0人が本棚に入れています
本棚に追加
1.
デート。それは好意を持った者同士が、日時や場所を決めて合うことだという。
デート。それはきっと、素敵なものなのだろう。ドキドキして、ワクワクして。あるいは心がポカポカするような、甘くてとろけるような。そんな蠱惑的な存在というものがデートというものなのだろう。
デート。その言葉を聞くたびに思い出す。私の若かったころの失敗を。あの、どうしようもなく苦い思い出を。
これは、私の過ちの物語。
2.
それは、私が中学校に入ってしばらくたったころだった。地元の中学校が尋常ではない荒れ方をしていたことから、私立中学進学を選んだ私は、第一志望の中学こそ逃したものの、無事第二志望の中学に入学することができていた。
入学したばかりの私は、ある決意をしていた。今度こそ、普通の中学生になって見せる、と。
小学校での私は、控えめに言って不思議ちゃんだった。周囲の子供たちが興味を示すようなテレビ、漫画、ゲーム、雑誌に、一切の興味を示すことがなく。
その代わり、私の猛烈な興味の対象にあったのは本だった。小説からエッセイ、時には画集から図面集に至るまで。私はいつだって本を読んでいた。休み時間も、給食中も、授業中の課題を提出し終わった空き時間にも。
それこそ、登下校中のわずかな時間でさえも、本を読むのをやめるのが嫌で歩きながら本を読んでいた。さすがに最後のは危ないからやめるようにと職員室に呼び出され、しぶしぶ辞めざるを得なかったが。
とにかく私は本が好きだった。特に、その中でも歴史と小説が大好きだった。その二つには、現実では得られないロマンがあったから。
私はいつだって本を読んではまだ見ぬ先人たちの足跡を辿り、あるいは小説の主人公として、あるいは主人公を眺める神の視点を持ったものとして様々な冒険を楽しんだ。
当時のお気に入りは、第二次世界大戦の戦記物と、ハリーポッターシリーズだった。どちらも、現実にはない非日常があった。
戦記物は、無数の弾丸の中で繰り広げられる激闘と、戦友同士の絆には胸を熱くし、時には涙を流した。
ハリー・ポッターは、色とりどりの不思議で西欧の魅力に富んでいて、ほんのちょっぴり怖い魔法界は私をたちまちのうちに夢中にさせた。
私の手元にもいつかホグワーツ行きのフクロウ便が届かないか、と内心期待していたのは私だけの秘密だ。
その背景には、家族とうまく行っていなかったことがあるかもしれない。父さんには、やれ頭が悪い、出来が悪いと日常的に殴られた。ほんの些細なことでも殴られた。
一度など就寝前のあいさつとして「おやすみ」と挨拶したら、「おやすみなさいだろうが、この馬鹿!」と力いっぱい殴られることすらあった始末。
母さんもまた味方ではなかった。母さんは、私が大きくなったこともあって暴力は振るわなかったけれど、その代わり言葉の剣で切り刻まれた。「ここまで頭が悪いのは才能やね。」そんな言葉で済めば御の字。
とにかく、強烈な嫌味と皮肉、罵倒でもって私の心をチクチクえぐってくる。正直、殴られている間、とにかく心を無にして耐えればいい父さんと、身体的苦痛はないものの的確に心をえぐってくる母さん、どちらがましか判断に悩むほどだった。
そんな私にとって本は唯一の救いだった。本を読んでいる間だけは、私は両親への恐怖も忘れて満たされていることができた。本を読んでいる間だけは、ここではないどこかへ、飛び立つことができた。本を読んでいる間だけ、私は幸せだった。
そんな四六時中ずっと本を読んでいる私は当然浮いた。最初のころなんて、趣味も合わず、興味も合わず、最近のテレビやアニメについて知りやしない私に、友達など全くできるはずもなかった。
次第に私はそういう子だと理解され、それなりの距離感で付き合えるようになった友達も増え、私はみんなの輪に受け入れてもらうことができた。
だけど、中学でも同じようにうまく行く保証なんてどこにもない。何せ、ここは私立中学。
