文は揺蕩う

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 太陽熱に焼かれたアスファルトの上は、木蔭を移動しているというのにその暑さが身に染みるようだった。  色先輩が包み込んだその手は冷ややかで、歩道側に生い茂る緑林が隙間から爽やかな風を運んでくる。  今は初夏、夏休み序盤。  暦の上では五月から六月を指し示すが、私にとってのイメージでは七月の中盤、後半に差し掛かった物を指す。広辞苑の上での常識よりも、私にとってを重視しよう。……無論、この場合に限った話としてはだがね?  そんな先輩の口真似を挟み、趣ある図書館から足を進めた私達は、目的地である別荘へと移動した。  如何やら先輩の本家が所有している別荘らしい。先輩の苗字である浅崎家はこの土地を管理する重役の一端を担う飯田家の分家だ。  分家と言えどもその役割を継いだ浅崎庵(あさざきいより)先輩が、灯を引き継ぐ算段となり、元々、柔和な関係だった両家の関係はさらに深まったと色先輩から聞いている。  先代の灯は彼女たちの祖父であり、受け継いだ庵先輩はその職務に準じているようだ。  湖を沿うように山側と隔てられた道路を進めば、途中で産学の方へと伸びる一本道が現れた。私有地と書かれた看板の先には、車一台がようやく登れるような道なりが続いている。 「長瀬後輩、山登は楽しい?」 「楽しくなければ趣味になりませんよ」 「……そっか。じゃ、長瀬後輩はどれくらい続けるつもり?」  この踏みしめた一つ一つが意味となる事を、私は心の底から好きだった。  思い出に過去がある様に、山登にも過去はある。登山開始前の他愛無い会話から、道中の障害を乗り越え。そして、開けた視界の先の山々が爽やかな空気と共にその姿を見せる時まで。  その全てが意味ある行為で、私の志向には違いが無かった。 「__出来れば、高校でも続けるつもりです」  季節により、一層その顔を変えるそれが何よりも。  無論、それは先輩達との思い出も含まれる。思い出となり褪せてしまっても、この関係性だけは変わらないと思えるほどに。 「同じ高校だもんね。__ま、山岳部は無いから東星達が作るだろうし、いいんじゃないかな。  高校生活はバラ色だそうだから。まぁ、山登がそうであるかどうかは保証しないけど。__でも、何があるかは分からないしね」  それは楽しみだと、私は答える。  東星先輩なら、余計な事をしそうで心配だと私言葉を付け加えた。  ふと、軽口を済ませた私だけれど、先輩のその物言いからは他人事の様な言い方が含まれているような気がして疑問を投げかける。  気が利く自分だというのに、”そう言えば”なんて言葉を付けくわえるのを忘れてしまっていた。 「……先輩は、入らないんですか?」 「というよりも、予定が入ってさ」 「予定?」 「秘密の予定」  冗談交じりに、先輩は答える。  その予定を話す事は無さそうだ。  心変わりの理由を聞く事も無く、視界は開ける。  林道を抜けると、見えたのは手入が行き届いた別荘。先程の図書館と同様の大きさであるその住まいは、人が住むには広々とした空間を安易の予想させ得る広さ。その清廉とした佇まいは、絢爛という印象よりも木造の温かみを印象に残す様だ。母屋とは離れた場所で、一つだけ屋根が違う建物が遠めに見える。  如何やら球体状のその建物は、母屋と小さな廊下に繋がっているように見えた。表玄関の扉は見るからに西洋式で、扉の前にはドアノッカーが付いている。  手提げバックからカギを取り出した先輩は、一回り大きな扉の鍵穴に回した。   「元々は図書館と同じ資産家の別荘でね。その人が、図書館と同じ時期に手放した別荘がこれだよ。今は本家の人間が管理している。  まあ、従兄妹っていう関係だから。稀に、友人や家族で泊まり込みをしたい時なんか貸してくれるんだ。  こういう場所って、毎日泊まり込む訳でもないし。維持運営考えると他人に貸す事が多くなるから。この場所も、何時かはペンションやらに変えてしまうんだろうね」  扉を開け中へと招く色先輩。  庭先が見える廊下を進み、とある扉の前で立ち止まる。  其処には、図書館という名前だけが記載されている。  薄暗く奥の様子は見えない。どうやらカーテンで閉め切っているようで、書籍の管理を行っている場所だろう事は、名称でも、古さ際立つ紙片の香りでも分かる。  蛍光灯の明かりに照らされ、その様相は明るみに出た。  その場所は、”未知”という言葉が似合っていた。  先ず飛び込んできたのは、広く大きな空間だった。プラネタリウムを象ったようにドーム状の天井は、木造の中でもひときわ目立っていたあの建物だと直ぐに分かった。 「そういう訳で、そんな事になる前に私のちょっとした自慢を見せたくてさ」  コレクションというにふさわしい、分厚い背を向けた本が所狭しと並んでいる。扇上に広がった本棚が、元は窓辺だったのだろう場所さえも侵食し、正しく列をそろえながら場所を支配していた。  自慢。と先輩は言った。  それら全てが高価で価値ある本だという事は、その色褪せた年代と著者の数々。