葉月に線香花火を焚いて

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「…花火だ」 自動レジの前の棚に手持ち花火が売られていた。ぽつんと落とした私の呟きに、理一は僅かに首を傾げた。 「欲しいの?」 「え、あ、ううん、なんとなく目についただけ」 「懐かしいよな、手持ち花火」 「昔うちの庭でやったよね」 「マンションじゃさすがに無理だもんな」 私と理一が子供の頃に住んでいた家には小さいけれど美しい庭があった。手入れの行き届いたその庭には、季節ごとにさまざまな花が咲いた。向日葵が太陽に焦がれる夏になると、そこで花火もしたし、家庭用のプールにも入った。 仲よく遊ぶ私たち兄妹を父と母が優しい眼差しで見守ってくれていた。どこまでも幸せな風景。満ち足りた家族の形。痛みばかりだった過去の記憶とはかけ離れた幸福に感謝してもしきれなかった。 けれどその幸福な風景は指の隙間から水がこぼれ落ちるように瓦解した。誰が悪かったのかなんて考えるまでもなく、与えられた善意に背を向けたのは私だ。あの昏い部屋に理一を閉じ込めて、未だに何も手放さずにいる私の強欲が、柔らかに光輝く幸福を切り裂いた。 「菜々」 理一の優しい手が頭に乗った。それに下手くそな笑みを向ければ、カートを押した理一が棚の前で身を屈め、薄く小さな袋を取り上げた。 「線香花火ならベランダでも出来るだろ」 「…え、でも」 「送り火にちょうどいい」 明日は八月十六日だった。 お盆の数日間だけこちら側の世界に降りてきていた魂を、再び向こう側の世界に送り出すための日。その道中の無事を祈り、道に迷わないようにと明かりを灯す。古くからあるその風習は、時代が変わるごとに少しずつ蔑ろにされるようになり、淘汰されている。 「俺らのとこには来てくれないだろうけど、灯りが多くて困ることはないだろ」 そう言って理一は線香花火をカートに入れた。
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