これまでの「変わった子」である私を知る子なんてどこにもいないのだ。あるいは一癖二癖ある子だっているかもしれない。変に浮いていては、いじめの対象となってしまうかもしれない。
そんなちょっとした恐怖心を伴いながら、私はクラスに、学校に埋没しようと一生懸命努力した。
それでも素の変わった部分は隠せなかったようで、変わった子との認識は受けていたけれど、それでも特段いじめられることなく過ごしていた。
そんな入学してからしばらくたったころ。私は退屈していた。話せる友達はいる。一緒に食事を取り合う友達も。放課後に一緒に帰る友達も、部活でできた友達もいる。でも私は退屈だった。
何せ、趣味について語れる友達がいない。小学校の時にはいたのだ。学校にだって少しは居たし、塾にも少なからずいた。その子たちと趣味の歴史、小説について話すのは、本を読んでいる時間の次に至福の時間だった。
なのに、中学校に入ってからはそのような話をできる子が全くいない。苦痛だった。寂しかった。
いっそ普通の友達にそうした話をしてみようかと思ったことさえある。小学校の時はそれで浮いてしまったことを思い出して、かろうじて踏みとどまった。
そんな、趣味を分かち合える友達がいないことにあえいでいたある日。私はN君に出会った。
2.
N君と私の出会いは、それほど劇的なものではない。私とN君は同じクラスだったし、N君が私と同じぐらいちょっと変わった子として有名なのは知っていたから。
私も、N君の存在は知っていた。教室の片隅で本をずっと読んでいる姿も見ていたけれど、私は取り立ててN君に興味を持たなかった。よくいるクラスメイトの一人としてしか認識していなかった。
その認識が変わったのは、ある歴史の授業の時間のことだった。何の話の弾みかはわからないが、先生の話が第二次世界大戦の話になったころ。N君が1つ2つ、質問をした。大半の生徒はまたN君の質問癖が始まったよとうんざりしたような顔をしていたけれど、私はおや、と思った。
だってそれは、それなり以上に第二次世界大戦について知っていないと、出てこないような質問も入っていたから。
ひょっとしたらN君は歴史に興味があるのではないか。私はこの時初めてN君に興味を持った。あるいは、ひょっとして話し相手になってくれるかもしれないなんて期待して。だから私は、休み時間になるとすぐに話しかけた。
「さっきの授業、ずいぶん詳しく質問していたけど、歴史好きなの?」
その質問にN君は、聞いた私がびっくりするぐらい顔を輝かせて答えた。「大好き!」その横顔はキラキラと輝いていて、本気で歴史が好きなことがよく伝わってきた。
「Mさんは?」そう聞いてきたN君に「私もだよ」と答えると、N君は傍目から見ても分かるぐらい顔をぱあっと明るく輝かせた。
そして矢継ぎ早に質問してくる。好きな時代は?好きな人物は?どういうところが好きなの?私は逐一答えた。第二次世界大戦期が好き。山本五十六。何となくかな。今いろいろ読んでいるところ。
N君は見る見るうちに興奮していった。分かる、分かると首を激しく縦に振る。第二次世界大戦期は興味深いよね!わかる!山本大将とはまたいいチョイス!個人的には山下中将が気になるかな!
そうまくしたてるように言うN君。その後もいろいろ歴史の話をした。私たちは大いに盛り上がった。どうやらN君の歴史好きは本物らしい。そしてN君がちょっと変わった子だということも、よくわかった。
でも、それがどうしたというのだ。私は久々にワクワクしていた。まさかこれほどまでに歴史に詳しい子が身近にいたなんて。これほどまでに歴史について話せるなんて、いつ振りか。小学校時代の友達と話して以来かもしれない。そう思った。
これで小説が好きだったりしたら完璧なんだけどなあ。そう思って放った問いかけはあっさりと肯定された。完璧じゃないか。私は歓喜した。また後で話そう。そう約束してその休み時間は離れた。
3.
