Credulity エブリスタ版

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 ツケが回る。  悪いことや無理なことを通した報いを、後から受けるという意味だったはず。自業自得とか、身から出た錆とか、似た表現も幾つかある。  確かに、報いは受けそうである。罪を犯したら捕まりそうだし、水を断てば死にそうだし、人を拒めば、人が寄らなくなるのだろう。  ところで、その行為と"ツケ"にはどれぐらいの関連性があるのだろうか。例えば、立ちションしたからといって自分の敷地に立ちションされる訳ではないし、尿自体が出来なくなることもない。急病とか不慮の事故とか、果たして何のツケなのか分からないものもある。  宗教によっては、前世とか親族とかに理由付けしたりする。ツケが回ることを信仰するならば、内容や時期に関しての問題がどうしてもつきまとう。  だから、便利な概念なのだ。ツケは、疑わない限り、無理やり何かを説明できた。     「これ、お兄さんの絵ですか?そんなことないのは分かってますけど、とっても上手ですね」   「しょうらいのゆめ」の欄に描かれた、野球選手。僕の画力から想像するに、保育士の誰かの絵なのだろう。   「この絵、右バッターじゃん。僕は左利きであることに誇りを持って生きてきたんだ。こんな背信行為する訳ない」   「なるほど、私が両利きを自慢にしているのと同じようなものですね」   「...なるほど」  人は多様な生き物である。特殊さで争おうとするのは、間違いなのかもしれない。  大学生になると同時にひとり暮らしを始めて、最初の夏休み。部屋の掃除をしていると、棚から変わった紙が出てきた。  保育園児の頃、誕生日会の日に貰ったカードだった。どうやら、家を出るときの荷物に紛れ込んだようだ。  こういう類いのものは大体ゴミ箱行きなのだが、捨てることすら忘れ去られていたのだろう。かなりボロボロで、文字もところどころ消えている。  何となく、手に取った。あれほどぞんざいに扱ってきた分、かえって興味が湧いたのかもしれない。   「でも、野球選手ですか。お兄さん、いつまで野球してたんですか?」  なんて、そんな疑問が浮かんでもおかしくない。他人から見れば、少なくとも今はスポーツをしてるようには思えないだろう。   「野球なんてしたことないぞ」   「そうなんですか?確かに、ライパチの控えぐらいだろうとは思いましたけど...」   「まぁ、ボール投げたりバット振ったりはした経験はあるけど。自分がチームスポーツを出来ると思うか?」   「知りませんけど、端っこでウロチョロするぐらいは出来るでしょう」   「それはスポーツをやってるって認められるのか?」  野球を観るのは好きだし、人並み以上に知識はあると思う。ボールの握りから球種を当てられるぐらいの理解度はある。   「大体、こういう欄ってスーパーマンとかゲームキャラとか、なれるわけがないやつを書くもんだろ。いや、最近はYouTuberとかなのか?それなら可能性はあるのか...」   「勝手に分析始めないでもらえます?というか、野球選手はまだ"なれる"方なんじゃないですかね」  そうかもしれない。一応、野球選手は現実の仕事だ。スーパーマンのような、仮想の存在を目指してるのではない。  なれる可能性で考えれば、ゼロではない。それは否定出来なかった。   「ない。野球選手も変わらんわ」   「はぁ...それって、実は野球選手になりたくなかったとかですか?」   「んー、まぁなろうとはしなかったな」  軽く上を見上げる。実際、そんな記憶はない。   「お兄さん、そんな昔から嘘ついてたんですね。確かに詐欺師になりそうな見た目してます」   「何だそりゃ」   「なら、本当は何になりたかったんですか?某パンのヒーローになりたかったけど、恥ずかしくて言えなかったとかですか?」  何になりたかったのか。その質問に対する答えは、用意出来なかった。   「何って、そんなの知らんよ」   「昔の将来の夢を聞いてるんですよ?まさかその年で...」   「あのな...考えたことないんだよ。自分が将来なりたいものなんて」    目を擦った。当然、見える景色は変わらないままなのだが。  大学生になれば楽しい。多分、自分はそんな言葉を信じていたのだろう。