文は揺蕩う

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 足を踏み入れると、清々しさはより鮮明となる。  植物の凛とした香りが、一層冷ややかな空気を湧き立たせる。所々に響き渡る野鳥の鳴き声。鮮明な朝の森が、視界一杯に広がっていた。  時刻は八時を回り、スマホは適温の湿気だと示す。纏っている登山用の防寒着は、それなりに動きやすい。  遭難時などに対応して比較的目立つという点を覗けば、とても優秀ちゃんな相棒だ。  一歩ずつ、踏みしめられた山道を歩んでいく。  先頭は隣人が務め、その後を追うように長瀬後輩が続く。私は後を追うように歩むが、呼吸は少しづつ乱れていく。  年間登山客に溢れるとはいえ、この時期、この時間帯はその姿が見える事は無い。道のりは三時間弱と短いとは言えないが、連邦を超えたりする身分としては朝飯前だ。  途中では、小野川の支流の一つが顔を覗かせていた。  赤みがかった肌色を見せる小野川は、この支流と河口付近のもう一つの支流が合わさり鉄分を多く含んだ川となる。その川は、この下の集落の温泉街にとって湖へと溜まり、観光資源ともなる源となる。  小川を超える為の人工的な橋は、木の板に苔が生えている如何にもな雰囲気の其れだ。  登山客の身としては、もう少し上品な橋に期待したい訳だけど。どうにもその光景は確かに映えるものであって撤去をするのには忍びない気持ちが沸いてしまう。  そういう事情が含まれるのかは知らないが、橋というには不安定な其れだ。  今の時期の登山客はそれほど見られないけど、紅葉のシーズンには周辺の中学校や小学校の行事としても利用される。  だというのにも、こう言った整備不良の橋が多々見られるのがこの山の特徴ともいえる。 「見てくださいよ、庵先輩。今にも落ちますよ。これ」    小川を軽く飛び跳ね、あまりにも不親切な橋を越えた長瀬後輩が手を出す。私はソレに答える事なく飛び跳ねたのだけれど、バランスを崩し扱けそうになった私の手を、長瀬後輩は掴んだ。  私は、今。後輩によって繋がれている。  スマホをどうにか手放さなかったのが幸いだ。生憎、画面が割れた其れの寿命をさらに縮める訳にもいかない。 「危なかったですね、先輩」  運動能力に、とても秀でた後輩の真似をするのではないと私は学んだ。  荷物は重く、足への負担を考えればこんな事をする道理なって無かったはずだけど、__少し息を、肩の荷を整える。 「二人とも、アクロバティックな事をするのはいいけど__道中は危険がいっぱいだから」 「ケガは無いんで大丈夫では?」  私は持参したスケッチブックをかざし、意思を伝える。  少し遠目だとは思うけれど、生憎隣人の視力はとても良い。意味を理解したのか、隣人はどこか言いたげな様子を隠さずに引き下がる。 「__まあ、それならいいけどさ」  隣人が先を歩くのを見て、後輩は私から離れない。  後輩は、先頭の隣人から離れるとこちらに並行するように体を寄せた。本来、山登りでは並行して歩く事はあまり好ましい事ではない。  彼女は愛用の手袋の裾を引き、私の方を見て手話を始める。 『先輩。体調はどうでしょうか?』  私にとって、会話は何よりも理不尽だ。  文通は会話になり得ない。かといって、手話は相手方を選ぶ。こちらが理解出来たとしても、相手が理解出来るとは限らない。  長瀬後輩は、その限りない一人だった。  今は携帯端末での意思疎通が気軽にできる時代だけれでも、こう言った山奥ではどうしても伝える事が出来ない。  だから、こう言う時も私の自慢の後輩は役に立ってくれる。私の伝えたい事を伝える翻訳者としても、友人としても。無くてはならない人間だ。 『大丈夫』 『疲れたら言ってくださいね?__最上先輩より、私の方が頼りになりますから』  浅崎色(あさざきし)の失踪は、私達の心に傷を残した。  妹である私もそうだけど、長瀬後輩の傷も相当な筈だ。  __私は、後輩に対して黙っていたことがある。  こんなにも、私に対して思ってくれた後輩に。たった一つだけ。 『長瀬後輩』 『何でしょう?』  姉の失踪後、何も手が付く事は無かった。  だから、私は昨年の祭りで湖へ思い出を殺した。  それは姉の事を綴った話で、私の大切な思い出だった。  後悔を、感謝を、懺悔を。  書き記す限りを尽くして、私は捨てた。 『どうして、今更。水戸家山に登ろうと?』 『今更。とは?』  水戸家山は、姉が失踪されたとされる場所だ。  何故、姉はこの山で失踪したのか。その原因が私たちの誰かにあると考えたら?  一番可能性が高いのは、私達のどちらかだと思っているなら?  一番懐いていた長瀬後輩が、それを恨んでしまっているとしたら?  可能性はある。  笑顔を絶やさない後輩が何を考えているのか、私は知る事は出来ない。 『__別に、君が気にしていないのならいいけど』  その時は……。   隣人は、未だに姉への思いを殺していない。  これが私の罪悪感であって欲しい。 『長瀬後輩は、私を恨んだことはある?』  その言葉を聞いた長瀬後輩は、少しばかり顔を伏せ何か言い淀むかのように言葉を詰まらせた。  適切な言葉を探している最中と思われるその行動に思えた。  私は、彼女の沈黙に言葉を待った。 『今日。此処を選んだ理由は、先輩に伝えたい事があったからです』 『何を?』 『浅崎色(あさざきしき)先輩の話です』  言い澱んだ長瀬後輩は、少し躊躇いながらも意味を伝える。 『色先輩が最上(もがみ)先輩と話をしていたのを聞いたんです。  __先輩は。どうやら、一年ほど前から視力を失っていったらしくって。その事で思い悩んでいたらしいんです』 『目を?』 『最上先輩は、それを先輩に知られないようにしてました。先輩との約束があったらしく』  __それは、初耳だった。  姉は、普通に振舞っていたはずだからだ。   『……それは、先輩の為でした。__此処で言うのも何ですが、赦してやってください』  私は、隣人と姉の中を知っている。  其処に憎悪や蟠りが無い事を知っている。  隣人である最上東星(もがみとうせい)は人情深い。  そして何より。  色は、常に隣人の傍にいたのだから。  「今言えば、先輩の罪は時効になりませんか?」  
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