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第一章
『誰もが、人生の主役だ』
冷房のきいた車内でぼうっとしていると、あまりに陳腐なコピーが目に飛び込んできた。保険会社か何かの広告だろうか。
誰もが主役って、俺の今までの人生を見ても同じことが言えるか? と、顔も名前も知らないコピーライターにケチをつけたくなる。
例えば学生時代、イケてる主人公が体育の授業で手を差し伸べてやる運動音痴の邪魔者。それが俺。(実際はそれによってさらに目立つから無視される方がよっぽどマシ)
主人公の好きな女子が「えー、絵上手じゃん! 漫画家になりなよ〜」と声をかけてやるオタク。それも俺。(これより無責任な言葉を俺は知らない)
俺・川野夏生は生まれてこの方、脇役以下の激ダサモブ人生を送ってきた。
今日だって、外出が久しぶりすぎて回送列車に乗り込み、一人恥をかいた。おまけにお徳用のおむつパックを両脇に抱えているせいで、乗客からの視線を感じて居心地が悪い。
一生子供を持たないであろうことがほぼ確定している俺にとって、通りすがりの人に「頑張ってる若いパパ」的なレッテルを貼られるのは、この上なく不快だというのに。
くそぉ、春花のやつ。何でわざわざ遠路はるばる来てやってる兄貴に、こんな荷物買って来させるかな。
まったく、母親になってから人使いの荒さに拍車がかかったみたいだ。
早く着かねえかな、とやり場のない不満をあくびと一緒にかみ殺していると、鞄の中で端末が短く震えた。画面を開くと、「榊󠄀木先生、ネームの進捗はいかがですか」とある。文面を見た瞬間、仲村さんのオタク女子特有のこもった声が脳内再生された。
何でサボってるのバレてんの。怖すぎて、編集者は作家に黙ってGPSをつけてもいい、的な許可が国から下りてるとかないよな? と非現実的な妄想に囚われそうになる。
まだ駆け出しのペーペーだが、今の俺の肩書きは一応「漫画家」だ。弁明しておくと、これは中学時代の陽キャ女子の助言を真に受けたわけでは決してない。
そもそも俺は、大学卒業後はモブキャラらしく、平凡な生活を送るつもりだった。
そう、就活とか、ブラック企業とかいう魔のシステムに身を滅ぼされるまでは。
大学四年まで、いかに身を潜めて生きるかしか考えて来なかった俺に自己PRもガクチカもあるはずがなく、ちょっと絵が上手い以外に取り柄のない俺は、就活という戦場であっけなく打ちのめされた。
同級生がハワイで羽を伸ばしている時期までスーツを着て企業を回り、百社目でようやく某不動産会社の内定を手にするも、四月一日の入社式から、俺は地獄を体験することになる。
その会社には、定時や福利厚生という概念どころか人権という概念すらないようだった。
しかし研修により洗脳された俺は、ここで辞めたら堪え性がないと思われる、仕事なんてキツイことしかない、と自分に言い聞かせて馬車馬のように働いた。
そのうち頬はやつれ、心は霞んでいき、何を見ても何も感じなくなった頃、気づいた時には病院のベッドにいた。
このままでは命が危ないと感じ、次の就職先のあてもないまま退職。そして暇を持て余した自宅療養期間中に始めたのが、学生時代に描いていた漫画の続きを描くことだった。
その時の俺にとって、特に誰も完成を待っていない漫画を描き上げることだけが、生きる意味と目標になった。
そして完成した作品を青年漫画誌の新人賞に応募してみたところ、みごと一発で佳作を受賞して編集部から連絡が来た。
自分の少ない人生経験を全部乗せした作品だっただけに自信作ではあったものの、まさかデビューだの担当編集だのという話に繋がるとは思っていなくて、ひたすら驚いたのを覚えている。
しかし、やっとたどり着いたと思ったハッピーエンドは、本当の悪夢の始まりだった。
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