大学生に具体的なイメージがあった訳ではないが、少なくとも”今”と違う世界のように思っていた。  現実を見れば、課題や予習に追われる日々なのは変わらない。遊びに行く時間や気力はないし、誰かと話すこともない。そして、不安を抱えながら生きるのも、あの頃のまま。    それでも、自分が大きく変わったのは、間違いない。分かりやすく言うなら、長年自分を苦しめてきた、鬱が治ったのだ。  鬱は中学1年から始まり、思春期を跨ぎ、大学受験の直前まで続いた。楽しさや爽快感のある生活と引き換えに、なかなか印象的な日々を送らされることになった。  不幸であり、辛く、醜い人間。当時は、それが自分であるとしか思えなかった。一応、ある程度は未だにその概念に囚われている。でも、今はあの頃の様に、常時辛さに囚われることはなくなった。  良かったかどうかは、別として。 「すきなたべものがみかんってあるけど、そーなの?」 「嫌いじゃないぞ。でも1番食べた果物は林檎だし、正直梨の方が好きだわ」 「りんごとなしをいっしょにならべないでよー。きのことたけのこどっちもすきとかいうみたいじゃん」 「林檎と梨は時期が違うだろ。まず、菓子なんてどっちも好きでいいだろ」    蜜柑は種を出さないといけないのが嫌だった。食べはするが。 「じゃあ、しゅみがうんどうだとか、とくいなことがじゃんけんだとかいうのもうそなの?」 「じゃんけんが得意ってなんだよ。強いのか?」 「おにーちゃんのことだし、あとだしがうまかったんだね!」 「それだけの瞬発力があれば、確かに運動も趣味だっただろうけどな」  テレビゲームを買ってもらったのは小学校に入ってからである。運動をしていてもおかしくはなかった。 「へー。おにーちゃんはみえっぱりなんだね。しかも、これがてーせーされずにつかわれているんだからねー」 「園児本人がいってることなんだから素直に書くだろ。訂正を迫られたら泣いちゃうわ」 「そーいうはなしじゃなくて、てーせーしてくれるおともだちもせんせーもいなかったんだよね?おにーちゃんのにんげんかんけーのきはくさもむかしからなんだねってこと」 「もう少し優しい表現もあるんじゃないか。何でそんな心に刺さる言い方するんだよ」 「はりちりょーってあるでしょ?ささりまくればきっとからだがよくなるよ!」 「そうならイガグリは健康グッズとして重宝されるだろうな」  外を見る。雲一つない晴天で、ただただ眩しい。 「おにーちゃんって、じっさいほいくえんじのころはなにしてたの?」 「仮病で休もうとしたり、なんか言われる度に泣いたりしてた」 「あ、さっきもおもったけど、おにーちゃんってなくの?」 「泣くわ。夜な夜な枕を濡らす日々を送っているぞ」 「それあせだよ。おにーちゃん、いじでもエアコンつかわないからね」 「だって、地球温暖化で人類が滅んだとしたとき、僕は努力したっていう言い訳になるじゃん」 「じゃあ、パソコンつかうのやめればいいーじゃん。だいたい、かんきょーのためになにかしてるの?」 「んー、腕時計は中学生の時買ったものから変えていないぞ」 「それをかぞえちゃうのがもうだめだよ。ほかには?」 「えー...貧民の僕が出来ることはそんなないし」 「おにーちゃんって200びーぴーえむのメトロノームぐらいブレてるよねー」 「何その評価。物理的に表されても困るわ。大槻ケ〇ヂの文章力を見習って頂きたい」 「あたしがいたところでかわらないでしょ、おにーちゃんは」 「そりゃそうだわ」  カードをポケットに突っ込み、ベットに腰掛ける。窓から差し込む日の光が、背中に突き刺さる。  嘘をつかないことは、恐怖だった。    小学校のコミュニティには、愛されキャラなんてポジションはなかった。いじめられるか、いじめられないか、どちらかしか居場所はなかった。  極度の面倒くさがりだった自分は、本当ならいじめられるべき存在であった。実際、保育園の頃はそうだった。しかし、小学校では、"何でもでき真面目であるという印象"が、僕の立場を変えた。  当たり前だが、嘘だった。しっかりテスト勉強をして、それでも高得点をとれない程度の学力だった。途中で伸びた短距離走と習っていた水泳以外、運動は全くできなかった。手先は不器用で、玉結びすら怪しいレベルだった。料理も絵も楽器もダメだった。ちなみに水泳に関しては、5年も習っていたのに、今では泳げなくなっている。  自分が何かに優れていたとしたら、それは恐怖感であったのだろう。