水無月が昏い雨に濡れる

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水無月が昏い雨に濡れる

水無月の空から次々に雫がこぼれ落ちている。 どうやら陰暦の水無月はかつて夏の初め頃に当たったらしい。だから梅雨の湿っぽいこの時期にも水が無い月だなんていうのだそうだ。 何かの本で読んだ気がする。 蓄積される知識の源泉はいつも判然としない。 私の仕事は、都内の大学にある図書館の司書員だ。 そこで働く私の日常は単調だった。毎日本の整理と受付業務を中心に淡々と仕事をこなすルーティンワーク。けれどそれを不満に感じたことはない。本の海の中を泳ぎながら働くことが出来るなんて、私にとっては幸福以外の何者でもない。 図書館にある本たちは、皆一様に旅をする。 まるで海を渡るように人から人の手に渡る本たちは、船が港で羽を休めるように、束の間の休息に図書館の棚に戻ってくる。 その航海の最中に小さな傷を背負い続けた本たちは、名誉の負傷とでも言いたげに、どこか得意げな顔をしている気がした。 背表紙に綴られた分類番号順に、本を棚に戻してゆく。柔らかな紙の匂いのするその静かな空間を私はとても愛している。 「邑崎さん、本の片づけは終わったかい?」 本棚の陰から初老の男性が顔を出した。 館長の馬籠(まごめ)だ。 首の詰まった年期もののシャツの上にボルドー色のニットベストを着た館長は、丸いレンズの老眼鏡を首に下げている。白髪の中にやや黒い髪が混じる館長の目元にはたおやかな皺が刻まれている。それはゆっくりと時間を掛けて刻まれた、彼の人柄を象徴する優しい皺だ。
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