第一章

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 丸一日机に向かい、魂を削って描いたネームも、一瞬でボツにされる。その上、漫画だけでなく多方面に知識豊富な担当編集に、あれを題材にしろ、こんな主人公にしろと指示され、やっとデビュー作のネームが完成した時には、それが俺の作品なのか、編集の作品なのか分からないといった具合だった。  しかしそのデビュー作も、同時期に大御所の漫画家が発表する作品と世界観が似ているとかいう大人の事情により、あっけなくお蔵入りになった。  落ち込む俺を、当時の担当の高原さんが出版社に呼び出したのは今から二年前のことだ。 「答えたくなかったら答えなくていいんだけどさ……」  青年誌『週刊ゲゼルシャフト』の編集部で、彼は濃いひげを撫でながら俺に視線を投げた。 「違ったらごめんね。もしかして、川野君ってゲイだったりする?」  さすが、できる編集者は洞察力が違う、と感心してしまった記憶がある。  確かに俺は昔から、男にしか興味がない、いわゆるゲイであることに間違いはない。  否定できずに固まっていると、彼の口から想像もしていなかった言葉が飛び出した。 「あのさ、いっそ女性向けの同性愛漫画とか描いてみない? いわゆるBLってヤツ。俺は担当から外れちゃうんだけど、第四編集部に優秀な同期がいるから紹介できるし……」  これから一生、青年漫画を描いていくんだと覚悟を決めたばかりの俺にとって、その提案はまさに目から鱗だった。 「えっ、び、BLですか」 「川野君の線って繊細だし、展開の派手さより人物の心情に寄ってる。特に恋愛絡みの描写を見てると、どんどん少女漫画の方が向いてる気がしてきてさ。それに、当事者がファンタジーとして描くBLって、斬新だと思うんだよね……ま、考えてみてよ」 じんわりと、頭をフライパンで叩かれたことに気づいたような衝撃が襲った。  全体的に失礼としか言いようのない彼の言葉を「このまま青年漫画を描いてもデビューできない」という宣告に受け取ったのは、俺がネガティブすぎるからではないだろう。  でも会社員時代の地獄に舞い戻ることを考えると、それだけで胃液が込み上げそうになる。ならば食らいついて、漫画を生業にするしかない。俺の中に、断るという選択肢は存在していなかった。  そこで紹介されたのが、現在の担当の仲村さんだ。彼女にBLのいろはを叩きこまれて半年後、俺は「BL漫画家・榊木夏生」として、異例のデビューを果たしたのである。  そしてありがたいことに現在に至るまで何とか漫画一本で食べていくことができている。 それはきっと「当事者が描くBL」が好評だったわけではなく、俺の激甘な妄想をそのまま描いたような作風に、物好きな固定ファンがついたからだろう。  だけど俺のプライベートはというと、ちゃんとした恋人はもう六年近くできていないし、あっちの方も同じくらいの年数ご無沙汰だ。  脳内とPCのフォルダには、エロくてラブラブな妄想が死ぬほど詰まってるというのに。そろそろ俺の理想のダーリンが次元を飛び越えて、会いに来てもいい頃なんだけどな……。  ふと天を仰ぐと、二十七歳にしてシンデレラ症候群をこじらせた男を、あの安いキャッチコピーが嘲笑っているような気がした。
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