入学直後、新しい環境に慣れないうちは、周囲への恐怖の故に、真面目な人間を演じていた。次第に構造が分かっていくにつれて、権力者に良い感じに目を付けられるような努力をした。  同時に、恥ずかしい姿を見せないようにした。何もできないから、あらゆる成績を偽装した。先生の話を誰よりもしっかり聞き、素早く行動した。クラスメートの中では一番、授業や行事に対する準備を行った。友人は出来なかったが、こいつがいる方が正しい、みたいな存在になることができた。  副作用は大きかった。失敗に対する恐怖を尋常でないほど増大させた。自分が優秀でないとバレてしまうことは、当時の僕にとって死と同義だった。何も決められない本当の自分は、僕ではなかった。  それでも、決めることを面倒くさいと思う気持ちは、卒業まで消えることはなかった。 「野球、見に行くか」 「嫌だよ。席からじゃよく分からないじゃん」  昔、家族旅行で2回球場に行った。高校1年の頃応援に連れ出されたこともあった。あまり内容は覚えてないが、どの試合も応援している側が負けた。 「面倒なだけだろ?行けば面白いって」 「知らん人が隣にいるのが無理。テレビで見るのが一番いい」 「兄さんにとって、誰だって知らん人だろ」 「そうだな。講義も受けれないわ」  それでも、趣味はスポーツ観戦だって言ったけど。確か、4か月前ぐらいには。  中学入学時は色々な自己紹介のパターンを用意していたのだが、活かされはしなかった。ここ数年は同じ内容を使いまわしている。 「...なぁ、外に出るぞ」 「どうして」 「そうだな...あれだ。体動かさないとぐっすり寝れないだろ」 「あー。小6の頃はそうだったわ。あの頃はめちゃくちゃ元気だったなぁ」 「兄さんが元気とか、全然想像できないけど」 「いやぁ、間違いなく人生で一番輝いていた時期だった。1年の奴らとかに殴られてたわ」 「いじめられてるときが輝いてたって、どんな神経してるんだよ。もしかしてドM?」 「違うわ。それだけ人気者だったんだよ。いっつもゲラゲラ笑ってたし、常に誰かにいじられてた。多分全校で一番うるさい奴だったぞ」 「兄さんが?誰かの記憶と混同してるだろ。早めに病院に行った方がいいって」 「そうならもう手遅れだろ」  実際、他人の記憶のようなものだった。もしかしたら、ヤバい博士に洗脳させられているのかもしれない。 「まぁ、体の細胞は頻繁に変わるからな。今の兄さんとは別物だったんだろう」 「...内面までは変わらんよ。少なくとも自分は」 「変わっただろ。胃液とか」 「どうして物理的な話にしてるんだよ。会話下手くそか?」 「そりゃ、兄さんしか話し相手がいないからな。流石に上手くはならないさ」 「すみませんね、こちらの言語センスがカスなもので」 「ずっとネットに浸ってるんだから、少しぐらい語彙は増えてもおかしくなさそうだがな。学生らしく頭を働かせろよ」 「言葉を聞いたり見たりはするけど、実際に使わなきゃ覚えないって。そうじゃなきゃ今頃英語ペラペラだわ」 「それは兄さんの努力不足だろ」    背中に感じていた熱さは、いつの間にか消えている。少しだけ涼しい風が、窓から入り込んでくる。  田舎の小学校ならではだろう。卒業式では卒業生全員に、何度か発言の機会があった。その1つが、卒業証書をもらう直前、自分の将来の夢を宣言するというものだった。  周りは一応具体的に決めていた。イラストレーターとか、ゲーム開発者とか、パティシエとか。僕が彼らの内面に関心がなかっただけかもしれないが、そんな様子を見たことはなかった。  彼らがどう考えていたかは知らないが、僕も何かそれっぽいものを言えばよかったのだろう。12歳が考えそうな将来の夢について、適当に述べればよかったのだろう。  小学6年生になると、上のコミュニティはなくなった。嘘つきは後ろ盾を失い、ただの優秀そうな人になった。本当の姿がバレてもいないのに、死にかけた。  すぐに、自らを造っていく生活に限界を感じた。どうせ嘘をついたところで、怒られなくなる以上の成果を得られなくなっていた。  結局、嘘つきの代わりに自分が出るようになった。彼は幸運なことに、年下からいじられるキャラという新たな居場所を見つけた。時代の流れなのか、これまでとは変わった人間関係が構築されていた。僕が上ばっかり見ている間に。  