放課後になって、またN君と話した。N君の歴史に対する知識は本物だった。それなり以上に詳しいと自負している私と話していても全然話が尽きないし、特に文化方面では私の知らないことを知っていたりもした。そして何より、彼は頭がよかった。打てば響くというか。目から鼻に抜けるというか。
勿論私の友達と馬鹿話をしてキャッキャと笑いあうのも楽しいものだが、N君と話すのはそれとは違う、また違った面白さがあった。
しかもN君は読書家だった。いろんな小説を読んでいた、私の読んだことのある小説から、読んだことの無い小説まで。大いに話は盛り上がった。
最初のほうは、どことなく警戒したような、壁を感じるところもあるようなN君の口ぶりだったけれど、話が弾むにつれ、徐々に口調も砕け、心の防壁が崩れていくのを感じた。
私のほうも同じだった。最初は男の子ということもありちょっと警戒していたのだけれど、話してみればずいぶん話しやすい子だった。
何より、知っていても話せない、趣味の話ができないというストレスは割と来ていたらしい。私は鬱憤を吐き出すようにしゃべっていた。小説の話。歴史の話。ついでに趣味の話ができないのがつらいという愚痴まで。
N君もニコニコしながら、あるいは適宜的確な返答を挟んでくれて、本当に楽しかった。
何よりうれしかったのは「僕もそうなんよ」と言ってもらえたことだ。趣味の話ができないのは僕も同じだと。
「僕でよかったら、ちょくちょく話さへん?」
私は嬉しかった。こんなところに心から友達、いや、「同志」といえる人間がいたなんて。
私は一も二もなく頷いていた。久々にちゃんと友達と胸を張って言えそうな子ができて、私は嬉しかった。
3.
それからの私たちはちょくちょく話すようになった。いつもべったりというわけではない。お互い暇なとき、ふらっとやってきては言葉を交わす。その程度。
気が向いたら放課後がっつり教室に居座って、時には黒板を使ってまで議論をしたりもしたけれど、そこまでがっつり話すことは珍しい。あっても週に一回あるかどうかといったぐらい。それでも私は楽しかった。
私は昔、男の子とトラブルがあって以来、ちょっと男の子自体が苦手だったし、あまり話しかけに行くこともなかったけれど、N君だけは話しやすかった。中性的な身なりをしていたのも影響しているのかもしれない。
とにかくN君だけは何となく話しやすかった。
私たちはいろんな話をした。それこそ、幕末志士の活躍から、バルチック艦隊の話、戦艦大和の最期の話。ハリーポッター、ダレンシャン、デルドラクエスト。様々な話をした。飽きることなく。いつまでも、いつまでも。
4.
