長月を巡る伽藍堂な追憶

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終わりかけた春休みの夕方だった。 田舎町にある実家の近くには小さな神社があった。 ほとんど人の気配のないその境内の奥にぽつんと置かれた小さな木のベンチは私の特等席で、そこに腰掛けて、図書館で借りた本を何冊も読んだ。読む本が絵本から児童文学、そして一般書へと変わった今でもその習慣は変わらない。 暮れなずむ境内の様子をそのベンチからは見渡すことが出来た。赤く染まるその景色は時折ぞっとするほどに美しく、本を持つ手が震えた。けれどこの震えは今日だけのものだ。私が今恐れているのはこの美し過ぎる夕暮れの景色じゃない。このあとに訪れるだろう濃紺の夜と、それを越えたあとの白く清廉な朝日だ。 『菜々』 真っ赤な景色の中にグレーのパーカーと紺色のスウェットパンツを履いた理一が現れる。お迎えの時間だ。きっともうすぐ母が食卓にご馳走を振る舞ってくれる。それを私は上手に笑って口に運ぶことが出来るだろうか。 『そろそろ飯の時間だって、母さんが』 『…わかった』 今日は一頁も読み進めることの出来なかった文庫本の間にしおりを挟んだ。ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」が私の手の中で泣いている。夕日を背負った理一がベンチに座る私を見下ろしてから、視線を合わせるように足元にしゃがみ込んだ。 『菜々、何かあった?顔色悪い気がするけど』 『…こんな場所で何もないよ』 『でもお前はいつも泣きたいのを我慢する時に本を読んでるふりをするだろ?』 理一の色素の薄い瞳が夕日を帯びて光っている。 そこには優しい意志が透けていた。 だけど今日の私がこんな風に本を読んで涙を堪えている理由を理一に言ったら、優しい私の義理の兄は、酷く困ってしまうだろう。
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