葉月に線香花火を焚いて

3/7
前へ
/127ページ
次へ
「菜々は髭生えないからいいな」 「その代わりにスキンケアは面倒だし髪乾かすのは大変だし化粧はしなくちゃだしで色々女も大変なんだよ?」 「黙って髭剃るわ」 「そうして」 ここでの精算を済ませてから一階の食料品フロアに降りた私たちは、そこでもまたカートを押しながら店内を物色する。食品はそれほど買いだめしておく必要もないので、この今日と明日のうちに必要な分だけカゴの中に入れる。 確か冷蔵庫の中に鶏のモモ肉が残っていたはずだから使い切ってしまいたいのだけど、夏野菜と一緒にトマト煮にでもしようか。 「トマト缶あったかな」 「一応買っとけば?日持ちするんだし」 「そうだね、明日は自由に選べるけど何か食べたいものとかリクエストある?」 「煮魚とか食いたい」 冷房が効きすぎている生鮮コーナーの棚を眺めている理一の髪が冷たい風にふわふわと揺られる。その髪に指を通して遊ぶことがどれだけ幸せなことだったかを私は未だに忘れられずに、ふとした拍子にこうして記憶をまさぐっては、馬鹿みたいに傷を増やしている。 まるで浅はかな自傷行為のようだ。それでもこの記憶を手放すことを、心が頑なに拒んでいる。 この先私たちはもう何者にもなることが出来ないのに。たとえどん詰まりの部屋の向こう側に見える景色が美しくなかったとしても、私は理一の腕の中に埋もれて死にたい。 「鯛の煮付けもありだよな」 鯛の鱗は赤が美しい。振り返った理一は視線を下げて私をその薄茶色をした瞳に映した。首肯を返せば口元を笑みの形にした理一がカートにパックを入れる。他にも必要なものだけカートの中に詰め込んだ私たちは、レジに並ぼうとして、ふと脚を止めた。
/127ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1175人が本棚に入れています
本棚に追加