季節が夏になり、秋になっても私たちの交友は変わらなかった。むしろ、話す頻度は増えたといっていい。
やっぱりべったりというほどでもなかったけれど、気が向けば、お互いの席に言っては話しこんだりもした。一緒にお昼を食べることもあったりした。放課後の討論の機会も増えた。今ではかなり突っ込んだ話もするようになった。
それこそ政治の話、社会の話に至るまで。いや、その見解には納得できない!半ば声を荒らげるぐらい議論が紛糾したこともあった。それでも翌朝にはけろっとした顔で、お互い昨日はごめんと頭を下げあった。
一緒に出掛けたりはあまりしなかった。住んでいる場所がかなり違ったということも大きいけれど、二人きりでどこかに行くということにちょっと抵抗があったから。私たちは友達なのだ。そんなデートじみたことをするつもりはなかった。
それでも、二人でそろって図書館に行くぐらいはした。一緒に図書館に行って、各々好きな場所で本を読んで、閉館間際に合流して今日読んだ本の感想を言いあいながら帰路に就く。
イベントでは比較的よく喋った。例えば中学初めてのプール開き。50メートル泳げなければ帰れないというシステムだったにも関わらず、私もN君も犬掻きもどきでしか泳げなかった。
50メートルなんて夢のまた夢。何度も挑戦しスタートラインからのやり直しを繰り返し、こんなの無理だと愚痴をこぼしあった。
他には初めての体育祭。私立ということもあり、市営グラウンドを借り切って、中高一環の体育祭は見ていて圧巻だった。
ただ、その分待ち時間も多く、待ち時間をぬって私たちは話した。将来の進路のこと、今の学習のこと。私は将来法学系に進みたかった。家業はバリバリの理系だが、私は理系にだけは進みたくはなかった。
ひょっとしたら、家への反発もあったのかもしれない。そんな話をした。
「僕も法学系志望なんよ」N君は笑って言った。せっかくだから、弁護士を目ざしたいと言っていた。
家庭に問題のある人の助けになりたいんや。そう言って笑ったN君に、もしもの時はお願いするねと言った。
とても充実していた。正直、N君と話している間は嫌なことを忘れられた。家のことも。下がり気味の成績のことも。N君と話している間は、何となく心が温かかった。
そう、本当にN君と話すのは楽しかったのだ。他の誰と話すのとも違う、ワクワクとした知的興奮も得られたし、自分の好きなものを他人も好きだと言ってくれる満足感も得られた。私はN君と話すのが好きだった。
だから私は、極力、気にしないようにしていた。
いつごろからか、N君が私を見る目に嫌に熱っぽいものが混じるようになったことを。
今まではそんなことはなかったのに、ちょっと体が触れるだけでびくりと身をこわばらせることを。
どことなく、言葉の端々に奇妙な熱が宿ることに、気づかないふりをしていた。
「N、絶対あんたのこと好きでしょ。」
前々からあったそんな友達からの噂も、ちょっと鬱陶しくなってきていた。
それに、すべて私の勘違いかもしれないではないか。全部気のせいだと良いな。私は思った。私にとってN君は気のいい友達で、「同志」なのだから。
そして、正直N君が、私を好きになるとは思えなかった。私は変人だ。それは自覚している。見た目が全然いいわけでもない。
それに、N君とは話すようになったとはいえ、もっと話すような友達だって塾や学校にいるのだ。N君は、あくまで私にとっての友達。それだけなのだから。
もし、本当に告白されたらどうするのだろう。想像してみる。N君と私が手を取り合って歩いているところを。
付き合うとなればいつも一緒にいることになるのだろう。だけどそれは、今と何が違うのだろうか?ふと疑問に思った。
別段N君と話すのは嫌いじゃないし、むしろ好きだ。そして、不潔だとか、どうしても付き合いたくないような外見的特徴もない。
別に付き合ったとしても別に今と変わらないのではないか。そう思った。
むしろ下手に断わって、これまでの友情にひびが入るぐらいなら、告白を受けたほうが賢明なのかもしれないな、なんて。そんなことを考え始めている自分に気づく。
何を私は考えているのだろう。私は苦笑する。まだ本当にN君が私を好きなのかも分からないのに。告白するかもわからないのに。どうするかは、その時決めればいい。私はそう思ってほほ笑んだ。
5.