リアクションとか話し方とか、色々準備、反省をする日々ではあったが、明らかにこれまでよりも楽だった。反応が目の前で見えるのは、とても安心できた。出番を失った嘘つきは、一旦死んだ。  そんな中で、卒業式を迎えてしまった。だから、自分は、こう言った。 「僕は、将来、自分らしく生きる人間になりたいです」 「...おにぃって、何で生きてるの」 「え、何急に。哲学?」  外はやはり暑く、長ズボンに熱が溜まっていく。都会に出る前、半ズボンで外に出歩いてはカッコ悪いと言われ買わされたのだが、未だに慣れない。 「...おにぃって、しょっちゅう死にたいってつぶやいてたじゃん。中学とか高校のときに」 「それはよくご存じで」  誰にも見られていないのが分かる。人通りの多い道路のようだった。 「そういえば、その答え作ったんだよな、昔。懐かしいわ」 「...おにぃって、懐かしがるの好きだよね。現実から目を逸らしてるんだね」 「なるほど、確かになぁ」  眼科に行ったとき、乱視で近視だと診断された。少しやりすぎたのだろう。 「あれだよ、そんなエネルギーの大きな行為、自分にはまだ耐えられないんだよ」 「...何言ってるの?」 「そのまんまだって。前にも後にもパワーが強すぎるから、自分じゃ不相応なんだよ。とりあえず、今は」 「...はぁ、ロマンチストなんだね」 「何言ってんの?」  ぼんやりと歩き続ける。考えることに必死だった。 「...どうでもいいけど、しんじゃだめだよ。おにぃがいなくなるのはダメだから」 「おい、質問してきておいてどうでもいいとか...」 「...だって、どうでもいいじゃん」 「...どうでもいいな、本当に」  目についたコンビニに向かう。行けば、その先で意味を見出せるかもしれなかった。  健康だけが取り柄だと思っていたから、肺に穴が開いたときの衝撃は大きかった。  高校3年生の夏休み前、期末テストが終わってすぐの日だった。起きてから数歩進むだけで息切れするレベルだったのに、病院に着いたのは夕方。左肺は縮み切っていた。それでも今無事なのだから、人間の生きようとする力は凄いものだ。  そんな中、自分は、死にたくないと思ってしまった。  自分が具体的に死の可能性を実感したのは、いつ以来だろうか。相当幼かった頃、手すりに腕がはまって抜けなくなったときからはないと思う。病気とか怪我とかはあったが、当然のように生きると思っていた。  久々にこの感覚を思い出した、で済んだらどうでもよかった。問題になったのは、僕が普段から死にたいと思っていたためだった。  鬱の時期は希死念慮が口癖になっていた。5、6年も呟いていたら飽きそうなものだが、特に理由も方法も考えず、ただただ死にたがっていた。  これまでの言葉は嘘だった、と断言はしたくない。しかし、死が非常に近づいたタイミングで意見を変えたってことは、そういうことだった。混乱した。鬱である僕が、ありのままの姿だと思っていたから。  退院してすぐに、また死にたがるようにはなった。夏季補講に行くようになってからは、あの時死んどけばよかったとか思い始めた。でも、明らかに違和感があった。胸が潰れる恐怖感だけではない。心の中から何かが抜け、ぼんやりとしていた。言葉の重みが消え、聞こえているのに聞こえない。そんな状態になった。  翌々月、鬱の症状が消えた。自分を残して。 「バック、ボロボロじゃないデスカ!?たくさん詰め込んで大丈夫だったんデスカ?」 「長年こんな使われ方しかしてないからな。6連投するリリーフみたいなものだ」 「1年どころか、半年も持たなそうですケド...」  買いだめしてしまうのは、田舎暮らしの癖だった。物が足りなくなってからでは遅いのだ。 「ていうか、長年って言いましたカ?これいつ作ったんデスカ?」 「小6の家庭科の授業。ミシンの準備の仕方分かんなかったから、勝手に割り込んで使ってたわ」 「やり方ぐらい分かるデショウ!?...でも、そうデショウネ。中学に入ってからこんなダサい迷彩柄のバック、作れないはずデスシネ」 「どういうことだよ。いいセンスだろ」  荷物を冷蔵庫の前に置き、フラフラと座り込む。怒る人は誰もいないから、気が緩んでしまう。 「...はぁーぁ」 「大して動いてないデショウニ、お年寄りデスカ!?体力の落ち具合は若者以上デスネ...」 「若者じゃないなら何に分類されるんだよ。やっぱ現役19年目はベテランか」 「その数え方だと20年目なんデスヨ。