。その日は、とても暖かな日陰が出来る時間となる。  朝顔に程々の水をかけ、身支度を済ませた。  バス停にて、君を待つ。  __少し嫌味を載せた文列には、失敬と返信。どうやら先に着いたようだ。  顔を上げれば、清々しい程に透き通った湖が一面を飾る。  事情を問いただしたい気持ちを抑え、私は無人のバス停にて乗り込む。  こんな時、聲を出せたらいいと思う訳だ。  バスは湖の名称を象った駅を出ると、その車体を山々へと向けて進んでいった。そうして傾斜を上った先。標高数百メートルの地点に、水戸家山の山道へと続く登山口がある。  元々山岳信仰が根強かったこともあり、遠方からも人が訪れる事が多い水戸家山は、計三種の主な登山ルートが開拓された。  そのうちの一つである宮上ルートは、傾斜が所々キツイが絶景が見られるポイントとして有名な場所だ。   「庵(いより)先生、準備は大丈夫?」 「__先輩。人の身よりも自分はどうなんですか?」  火山活動は大昔に終ったらしいが、今でも水蒸気が溢れてその影響は残っているようだ。  麓であるこの温泉街では、湧き出る天然温泉を目当てに訪れる観光客の大半が登山客だと聞いている。  旧硫黄の採掘場へと続く駅。今はSLが設置されたバス停の名前が読み上げられる。  バスを降りれば、同じように登山の格好をした隣人と後輩が何やら言い争いの様な事をしていた。  断定出来ない理由は、それが否定的な話ばかりではなかったからだ。  隣人は、とても呆れた様子で。  後輩は、楽しそうに話を続ける。  嫌みの一つでも言いたいが、生憎声が出ない。   「…………はぁ。長瀬ちゃんよ。それよりも、今後のスケジュールは理解しているかね?」  かねかねと、隣人はカナカナ蝉の様な口調を絶やさない。それは譲り受けた口調のように言葉を続ける。  隣人。最上東星(もがみとうせい)は、呆れたように声を出した。バスに降りた私に気付かなかったようで、その後も話を続ける東星の肩を掴む。  そのまま左右に肩を揺らすが、それでも気付いている様子はない。   「理解しているつもりですが?これから、マイナスイオンを浴びるんでしょ?先輩」 「程々の登山は健康的だっていう意見には賛成だけど。ぼかぁ、具体性がある返答を期待していましたよ。先輩さん曰く、君は不思議チャンな所があるって総評だけど。今日も変わらないね、相変わらずだ」  長瀬後輩が、含み笑いを此方に向ける。  まあ、これで気づいていない訳が無い。  旧駅には、登山客の需要が多いのかその建物はバスターミナルとして利用されている。  地元民の足としてはもちろんの事、観光業に力を入れている温泉街では、行楽シーズンの楽しみ方が掲載されたパンフレットや、近郊のおすすめスポットが書かれた掲示板が特に目立っていた。  その中にはこれから登る水戸家山の情報も記載されており、調べた限りでは山の天候は快晴。登山に影響は無さそうだ。 「腕時計も、登山道周辺の火山性ガスのポイントも大丈夫です。一酸化炭素中毒とかでお亡くなりには成りたくないですから」 「分かっているならいいけど。まあ、山道は山の管理者によって管理されているから、よっぽどのことが無い限りは死にはしないと思う。ただ、最善は尽くして置こうって話だよ」 「先輩の運勢は、よっぽどのことが起こりそうですけどね」  此処まで私を無視するとは。君はずいぶん大きい人間になったものだ。  少しだけ視線を此方に向けても、気付かない振りを続ける隣人に、私は最後の手段を使う事にした。 「君、なんでオレが大凶だと知っているんだ?」 「今日のラッキーアイテムは、黄色いハンカチらしいですよ」 「装備済み。俺は自分の事をよく知っているんだ。他人以上にね。  これは俺が硫黄の池に沈んで、サムズアップをするんだってお告げだろ?_____あ、ちょっと待って」 「はい、庵先生。おはようございます」  私は、出来る限りの笑顔で答える。 「__いえ、決して無視をしていたわけでは……。 唯、庵先生が怒る所を見たかったなんて思っても居ないですよ」  君は、特段怒らせるのが好きなようだ。  私はカバンから黄色いハンカチを取り出すと、彼の口に押えるように包んだ。こうしておけば、下らない口も閉じるだろうと……。  ああ。これは元々、占いや滋担ぎなどに興味が無いだろうと思って東星の為に持ってきたものだ。  職業柄と言うべきか、滋担ぎを欠かさない。  悪びれも無く受け取った隣人は、それを無造作にポケットに仕舞う。 「__先輩知っていますか?一酸化炭素中毒って、楽なようで苦痛ある死に方なんですよ?  良かったですね。あちらのお土産屋には、七輪があるそうです」 「……後輩さんよ」 「何でしょう?」 「俺が、自殺主義者にでも見えるかな?」  一連の流れを見た後輩が、犬も食わないと言いたげにこちらを見ていた。 「見えます。どこかおかしいですか?」 「遺憾の意を示しても?」 「先輩に権利はありませんよ。だって、謝る権利も無いじゃないですか」  長瀬後輩は荷物を背負い、入り口に向かい脚を進める。 「__それは、君に対してではないだろ」  元々、長瀬後輩を含めた私たち三人は同じ山岳倶楽部に属していた。  周辺には様々な山があり、幼い頃から山に魅せられた私達は、様々な場所でその思い出を積んでいった。  だけどもそれは、三人だけの思い出ではない。  私達には、もう一人居た。私の双子の姉に当たるその人物は、高校生活を始める事も無くいなくなってしまったが。  死人に口なしとは言うが、生きている私も何も言う事は出来なくて。  伝えようにも、言葉が出ない。  浅崎色(あさざきし)は明るい人間で、私達の中心だった。  長瀬後輩は、誰よりも彼女に懐いていた。隣人という呼び名もそうだ。私達の呼び名であるこの言葉も、彼女が付けた。 「隣人を愛せよと誰かも言っていたようだし、何より愛称は特別だから」等と言っていた。    そんな彼女が無き後も、私達の関係は続いている。  隣人と後輩は、相変わらず私の隣にいる。  だけどもそこに、色(しき)は居ない。  私達にとっての色彩は、彼方に消えた。          
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