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「今夜は風が気持ちいいな」
「酔い覚ましにはちょうどいいよね?」
「まあ酔うほど飲んでないけどな、俺はどっかの誰かと違って」
夜の中に理一の吐き出した煙草の煙が舞う。
煙草を吸いにベランダに出た理一のあとを追い掛けた私は、両手に持ったマグカップのうち紺色の方を理一に手渡した。
ベランダに吹く夜の薫風はなめらかに肌を撫でて過ぎ去ってゆく。まだ自分の手の中にある赤いマグカップに注がれたコーヒーの香りに誘われるように私は口を付けた。
「理一はお酒強いもんね」
「そんなことないよ、単に無茶な飲み方しないだけ」
「源と違って?」
「そう、源と違って」
くすくすと笑う咥え煙草の理一は少し悪どい顔をしている。
「あと七連休も残っちゃってるね」
「することないよなあ、こんな休んでもな」
「理一も業界柄お休みだけは多いもんね、代わりに残業も多いけど」
「な?バランス悪いよな」
くたびれたように呟く理一は昔からあまり見た目が老けない。まだ二十代前半でも通用しそうだけど、もう三十路だ。今年の十一月が来たら三十一歳になる。
出会った時のまだ子供だった理一の面影を残してくれているのは、もしかしたらその中身よりも見た目の方かもしれないと思った。
「理一は昔から綺麗だね」
「何それ、俺今もしかして口説かれてる?」
「自分のお兄ちゃんを口説いてもね」
「そうだよな」
会話の続きは夜の中で揺れて、流れて、ほどけて、溶けて。何かを誤魔化すみたいに微笑み合った私と理一の間に横たわる昏い過去が香る。
血の繋がりがなくとも、私と理一はまがうことなく兄妹だ。それだけが暗闇の中に細く差し込む唯一の光だった。それを見失うことはがらんどうの中で視力を失ったまま彷徨い続けるということに他ならなかった。
皐月の曖昧な風のようにどっちつかずな私たちは、どこへも行けずに滞り続ける。
何も望まずに、永遠に、ふたりで。
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