文月は海に呑まれて沈む

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「腰に巻けよ、パンツ見えるぞ」 「膝丈なんだから大丈夫だよ」 「ハラハラして俺の心臓に悪い」 「はいはいお兄ちゃん」 相変わらず過保護ね、と俺の差し出したシャツ受け取った菜々がそれを腰に巻く。中に着ていた白のTシャツ一枚になった俺は、太陽の日差しにじりじりと肌を焼かれる気がして眉を顰めた。日に焼けて肌が焦げるのは別に構わないが、その後にヒリヒリと皮膚が痛むのが嫌だ。 「菜々、今年もまた瘦せた?」 「まだ夏始まったばっかりで痩せないよ」 「お前は元々薄っぺらいんだから痩せるなよ」 「だって夏バテするんだもん」 夏の暑さが加速するに連れて、それに反比例するように菜々の食欲は毎年落ちてゆく。最早夏の恒例行事になりつつあるその現象に毎年俺が気を揉むのも同じだ。しかもそんな時期に限って俺は、九月の上半期決算に向けて毎年忙しい。 「ほんとに過保護なんだから、理一は」 隣を歩く菜々がくすくすと笑う。 ミュールの中に侵入してくる砂を降り除くように軽く足を蹴り上げて、空中でふらふらと爪先を揺らしている。だから足上げるなって、と内心で思いながら、周囲に他の人の目がないこともわかっているので、またその行動を咎めようとした口を噤んだ。 ぬるい風に菜々の髪がふわりと舞う。 気付けばずっと長い気がするその髪は、先の方にゆるく癖がついている。 その髪に指を絡めて遊ぶのが好きだった。けれどその髪の感触と同時に、指先に別の甘やかな感触まで甦ってしまいそうで、俺は慌ててかぶりを振って邪念を払う。もう二度とそんな風に菜々に触れることはないのだから、思い出すだけ胸の奥に空虚が転がる。 あの部屋の中に菜々を閉じ込めたのは、他でもない俺自身なのだ。 そんな俺が幸福を望むのは、 あまりに身の丈に合わない過ぎた願いだ。
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