文月は海に呑まれて沈む

3/8
前へ
/127ページ
次へ
背の低い防波堤を無理やりよじ登って乗り越え、砂浜に降りる。ローファーと紺色のハイソックスを脱いだ菜々の制服の裾が風に翻る。俺はそれにハラハラしながら周囲を見回して、誰の姿もないことに安堵した。 都内にあるそれなりに名の通った進学校の制服を着た俺と、地元にある公立中学の白いセーラー服を着ていた菜々。その姿は誰の目にも仲睦まじい兄妹に見えていたことだろう。 だがその当時の俺の心に、妹を慈しむ感情など露ほども存在していなかった。そしてそれは傷だらけの菜々と出会った瞬間から、今に至るまで変わることはない。 まだ無垢で清廉だった頃の景色だ。 思い返すたびに重い鉛が胸に落ちてくるだけだと知っているのに、何故人は幸福の中にあった記憶を手放すことが出来ないのだろう。そんなものは涅色の日常を心穏やかに過ごすことの妨げにしかならないのに。 あの頃はまだ本当にただの兄妹だった。 道を逸れてしまうよりも前の、最も美しい記憶。 都合よくそんなものばかり回顧したところで、八方塞がりな今のこの現実から逃避できるわけもないのに、俺は相変わらず愚かだ。 「理一?」 菜々の声に耽っていた思考を打ち切る。 うん?と首をかしげてそれに応えると、視界の端で菜々の着ているワンピースの裾が膨らむのが見えた。白く細い脚が多少見え隠れしたところでもう俺は慌てない。 まだ子供だったあの頃の純情さはもう掴めないほどに遠い場所にある。俺は自分の羽織っていた紺色のシャツを脱いで菜々に手渡した。
/127ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1174人が本棚に入れています
本棚に追加