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「だって、記念日なんですよ! それを忘れるなんて、酷すぎ! せっかくの初旅行なのに――」 「記念日だから、カレ、京都旅行の日程を組んだんじゃないの?」 「違う! あの人、忘れてたの。旅行の日と記念日が一緒なのは偶然だったの。こっちはその気だったのに。だから怒ってるんじゃん」 「でも、戻らないと心配してるわよ。もう、時間も遅いし。カレ、ホテルで待ってるんでしょ?」 「迎えに来るまで帰らない!」 「じゃあ、連絡だけでもしたら?」 「どうして? 向こうが連絡してくるまで、絶対にこっちからは連絡しない!」  室内は充分すぎるほど冷房がきいているというのに、マスクのずれた彼女の顔は発熱して紅潮しており、遠赤外線のようにその熱がこちらまで伝わってくるようだった。目の周りは涙でマスカラが溶け出して黒く染まっていて、ほとんどでき損ないのパンダだった。その彼女と事務机を挟んで向かい合う(やしろ)久美子(くみこ)は、椅子の背もたれにかかっていた誰かの上着を勝手に羽織った。一五八センチの小柄な体躯には大きすぎるが、わがままは言っていられない。とにかく冷房がききすぎていて、長袖のブラウスを着ているというのに寒くてしかたなかったのだった。八月初旬に、どうしてこんな寒さを体感しなければならないの。  十九歳だという目の前の彼女は、一年ほど付き合っているカレシとの初めての旅行で、よりによって初めての大喧嘩をしたという。お互い大学一年生というから、高校を卒業していろいろな制限から解放され、やっと二人きりで旅行するところまで漕ぎ着けたのだろう。そのワクワクと高揚した気持ちがストレートに表現されているような、気合の入ったメイクとファッションだったが、しかしこうして交番なんかで泣いていては台無しだ。制約からの解放は、同時にさまざまな責任が伴ってくるものだが、それに気づくにはまだもう少し時間がかかりそうな様相の少女だった。  それにしても記念日を連呼するものだから、てっきり付き合い始めた日なのかと思っていたのだが、よくよく尋ねてみると初デート記念日だという。彼女が開いて見せてくれたスケジュール帳にはびっしり「初プレゼント」だとか「初海」だとか「初キス」だとか多種多様な記念日が書き込まれており、これはさすがに覚えられないと内心苦笑したのだった。思い出をこういうふうにしか残せないのは、自分とカレとの関係への不安の裏返しなのかもしれなかった。  ふてくされる少女にどういう顔を見せるか一瞬迷い、決めあぐねた久美子は、奥のデスクでパソコンに向かっている横山主任に眼をやった。聞こえてくる会話の内容にうんざりしたらしい、脱力した視線とぶつかる。五十代のベテラン警察官は、若い子とはすべての波長が合わないというふうに、すっと目線を逸らせていく。否、若い女の子が京都駅前交番に来所、泣いているから女性警察官の応援がほしいと署に一報を入れた結果がこれでは、申し訳が立たないといったところか。それとも、もう三十分以上も少女の身勝手に付き合っている、暇な三十二歳独身の刑事に対する侮蔑か。いずれにせよ、こんなことは警察官の仕事ではない、という思いが全身から発せられていた。  警察官の仕事ではない、か。では、警察官の仕事とはなんだ? 久美子は凝り固まってきた首をぐるりと回し、脱線しそうな思考に歯止めをかける。警察官の職務の範疇も、先輩警官の視線も関係ない。今、自分がやるべきことは、どういう事情であれ、目の前の彼女と向き合うことだ。  彼女のスマホから人気アーティストのヒット曲が流れ出し、震えた。連動してストラップの熊のぬいぐるみが振るえ、驚いた彼女もびくりと震えた。
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