皐月には曖昧な風が吹く

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*** 「大丈夫か?」 冷蔵庫から昨日作り置きしておいた酢豚を取り出していた私の背中に、源の声がした。 「え?大丈夫って何が?」 「まあ広域的な意味で、全体的に元気?」 「何言ってるの、元気だよ」 「ならいいけど」 源の手が後ろから伸びてきて、冷蔵庫の中の缶ビールを取り出す。すぐ斜め上に見える源の顔に苦笑が乗っている。源はいつだって優しい。 「本当に大丈夫だよ、ありがとう」 「うん」 源は缶ビールのプルタブをその場で開けた。まだ立ち去る気はないらしい。リビングでは理一がひとりでテレビをぼんやりと眺めている。私は大きめのタッパーに入れていた酢豚をお皿に出して、ふわりとラップを掛けた。 「理一とは相変わらず?」 「今さら何か変わることなんてある?」 「むしろいつまで滞ってんだよって思ってるよ、俺は」 「そうだね、滞るか、何もかも捨てるかの二択だけど、後者を選ぶのはまだ難しいから、当分は停滞するんじゃないかな」 「別に他にだって選べるもんはあるだろ」 「ないよ」 酢豚を電子レンジの中に入れた。 小さな箱の中をオレンジ色の赤外線が照らす。 私と理一はこの箱の中よりもどん詰まりだ。 頭の中に遠い雨の音が雪崩れ込む。 その中で捨てたものは、もう二度とこの手の中には帰って来ない。一度歪曲した針金がもう二度と元の真っすぐな形に戻ることがないように、すべてはひずんだまま放置されている。 「…許せないか、どうしても」 源の声が苦しげに絞り出される。 背中を冷たい手でなぞられるような心地がした。
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