何よりもその物量で察せられるほどに、その図書館はその名に恥じない名称を語っている。 「あの図書館は、多くの掘り出し物で有名だけれど。私の図書館も負けてはいない。__君に頂いたプレゼントの礼になるかは分からないけど。  私も、君にプレゼントをしたくてさ。本好きな君に紹介をしたかった。無論、此処の人間には伝えてあるけど、施錠だけは忘れずにね」  彼女はそういうと、先程のカギを渡す。  整理整頓はされているようで、長年使われた図書館という印象が微かに残る埃の匂いで伝わる。この規模の蔵書量なら維持管理をするのにも相当の苦労がある事は明白だ。  図書館の一角に備えられた長机と椅子は、面と向かって会話をするにはちょうど良いいようで。円形に囲まれた本棚の数々に目を奪われながらも彼女の案内に従い私は席へと座った。  蔵書の数々に対しての興味は尽きず、山登と同じ程私はこれが好きなのだろうと実感できるほどに色先輩との話は止まらなかった。   「ねえ、長瀬後輩。君は、この活動をどう思う?」  主題に入る前に、彼女は回り道を好む。  それは、先輩の癖だ。 「山登りにおける遭難てさ、自殺と変わらないと思うんだ。  もちろん、みんな覚悟を以て最善を尽くしている筈だ。でもリスク管理をいくら増やして、たとえどれほど安全にしようとも零にはならないんだ。人が居ない場所に、自分の意思で踏み込んだ時点で。踏み込んだものには必ず責任があるんだよ。  ……いや、こう言う言い方は過激だね。__私が、言いたいのはさ」  いわなくても、分かってる。  先輩が言いたいのは、きっかけは動機になり得ないという事だろう。山登りだけに留まらないけど、特に山登りという趣味には危険が伴う。天候、地形による予測不可能な危険。火山活動が認められている所では、さらに多くの危険が伴う。  登る上で、準備を行う事は当たり前で。  その上で最善を尽くしても、危険は常に控えている。  キッカケは動機になり得ないんだ。  先輩に憧れているから、山に登る。それが何時まで続いたしても、先輩という理由は危険に足を踏み込むという理由にはならない。  だから、私の理由は。  先輩がきっかけであったとしても、先輩が理由ではなかった。   「私たちの活動だってさ、こうして中学生の頃から、四人で山登りをして。……まあ、それなりに経験はあるけれど、何時かは遭難するかもしれない事は皆分かっている筈で。それでもやめないのには、理由があるだろう?  長瀬後輩の其れが、もし私なのなら。__止めた方がいいよ。だって私は、それが幸せだとは言えない。私が言える事は、君の趣味は”これ”にすべきだなんて、勝手なお願いになる」  確かに、きっかけは先輩だ。  それでも、……私は。   「私は、先輩を尊敬していますし。私の趣味は先輩がきっかけだと思います。__でも、続けている理由に貴方が含まれていたとしても。この意思は自分の物です。私は、私が楽しいから山を登るんです」    もし、色先輩が山のぼりを止めたとしても。  私はきっと、その魅力から抜け出せないだろう。  それは危険が付き物であると理解しても、続けることにためらいが無いほどには魅力的だった。先輩と共有する読書という趣味にも似ている。  他人と同じ本を読んだところで、自分自身の小説の価値は変わらない。  その趣味には私なりの価値があり、私なりの価値は誰にも色褪せない。  それが、たとえ先輩だとしても。  読み終えた感想文は、十人十色であるべきなのだから。 「これは、私の趣味です」    その言葉に、先輩は満足をしたのだろうか?  傾聴していた先輩は、少しばかり諦めた様に。分かっていたかの様に、納得したかのように溜息を吐いて、少し嬉しそうに言葉を続ける。 「いや、ごめんね突然こんな話を。私は、もしかしたら長瀬後輩が私を大好きな人間だと思って夜も眠れなくてね。  こんな私を慕う人間はいくらかいるけど、東星みたいにゾッコンにさせていたのなら申し訳が立たないだろ。  何時かは期待を裏切るだろうから、期待をさせたくなかった。全く、恥ずかしい限りだね。……ちょうどいいから、アイツのせいにでもしてくれ。  後を濁さない為に、思いだけを残してほしい。捨てるべきは吐き捨てたい過去で、積み立てた思い出ではないさ」    いつか過去の思い出が色褪せたとしても、その色が思い出なのに変わりはない。 「長瀬後輩、僭越ながらもう一つ頼みごとを聞いてほしい。私さ。生憎、底炎(ていえん)祭には用事があっていけなくて。代わりに、手紙を捨ててくれないか?」 「……何を、捨てるんですか?」 「長瀬後輩。言っているだろ?捨てるなら、吐き捨てたい過去だって。  __君、気になっていると思うけど、見ないでくれよ?恥ずかしくて死んでしまうだろ」  そして。先輩は手紙を残した。  宛先には、あの湖の底へと刻まれていた。 「長瀬後輩。……これからも、どうかよろしく」  その言葉がどうにもはかなげに聞こえて。  __私は、その時。……色先輩が。  色先輩は、居なくなるのだろうと思ってしまった。
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