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「久美子、当直やった?」 「違う。サービス残業中」  美穂の大きな目が、さらに大きくなる。くるりと黒い瞳を一回転させ、呆れたように頬を膨らませる。それらの仕草が、何とも幼い感じだった。 「さあ、行きましょ」  久美子は言った。美穂はひとつ息をついてから、ギアをドライブに入れてアクセルを踏み込む。久美子がサイレンと赤色灯のスイッチを入れた。その可愛らしい顔立ちに似合わず、美穂の運転は華麗でスピーディだ。 《広域三○五より本部!》 先に現場に到着したらしい、機動警ら隊のパトカーからだ。機動警ら隊は各所轄の管区境界を埋める役割を担い、パトロールによる防犯警戒と事故・事件発生直後の初動捜査を担当する。 《本部です、どうぞ》 《先の八○二の件、どうも轢き逃げじゃないようなんですが》 《広域三○五、詳細送れ》 《腹部からの出血が酷い状態で、外傷を見る限り、どうも切り傷のようです。轢き逃げじゃ、こんな怪我にはならないと思うんですが。とにかく、救急が来たので、搬送してもらいます》 《本部了解。引き続き、現場保全に務めよ。付近の機捜は、現場に向かってください。七条北、現着までどれくらいですか、どうぞ》 「こちら七条北八号、状況了解。こちらは現場まであと一分です」  久美子は応答しながら考える。切り傷? どういうことだ。轢き逃げではないとすれば傷害事件、あるいは殺人未遂事件。交通事案ではなく、強行事件だとすれば刑事課、それも自分の担当になる。こんな日に限ってと久美子は思わず唇を噛み、隣の美穂も表情が翳っていた。  緊急車両通過――! 久美子はスピーカーマイクに向かって叫んで、交通の流れを遮断する。その合間を縫うようにパトカーは走る。現場はともに片側一車線の花屋町通と西洞院通の交差点。現場に到着したとき、ちょうど、救急隊員が被害者の身体を持ち上げて、架に乗せているところだった。久美子はパトカーを降りて担架に駆け寄ると、男の意識レベルを速やかに確認した救急隊員によって、男の顔に酸素マスクが装着された。意識はなく、浅い呼吸を繰り返している。二十代後半、身長は一七五センチ程度。スポーツでもやっているのか、がっちりした体格。目鼻立ちの整った、優しげな顔立ち。久美子はざっと見た印象を手帳に書き付けて、男が倒れていたという横断歩道に向かった。 「見て」と美穂が言った。「これ、交通事故じゃないわ」  確かに。横断歩道の白い部分が鮮血で染まり、その出血の度合いはどう見ても、車に轢かれたという類のものではなかった。久美子は先に現場に到着していた広域三○五の若い機動警ら隊員を手招きして、指示を飛ばす。 「七北の社です。本署に連絡して、鑑識の臨場要請お願いします。あと、本部にも一報入れて、強行事案に切り替えてください」  隊員はパトカーに戻り、無線を手にする。久美子はその間に自分の携帯から、刑事課長にかけた。 「お疲れ様です、社です」 《なんや、こんな時間に》  刑事課長、久保田義治は不機嫌な声で言ったが、二回の呼び出し音で電話に出るあたり、さすがは現場一筋の叩き上げ。いつ呼び出しがあるか解らない刑事の生活が身に染み付いている、ベテランらしい反応だった。 「十分ほど前に轢き逃げ容疑の通報があったんで臨場したんですが、どうも傷害事件のようなんです」
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