そして12月になって。クリスマスに向けカップルが続々と成立し、男子も女子もどことなく落ち着きを失い始めてきた時のころ。どことなく浮ついた雰囲気の友人たちを傍目に見つつ、靴箱エリアにたどり着く。
ふと、私は私の靴箱の前で、私を待ち受けている子がいることに気づいた。それはN君と話しているのをよく見かける、N君の友達のS君だった。
S君は私に気づくと、「M、ちょっと」と耳を貸すようにしぐさで示す。そしてS君は私の耳元に屈みこむといった。
「今日、Nのやつがあんたに告白したいらしい。できればフラないでやってくれ。」
不思議と、その言葉に驚きはなかった。ただ、来るべきものが来たのだというような、ああ、やっぱりかという納得にも似た感覚。
だからN君はあんな目で見ていたんだ。すごく、腑に落ちる心地だった。そこに驚きはなかった。そう、驚きはなかったはずなのに、どことなく未だに夢の中にいるような、奇妙にふわふわとした感覚。
ああ、私はどうしたらいいのだろう。別段、N君は嫌いではない。むしろ好きなほうだ。でもそれは異性としての好きではないのだ。私はいったいどうしたら。
そんなことを考えていると、せっつくように「で、どうだ」とS君に声をかけられた。どうやら私の返事が聞きたいらしい。もし、どうしてもN君は無理とのことだったら俺に伝えてくれとのことだった。やんわり諦める方向にもっていくらしい。
「過保護じゃない?」
私は笑った。「あいつは繊細なんでな」S君も苦笑している。
「いいよ、フラない」
私は言った。「助かる!」S君はニカッと笑って去っていった。それにしても私が付き合うことになるのか。未だに奇妙にふわふわとした感覚は続いていて、未だに現実感なんてどこにもなかった。
私がフラないといった理由はただ一つ。相手がN君だったから。N君が相手なら、そう悪いことにはならないだろうと思って。
きっとこれからも友達感覚で付き合っていけるのだろうし。それに私はちょっと興味があったのだ。付き合うというのはどういうことなんだろうと。
6.
奇妙にふわふわした意識のまま、一日の授業を乗り切り。放課後になると、N君に「今日、ちょっと残って」と呼び止められた。
その顔は酷く緊張している。だけど、私はすでにその要件について知らされているのだ。まあ、そのことを告げるのはあまりに野暮というもの。
だから、私は何も知らない顔を装って「いいよ!」とだけ答えた。
そしてしばらくたって。誰もいなくなった教室にはN君と私、そしてちょっと離れた場所で腕組をして壁にもたれて私たちを見つめるS君がいるのみ。
今日に限ってみんなが教室をこんなに早く出て言ってくれたのはN君にとってラッキーだったな。
そんなことを何かを取り出そうとしてはやっぱりやめると、黒板の前でもじもじしているN君の姿を見ながら考える。
案外、S君が手引きしたのだったりして。今日はちょっと俺たちが使うから、早めに教室を開けてくれないか、なんて。男子にも女子にも顔の広いS君なら、案外それもありそうだな、なんて苦笑する。
そんなことをしている間にも、N君はいまだにもじもじとしていた。「何か」を出そうとしてはためらっている。
「それ」が何かなんて、この場の誰もが知っているのに。何も知らずに、覚悟を決めかねているN君がだんだん不憫になってきた。
それに呼び出してくれたN君の手前、気を付けをしていたが段々疲れてきたのだ。この緊迫した空気が悪いのかもしれない。
私は首元のリボンを緩めると、おちょくるように「どうしたのかなー、気になるなー」などと言いながら左右に揺れてみる。
すぐにS君から咎めるような目線が飛んできたので即座に止めた。言い訳させてもらうのなら、私だって多少は緊張しているのだ。
喉だって奇妙に乾いているし、この緊迫した空気に心臓は飛び跳ねている。だからせめて、ちょっと空気を和らげようと思ったのだが、S君的にはそれは駄目らしい。
仕方がないからもう少し真面目に取り組むか。そう内心ため息を吐き、やけに息苦しいリボンをはめなおす。すると、ようやく決心がついたのか、N君はやにわに腰を90度に曲げると、
「好きです!付き合ってください!」
と言いつつ、ポチ袋に入った便せんを差し出してきた。私は内容はわかっていたけれど便せんを読むふりをしながら、N君の様子をこっそりうかがう。
N君は腰を90度に折り曲げたその姿勢のまま、プルプル震えて私の返事を待っていた。きっととても緊張しているのだろう、足がわずかに震えているのさえ見て取れる。
ああ、本気なんだ。私はこの時初めて理解した。本気でN君は私のことが好きなんだ。そう思うと、なんだか心が少しだけ、ポカポカしてきた。ここまで思ってくれているというのが、嬉しかった。
だから私は「いいよ」と答えた。初めから決めていた答えだったけれど、思っていたより優しい声が出たのが、我ながら驚きだった。
7.
