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理一は明日、この町を出て行ってしまう。
東京なんて私がほとんど脚を踏み入れたこともない土地に行って、新しい世界に染まる日々の中で、可愛らしい恋人や賑やかな友人に囲まれて、地元に残してきた血の繋がらない妹のことなんか簡単に頭の中から消し去ってしまうだろう。
人から忘れられるとは、限りなく死に近い摂理だ。
理一の中の私がもうすぐ死んでしまう。
それが酷く悲しかった。
『菜々…』
何も言えないままに私の瞳からは涙だけがぽろぽろと零れ落ちる。そんな私に理一は驚いた顔さえしない。こんな風に私が突然泣き出して理一に縋ることが今までだって何度もあったからだろう。
不器用な手が私の涙を拭う。理一の手はもう幼い時の柔らかな男の子の手なんかじゃなかった。繊細そうではあるけれど、私の手よりも一回り以上も大きく、節くれていて少し皮膚の硬い男の人の手。なのにその優しい温もりだけが変わらなくて、余計に涙を誘う。
『どうしたんだよ、菜々?』
私を呼ぶ理一の声が好きだった。
口調は少しぶっきら棒なのに、どこか丸くおっとりした響きのおかげで耳馴染みの良い理一の声。それを心細い夜の隙間に何度反芻しただろう。私にとって理一が兄だったことなんて本当はただの一度もない。
出会った瞬間から、ずっと。
私にとって理一はただひたすらに特別だった。
『…そんな風に泣かれると、期待するだろ』
困ったように眉尻を下げた理一が私の泣き顔を覗き込んでそんなことを言う。
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