皐月には曖昧な風が吹く

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そんな私を見つめた理一は、子供ながらに私の置かれてきた状況に同情したのか、酷く悲しげな表情がその整った容貌を染める。 理一の手が私の方へと伸びてくる。咄嗟に殴られると怯えてその場に蹲った私は、当時、どうしようもなく母親からの暴力に毒されていたのだ。 けれど理一のその手が私を殴ることなんてなかった。 これまで一度だって、私を邪険に扱ったことのない優しい手。その理一の手に初めて触れたのが、思い返せばこの時だった。 『菜々ちゃん、これからよろしくね』 『――――…』 理一の優しい手が私の手を握ってくれる。 とても丁寧に、まるで慈しむように。 それに急激に緩んだ心の隙間からぽろぽろと涙が溢れ出した。それに気付いた理一がまた悲しそうに表情を歪めるので、私は咄嗟に涙を隠すように顔を手で覆った。 母は泣いても私を殴った。だから私にとって泣くという行為はその時まで、悪いことだった。 『泣いていいよ、大丈夫。怖がらせてごめんね』 まだ声変わりもしていなかった理一の声はとても柔らかに響いた。 まるで五月に吹く薫風のように柔らかに。 それが恐怖に凝り固まった私の心をゆっくりと溶かし始めるのを感じながら、手を握って、背中をさすってくれる、これから私の兄になるという目の前の男の子の名前を声にならない声で紡いだ。
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