ありがとう、ありがとうと今にも泣きだしそうなN君にとりあえず席を進める。気づけば、S君はいなくなっていた。あとはお任せということらしい。
本当に過保護な子なんだから。そう内心苦笑する。N君は勧められた通り席に座る。ちょうど、私の真横に。
私はちょっと離れた、対面の席を進めたつもりだっただけに、ちょっとばかし面食らう。
ちょっと近くない、と言おうと思ったが、やめた。N君があまりに幸せそうにニコニコしていたから。そんなに喜ぶようなものなのか。少し気圧される思いがした。
「それで、これからどうするの?」
私は聞いた。だって私は人と付き合うのなんて、初めてだったから。帰り道も全然違うし、本格的に付き合うことになるのは、明日からになるのかな、なんて。そんなことを思って問いかける。
N君はまたもしばらくもじもじしていたけれど、しばらくためらった後、ポツリといった。
「僕、キスしてみたいなーなんて……」
「え」
思わず、低い声が出た。だって、それはあまりに予想外だったから。思わずN君の顔を見る。てっきり、何かの冗談だと思って。またまた、と笑い飛ばそうと思って。私は絶句した。
N君は言葉こそ冗談めかしていたけれど、その目は本気だった。本気で、今すぐにでも私とキスしたがっていた。私を求める目をしていた。
「え」
再度、私の喉から声が漏れた。それはうめき声に近かった。それにしても、N君の私を見る目のなんとどんよりしていることか。今までのN君の目とは全然違っていた。
今までのN君の目は、どこか夢見るようにキラキラと輝いていて、私は結構その目が好きだったのに。この世でないどこかを見つめるような、どこかぼーっとした目が結構好きだったのに。
そんな目はどこにもなかった。ただ、その目は私だけを見つめていた。私だけをとらえていた。その奥に何か私の理解できない、どろどろとした巨大な感情をたたえて。
思わずひゅ、と喉が鳴った。私は、こんなN君が見たくて告白を受けたわけじゃない。心からそう思った。
こんな初めて見る目で私を見るN君が怖かった。それにキスだって?
私は昔、友達だと思っていた子に押し倒されてキスされたことがある。その時の、私を組み敷いて嘗め回すように見たあの友達の目と、N君の目はよく似ていた。
まあ、百歩譲って、将来的にキスをすることはまあ許そう。だけどキスというのは愛し合って、信頼しあった者同士がその最後の最後にすることじゃないか。
そんな最後の最後、行きつくところまで行った人たちがする行為を、今やろうだって?告白されて、今OKを出したばかりの、今、ここで?全然、私はN君について知らないのに?そう思った。
私はただ、これまで通りの仲のいい友達でいたかったから、告白をOKしたのに。ただ、居心地のいいN君という友達を失いたくなかったから、私は告白を受けただけなのに。
告白を受けるって、こんなに重たいことなのか。友達の延長線上にいられると思った私が愚かだったのか。
であれば、私はどうしたらいい。分からない。分からなかった。ただひたすらに、得体のしれない巨大な感情を燃やして私を見つめるN君が、怖かった。
「……キスは、早いんじゃないかな」
引きつりそうになる声を叱咤して、かろうじてそれだけ言う。今の私は微笑めているだろうか?自信がなかった。
S君が先に帰ってしまったことが本当に悔やまれる。あの過保護な彼がいれば、きっとN君を止めてくれただろうに。
私の返事にN君は少し悲しそうな顔をしたけれど、すぐさま切り替えるといった。同じような、強い、熱すら感じさせるほどの情念を宿して。