知ってマス?初年度は1年目になりますからネ」 「そうか。それだけやれば引退試合もあるだろ」 「いやいや、戦力外に決まってますヨ!」  天井を見上げた。今更、屋根が高い家なんだと気づいた。  「...そうだよな、戦力外だわ」 「どうしたんデスカ、そもそも指名されないとか言った方が良かったデスカ?」 「いやいや、戦力外にしといてくれ。肩書が欲しい」 「カタガキ...?そういえば、お兄さんが大学行った理由の数十パーセントって、カタガキが欲しいからデシタッケ?」 「大体は現実逃避の為だぞ。まぁ、出来てるかは置いといて」 「生きてるんデスカラ、嫌でも現実は見るデショウ。働くよりは目を逸らせるかもしれませんケド...」 「費用さえ出せば、やることと金が直結しなくなって気楽だぞ。あと作業がちょっと単調じゃなくなる」 「センパイの人間性が酷いのはいいデスケド、表現ぐらいは楽しげに出来ないんデスカ?」 「そりゃ、楽しめればいいんだろうけど」  ようやく冷蔵庫を開ける。窪んだペットボトルを取り出し、口に運ぶ。 「あのさ」 「ハイ!何デショウ?」 「他の人って、面白く生きるために努力してたりするの?」 「...知ってるわけないデショウ。ワタシガ」 「だよな。お前だもんな」 「そうだったとシテ、センパイは努力しないデショウ?何か適当に言い訳シテ」 「分からんぞ。お手軽に出来るのならやるかもしれない」 「やりませんヨ!大体今ダッテ、本当は鬱とか周りの人に問題があるって思ってるんデショウ?楽しみ方が分からないのハ、自分のせいじゃないって信じたいんデスヨネ?」 「そこまで言ってないじゃん。合ってるけど」  中身はブラックコーヒーだった。相当前から、この味が苦いのかどうか忘れたままだ。 「......」 「......」 「...あれだ、将来の夢を決めなかった罰とかなんじゃないか」 「凄い理由デスネ...もっと受けるべき罰はあるデショウ」  中学進学してすぐ、正直な自分と外部への恐怖感が衝突した。新たな環境には地盤がなく、昨年のようにはいかなかった。けれども、人にへりくだる無駄さと面倒くささも感じていた。  折衷案ってことで、人間関係の分析に力は入れずに、とりあえず真面目そうなふりをすることにした。まぁ分析なんて長いことしていなかったし、中学生が相手だと規模とか複雑さが増していてほぼ不可能だった。  しばらくは色々と気を使いながら過ごしていたが、重要な問題に気づいていなかった。他人という基準がないのに、何をもって僕が真面目に見えているとするかが分からなかった。  テストや通知表を見れば成績は分かった。でも、これは何を意味しているのだろうか?勉強が出来るということだろうか。中学のテストはドリルからそのまま出るものが多いから、暗記力が高いということだろうか。客観的な評価そのものかもしれないが、クラスメートが採点したものではなかった。  困っていたとき、不思議なことが起こった。感覚が分裂した、というのが正しいのだろうか。自分の心を、2つの存在が占領し始めたのである。  1つは、プライドがやたらと高い何かだった。非常に攻撃的で、とにかく他の存在を拒絶、罵倒、蔑視した。なのに極端に打たれ弱くもあり、都合が悪くなるとすぐ死のうとした。  1つは、自己否定を生み出す何かであった。あらゆる場面で自分や”何か”自体を卑下する根拠を見つけ出し、それらにぶつけていった。とにかく自己否定をしなければならないという義務感、使命感を抱えていた。おそらく理由は何でもよかった。  2つは、とにかく活発だった。プライドの高い何かの攻撃対象は、自分自身、あらゆる動植物、社会現象、自然環境、物体など多岐にわたった。対象そのものに興味はなくとも、クレーマーのごとくいちゃもんを付けていった。そうして生まれた隙は、自己否定を生み出す何かの餌になった。否定をされると、やはりプライドの高い何かは酷く傷ついた。まぁ、別に文句を言ってなくても否定されるのだが。  特殊だったのは、痛みとか苦しみとかの感覚を、自分も共有させられることだった。いや、実際には、”僕”だけが実感していたのかもしれない。しかし、どれだけ苦しもうとも、僕はそれらをコントロールしておらず、する方法は分からなかった。だって、それが自分だと信じていたから。  僕は、自分を自分で評価できるようになったと考えたのだった。