皐月には曖昧な風が吹く

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そうして邑崎家に引き取られることとなった私は、そこで初めて理一と出会うこととなる。 当時私が小学一年生、理一は小学三年生だった。栄養不足なせいかあからさまに周りの子達よりも成長が遅く、体の小さかった私に対して、理一はこの頃からずっと変わることなく背の高い少年だった。 だから父に手を引かれた自分よりも頭一つ以上背の高い理一が少し怖くて、私は終始俯いていた気がする。 『菜々ちゃん…?』 けれど私を呼ぶ声が存外に優しく、私はまるで何かに導かれるように、伏せた視線を持ち上げて、理一を仰ぎ見た。 その瞬間の衝撃は、今も忘れられない。 天使みたい、だなんて如何にも陳腐な感想が頭の中にぽっかりと浮かんだ。 長い睫毛に縁取られた理一の瞳は綺麗な薄茶色をしていた。柔らかそうな髪が目の上の辺りでふわふわと風に揺れていて、何故家の中で風が?なんて悠長なことを考えた。 けれど理一から目を逸らすことが出来なかったから、その風の正体は未だに不明だ。偶然窓が開いていたのかもしれないし、そもそも風なんて吹いていなかったのかもしれない。頭の中で過去を美化して書き換えた幻想かもしれない。 『理一、菜々は今、ちょっと喋れないんだ』 父は少し困った声で理一にそう告げた。それに理一の綺麗な目が瞬く。 当時の私は言葉を失っていた。 何か喋るたびに母から殴られるので、飲み込み続けた声の出し方を、いつの間にか見失ってしまっていた。
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