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暫く、二人で取り留めのない話をしていた。
彼と私は本当に色々と境遇が違っていた。
私は、亡き母のことを思う。
「みのりちゃん、いい子にして、パパと楽しく暮らすのよ。ママはもう一緒にはいられないけど、ママは大丈夫だからね。パパとずっと仲良しでいるのよ。ママはいつでも見てるからね。何があっても二人で協力すれば、大丈夫だからね。」
涙は出なかった。
病に冒された母の体は病院のベッドの上で亡くなった。
父はずっと母の手を握りしめ、泣いていた。
私は、病室の入口に立ってただじっとその光景を眺めていた。
不思議と、何の感情も芽生えなかった。
五歳の時の記憶だ。
「あ、ごめん。そろそろ帰らないと。お父さんも帰ってくるし。」
ザァアアーーー……と、波と風の交じった音が、いつになく鮮明だ。
「うん、わかったよ。帰ろうか。みのり、今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかった。」
彼が堤防で立ち上がり、私の方を向く。
堤防のすぐ横は少し広い道路になっている。
車通りはほとんどなく、いつも静かな場所だ。
波音だけが響く。
私は堤防から離れ、彼を振り返る。
「私も楽しかったよ。こちらこそ、ありがとう。」
「みのり!!危ない!!!!」
向き直った彼の顔は血の気がなく、青ざめていた。
直後、私の身体は重い衝撃を受け、地面に叩きつけられる。
「みのり!!みのり!!!」
彼が私を呼んでいる。返事をしたくても声が出せない。
微笑むだけで精一杯だ。
「救急車!!救急車をはやく!!おおお…なんて事じゃ。お嬢ちゃん!!しっかりするんじゃ!!」
白い軽トラックの前面が、真っ赤に染まっている。
運転していたらしい老夫婦の慌てふためく様子が、脳裏に浮かぶ。
実際には視点は固定され、目に映っているのは車と地面に付着した大量の自分のものらしい血液だけ。
周りに人が集まり、騒がしくなる周囲とは裏腹に、私の頭は冷静だった。
(最後のお別れすら、言えなかった。お父さん、悲しむだろうな。……この先一人で、大丈夫かな。彼のこと、責めたりしなければいいけど……)
父に別れを告げられないことだけが、この時の私にとっては唯一の心残りだった。
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