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卯月は甘ったるくて苦手
卯月はどこか甘ったるくて苦手。
柔らかな春風がダイニングテーブルに置きっぱなしの本の頁をめくった。家の前の通りに植えられた街路樹の桜が、その風に運ばれてひらひらと部屋の中に舞い込んでくる。
薄紅色の花弁は今年も儚げな哀愁を纏っている。
空は美しいコバルトブルーに、水で薄めたアイボリーの油絵の具を薄っすらと伸ばしたような模様をしていた。
麗らかな春は優しくて悲しい。
ふと、意味もなく泣き出したくなるくらいに。
「今日の晩飯なに?」
私に尋ねてくる優しい声。
それは春に似た柔らかさを帯びている。
「何にしようかな?」
「買い物行く?必要なら車出すけど」
「昨日がポイント五倍デーだったから食材は色々買い込んであるの」
「さすが抜け目ない」
くすくすと笑う目の前のその人は、猫っ毛の黒髪にまだ寝癖を付けている。黒い縁の大きな眼鏡は、仕事に行く時は外されるけど、家にいる間はずっと彼の相棒だ。
彼の名前は、邑崎理一。
普段は普通のサラリーマンをしている。
普段はもなにも、休日だって普通の人だけれど。
縁眼鏡の奥の薄茶色の瞳を細めて笑う理一は、部屋着のトレーナー姿でマグに注がれたコーヒーを啜っている。
「春だからね、菜の花が売ってたよ」
「それは春だな」
「嬉しくなって思わず買ってしまいました」
「なら今日は菜の花料理?」
「だね」
テーブルの前に座っていた私はのんびりと立ち上がり、キッチンに向かう。冷蔵庫の扉を開けて中身を探った。
「あ、そろそろ冷凍の帆立も使っちゃわないと」
「ふるさと納税のやつ?」
「そうなの、菜の花と帆立か…」
「合う?」
「バター醤油にしようか」
私の提案に、理一がにこりとする。
「菜々が言うなら間違いないな」
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