これまで、他者に目を向けないと評価なんて分からなかった。それが突然、自分の心がほぼ常に何かしらの評価をするようになった。内容は酷く偏っていたが、全然気づかなかった。ただ、それに従って生きるだけだった。  プライドの高い何かを攻撃するペースはどんどん早くなるし、尋常じゃない数の罪状で繰り返しなじられ続ける。だから、そのうち僕は辛いとか、死にたいとかしか考えられなくなった。なのに、自己否定を生み出す何かは、死のうとする自分さえも否定した。他者やこの社会、世界、神とかのおかげで生きさせてもらっているのに、死ぬなんてとんでもないとされた。でも、自分のようなクズが生きようとするのも否定された。いつまで経っても、死にたいと思いながら生きなければならなかった。  鬱が治ったというか、2つの何かが死んだ。そっちの方が僕の中では正しい表現だった。    時間がかかったが、気胸で空いた穴から追い出されたのだろうか。唯一虚無だけが、ぐちゃぐちゃな心で生き残った。  あまりにも心が軽すぎて、気持ち悪ささえ感じた。僕の中が急に静かになり、語彙が減った。失敗しても何も感じなくなった。自分は馬鹿になったのではないかと思った。  自分が帰ってきたために、明らかに勉強に身が入らなくなった。僕が5年以上それなりに勉強していたのは、死んだ何かからの低評価のせいだった。受験生の重要な時期なのに、面倒くさがりな面が存分に出た。そもそも僕のことばかり見ていたから、受験が何であるかもよく分かっていなかった。滑り止めで済んだのは、ただただ幸運だった。  このまま、ぼんやりと生きていくわけにはいかない。そう考えた自分は、記憶を頼りにあの頃を再現しようとした。鬱は、自分の知る中で最もマシな生き方に思えた。正直に生きるとだらけるし、昔のようにする環境はなかった。というか、自分のことばかり考えすぎて、他人との関わり方なんて忘れていた。  奇妙な試みは、中途半端に失敗した。  プライドの高い何かの癖が強すぎて、再現できなかった。そんなに不満が思いつかないし、人並み以上には心は折れるけど、以前と比べれば悩めなかった。  自己否定を生み出す何かを創ろうと、とりあえずそれっぽい言葉を並べ立ててみた。だが、正直否定されてる感じがしない。何かは、自分ではない、別の視点からの言葉に思えた。自分で言ったところで、実感がなかった。  気づけば、僕が求めることを言う都合のいい他人を創る、そんな作業に変わっていた。他人が何なのか分からないから、どんな設定でもよかった。そのうち、受け入れてもらいたいなんていう、正直な自分が主張し始めたりして。 「でも、そうかもしれないだろ。将来どんな人間になりたいか決めなかったせいで、神のフォローを受けられなくなったのかもしれない」 「別に否定はしませんけどね。じゃあ、決めときましょうよ。現世は無理でしょうから、来世とかその先のために」 「来世ってどんな仕事が人気なんだよ。eスポーツのアナリストとか?」 「もう人気ですよ。きっと革命家とかでしょう」 「革命家って...」 「お兄さん、つまらないですもん。それぐらいしないと来世は来ないですよ」  ベットに倒れ込もうとして、止めた。長針は6時を指していた。昼寝には遅すぎるし、明らかに夜ではなかった。 「お前、不出来だよな。もうどうでもいいけど」 「お兄さんに言われるのは気持ち悪いですけど、どうしてですか?」 「端から僕に来世はないって言うべきなんだよな、そこは。どれだけ僕に甘いんだよ」 「甘いですかね。ただ可能性として言っただけですよ。私は不可知論者ですから」 「...話を繋げ辛い返しはやめてくれよ」 「そんなこと言われましても...一応、私は私ですし」 「...え、あれ?お前誰だよ」  今日初めての疑問だった。慌てて、次の言葉を考えた。 「...えーと、ツケです。お兄さんが将来の夢を決めなかったから」 「いや、無理があるだろ。笑っちまうわ」 「じゃあ、他人を見なかったツケです。不幸ですよね?私にずっと気を遣われるんですからね」 「そう考えると怖いか。僕なんかじゃなくて、もっと大事なことを気にしろよ」  そう繋げて、言葉を切る。    テレビをつけると、野球中継が流れていた。リードを取りすぎたランナーが牽制死する姿に、不思議と納得してしまった。
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