「じゃあ、ハグは?ハグならいいんじゃない?」
私は思わず立ち上がっていた。一歩、二歩と思わず後ずさる。怖かった。私を好きになってくれたことは嬉しい。
でもこんなにも強い感情を向けられるなんて、思ってもみなかった。怖くて怖くて、たまらなかった。好意にせよ悪意にせよ、これほどまでの熱すら感じるほどの強い思い、向けられたのなんて初めてだったから。
あまりの恐怖にひっひっ、と息が上がり始めていた。これが付き合うということなのだろうか。告白を受け入れたのは失敗だったかもしれないと思い始めていた。
私はただ、友達でいたかっただけなのに。こんなN君を見たいわけじゃなかったのに。でも、N君をこんな風にしたのは私なのだ。だから、この思いには私が応えなければいけない。だから、私は答える。
「……ハグも、ちょっと早いかな!そういうのはもっと付き合ってからじゃないと!」
再び、見るからにシュンとするN君。N君が次に何を言い出すのかわからなかった。怖かった。これまでのN君との会話は、胸が弾み、心が躍る、とても楽しいものだったのに。
なんでこんなことになったのだろう。足が先ほどのN君とは違った理由で震えだす。もう耐えられなかった。
「ごめん、長居しすぎちゃった!そろそろ私、帰らないと!」
そう言ってバッグを背負い、N君に背を向ける。今だけはN君と向き合っていたくなかった。少しでも早く、N君と距離を取りたかった。
その背中に、N君の声が追いかけてくる。
「じゃあ、デート!いつもの図書館ならいいでしょ!」
デート。それぐらいならいいだろう。それに、きっとその時にはN君も落ち着いているはずだから。そう思って。私は後ろを見ることなく叫び返した。
「いいよ!」
ただ、一刻でも早く、学校から出たかった。
8.
翌朝、奇妙に重い気持ちを抱えて、いつもの図書館へ向かう。開館前10分には着いたというのに、N君はすでについていた。
普段は私より10分ほど遅れてくるN君が。私が来ることに気づいていたのだろう、自転車置き場にまで迎えに来ると、「昨日は長居させちゃってごめん……」と言いながら手を奇妙にさまよわせる。
私は一つ溜息を吐く。私のほうから手を差し出す。ぎゅっと握られる手。汗でぬるぬるとする、やけに固い手の感覚が、やけに印象に残った。
図書館の中に入る。そのまま手を引かれ歩いていく。誘導されたのは二人掛けのソファー。私は道中見つけた面白そうな本をさっそく開く。パラパラと読む。
だけどいつものように没入できなかった。付き合うといったって、これでいいのだろうか。こんな関係性でいいのだろうか。私はもっと、こう。淡白な付き合いというのを期待していただけに、意外だった。
いけない、いけない。首を振る。こんな考えでN君と付き合うだなんて、それこそ失礼だ。それに、今は楽しい楽しい読書時間。読書以外のことを考えるだなんて、野暮なことをするな。これからのことは後で考えればいい。そう思いペラペラとページを読み進める。
どれほどの時間がたっただろう。やはり本は偉大だった。あれほど動揺していた心も、今ではかなり落ち着いている。
ふう、とため息を一つ。スキンシップが激しいことには戸惑ったけれど、N君もよくよく考えれば悪い彼氏ではなさそうだ。適度な距離感は、こちらのほうで調整してやればいい。
その先に私がキスをするのかはわからないけれど、まあその時はその時だ。その時の私がその先に進むかを考えればいい。そう思って、視線を挙げて。
目が合った。
私をじっと見つめる、N君の両目と。N君のページは一向に進んだ様子がなかった。N君はただ私を見つめていた。ただ見つめて、幸せそうにニコニコと笑っていた。
