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「いやぁ、助かったわ! ほらうち誰も車運転できないでしょ。おむつとか買うの大変で。持つべきは自由業の兄に限るわ~」
こっちも免許なんて持ってないんだけど。容易く俺を便利屋扱いする妹に、恨み言の一つも言いたくなる。
「俺だって暇じゃないんだからな。新作のネームも全然できてないし……」
「なになに? 榊木先生、スランプでちゅか~。潤いが足りてないんでちゅかね~」
生後二か月の心春にアフレコするように春花が声音を変える。兄妹喧嘩のノリでギロリと睨みつけると、心春がふぎゃふぎゃとぐずり始めた。
しまった。また泣かせた。誰にも愛されないこの人生、天使みたいな心春にまで蔑まれたら、いよいよ生きていけない。
「あ~あ、怖いね~。心春はBL漫画家にだけはなっちゃダメよ~。あれは読むものであって描くものじゃないの」
「それだけは激しく同意する」
田舎の両親は、俺がBL漫画を描いていることは全く知らないが(知られたら国外逃亡を図るレベル)春花には、紆余曲折があり、俺がゲイであることも含め、全てバレている。
落ち着いた心春をベビーベッドに寝かせると、春花はタンスの中から何かを取り出して俺の前に置いた。
「これ、今日のお礼に貸したげる」
「それはどうも。でもそれよりお茶が飲みたいな」
無言で冷蔵庫に顎を向けられる。やれやれ、セルフサービスってわけですか。
「私も妊娠出産でしばらくこういうのからは離れてたんだけどさ、絶対おにいも気に入ると思うの」
「何なのそれ」
タンスから出てきたところを見るに、夫には内緒の代物みたいだけど。
「耳責めボイス」
「みみせめ……?」
「旦那、極上のスパダリですぜ……」
「……マジかよ」
自分で注いだ麦茶を飲み干してCDに飛びつく。紫色のパッケージに、シックなスーツのイケメンのイラスト。その上には『耳の恋人シリーズ~スパダリ編~』とあった。
スパダリ。その四文字だけで食指が動いてしまう。何と言っても俺は、三度の飯よりスパダリが好き。って何かいいな、今の語感。次の新作のタイトルに使えるかもしれない。
それはともかく。俺がまだBL処女だった頃、勉強しろと仲村さんに貸し付けられた漫画の中で、唯一ずどんと琴線に触れたのが「スパダリ」と呼ばれる容姿端麗、頭脳明晰で富も名声も手にした男が登場する作品達だった。
まさにタイプどストライクだった。だがスパダリを描くと告げた時の、仲村さんのくぐもった表情は今も忘れられない。
今時王道のスパダリはあまり見かけないからだったのだろうけれど、それがウケてそこそこ売れてるんだから結果はオーライだ。
「あ、刺激強いから外で聞かないように」
忠告はありがたいけど、どこの世界に実の妹から借りた刺激の強いCDを外で聞く兄貴がいるんだよ。
「もう、超キュンキュンするの! あきしゃまの低音ボイス最高すぎるから、ぜひぜひ次回作の参考に……」
「あきしゃま?」
「ウソでしょ、知らないの? スパダリの帝王・丹羽瑛だよ。ほら、『トリガーナイトストーリー』でラスボスの声やってた」
こういう時、春花は決まって早口になる。
「あー、聞けば分かるかも」
から返事をしながらCDの裏面を読む。
『耳の恋人が、貴女を天国に導きます――CV王尾白虎』
宗教かってくらい大げさな煽り文だな。それに、さっき聞いた名前と違うような……。
そう思った時、ベッドの上の心春がまた頼りなげな泣き声を上げ始めた。親と親戚のスパダリ談議がよっぽど耳障りだったのだろう。
「よしよし、どちたどちた。家に知らないおじさんいて嫌だねぇ」
「悪かったな。これでもあんたらの肉親だよ。てかさ、これの声優、王尾白虎? って書いてあるけど」
「それは裏名義。エロいやつなんだから、いつもの名前では出せないでしょ。あー、おむつでちゅねー……てかおにい、そんなことも知らないで、ほんとに腐男子なわけ?」
俺は腐男子ではなく、ゲイのBL漫画家だ、と訂正したかったが、素早く母親の顔に切り替わった妹の耳には届かなさそうだ。
まだ泣くことしかできない心春を眺めながら、エロいCDを隠し持つ母と、BL漫画家の伯父を持つこの子は一体どんな成長を遂げるのか、と一抹のお節介が頭をよぎった。
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