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むっとした空気のこもる自分の部屋に戻ると、すぐに冷房をつけて仕事用のデスクに向かう。最初にソファに腰を下ろしてしまうと二度と動けなくなることが立証済みだからだ。
漫画家としての活動に本腰を入れるためと揃えたPCと液晶タブレットを前に、今日こそちゃんとネームにとりかかる決意をする。その前にとりあえず、とSNSを開き、はっと気づくと一時間が経っていた。
「ダメだぁ、ぜんっぜん浮かばん」
声に出してみると、改めて自分の置かれた状況の惨憺さが身に染みる。
でもどうしたって浮かばない次回作。次回作といえば今日……。
『ぜひぜひ次回作の参考に……』
春花のわざとらしい声が蘇り、借りたCDの存在を思い出す。藁にも縋るとはまさにこのこと。鞄から発掘したCDのカバー画は艶めかしく、過激な内容を語っているようだ。
怪しげなフォントが並ぶケースから円盤を取り出してPCに呑み込ませると、収納したデッキが喘ぐように鳴った。
さては機械の分際で俺より先に楽しむつもりだな。俺だってスパダリに挿入されたいぞ。
「ヘッドフォンでお楽しみください」という注意書きを律義に守って両耳をクッションに包ませ、おっかなびっくり再生ボタンをクリックすると、音声が流れ始めた。
『シチュエーションCD『耳の恋人シリーズ~スパダリ編~』出演、王尾白虎』
ただタイトルを読み上げられただけなのに、一瞬で睫毛から爪の先まで動かすことができなくなる。もしメデューサの眼光を浴びたら、こんな風になるのだろうか。
でも、その声に激しさや棘といったものはない。もし、声に味があるとするならば、この人の声は「ほろ苦い」がぴったりだと思った。カラメルのコクを帯びた、少しだけまろやかな微糖のコーヒーみたいな声。
渋くて、でも角が取れていて、少しだけ粘着質なのに余韻は爽やか。まさに、声優になるために生まれてきたと言っても過言ではない、天性の才能を感じた。
俺は息を殺して、次の言葉を待ちわびる。
そんな俺を焦らすように、ヘッドフォンからは靴音と衣擦れの音が静かに伝わってくる。その反響で、どうやら狭い空間で収録されたらしいということが分かった。すると右の方から、誰かが回り込んでくる気配がする。
あの声の主に、何を言われるんだろう……。
そんな強い期待で研ぎ澄ました聴覚を次に支配したのは、声ではなく吐息だった。
はぁ……っと腹の底から絞り出されるようなその音声に、今度は全身の力を奪われる。
蕩かされて、骨までデロデロの肉になってしまいそうだ。瞼を下ろして見慣れた景色を遮断すると、もう完全にスパダリと二人で狭くて暗い部屋にいる気分になった。
ふっと息の音がするだけで、右耳に温かい息吹が当たったみたいに肩をすくめてしまう。そこに追い打ちをかけるように、密やかなくちづけが重なってきた。
初めはついばむようだった優しいキスが、段々と湿りを帯びて、耳殻の中を掠めていく。その過程の緩慢さがこそばゆくて、俺は堪らず呻き声を漏らしていた。
「んっ……」
ヘッドフォンの中に収められているはずの耳が、ざらざらとした舌に撫でられた感触が確かにした。
立体音響に過敏に反応してしまったのは耳だけではない。両脚の付け根にある興奮のバロメーターも、確かに漲り始めている。
その時、びりりとうすい膜が波打つような低い声が、小さく、だがはっきり鳴った。
『あなたは本当にいやらしい人ですね……もうここをこんなにして』
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