あんなに大好きな本も、読むことなく。私だけを、ただ見つめていた。じっと。ニコニコ、ニコニコと。
ぞぞぞと。背筋に悪寒が走るのを感じた。N君はあんな子じゃなかった。N君は変わってしまった。黙って私を見つめるあの目。じっとりとした執着を感じる。じっとりとした思いがのしかかってくる。
そう、それはN君の思いの重さ。
ああ、無理だ。耐えられない。私は思った。私は間違えてしまった。こんな思い、受け止めきれない。心臓がバクバク跳ねる。私はとっさに本をひっつかむとソファーを立ち本棚のほうに移動する。何気なさを装って、ひっそりと。
そして、追いかけてきていた。N君の視線が。ニコニコ、ニコニコと。本棚の影を縫って、私の背中をただただ幸せそうに眺めていた。
ああ、重さすら感じるその視線。N君はいったいどうしたのだ。まるで別人ではないか。あそこにいるのは本当にN君なのか。実は赤の他人がN君の皮をかぶって、N君に成りすましているだけではないのか、なんて。
そんな馬鹿なことを考えてしまう。そのくらい、N君の私を見つめる目は重くって、慈愛に満ちていた。
そう、そこにあるのはどこまでも徹底した無私の愛情。無条件の愛だけが、そこにはあった。
そんな思い、私は知らない。なんでN君は、そんなに優しい目で見るのか私には理解できなかった。
今まで、誰もそんな目を私に向けたことなんてなかったのに。
それこそ、父さんや母さんだって。
その瞳に宿る感情が、私には理解できない。
私に向けられる、その質量すら感じられる感情の正体が、私には理解できない。
なぜ、友達に過ぎないあなたがそんな目で私を見るの。お願いだからそんな目で見ないで。その目で私を見るのをやめて。
私はただこの得体のしれない目から、逃れたかった。私は急に息苦しくなってきた。ひっひっ、と喉が異音を奏で始める。額から脂汗がしたたり落ちてくるのをとっさにハンカチで拭う。
私はあたりを見渡す。とにかく、一度N君から離れたかった。一度距離を置いて、冷静になりたかった。あの目から、とにかく逃れたかった。
冷静になれ。私は自分に言い聞かせる。N君は私の彼氏で、でも、本当は仲のいい友達でいたくて。
ああ、頭がぐちゃぐちゃになってくる。涙すら滲んできた。付き合うということが、まさかこんなにも怖いことだなんて。
だけど、私からまさか別れ話を切り出すわけにはいかない。だって私たちは、2日しか付き合っていないのだ。
こんな早くに、別れ話を切り出せば、きっとN君を傷つける。私がN君を騙してぬか喜びさせたことになる。裏切者と、罵られることになる。私は仲のいいN君に、そんな風に言われたくなかった。
とにかく落ち着け。私は自分に言い聞かせる。短気を起こすな、パニックになるな、呼吸をしっかりしろ。私は意識してゆっくり息を吸って、吐く。私はとっさに近くの誰も座っていないグループ用テーブルに座る。
そしてこの間に適当な棚から引っこ抜いてきた小説に、無理やり向き直る。露骨に視線から外れるように動き、わざわざ遠い席にまで移動さえしたのだ。
きっと、こうしていれば私の一人にして、近寄ってこないでというメッセージは伝わるはずだと、そう信じて。
N君は決して鈍い子なんかじゃない。ちゃんとこのメッセージを受け取ってくれるはずだ。きっと私を一人にしてくれるだろう。私は自分自身に語り掛ける。
だから落ち着け。N君は怖くない。私の大事な友達だろう。これまでずっと仲良くしてきた。そうじゃないか。
ちょっと得体のしれない目で見てくるなんて怯えるな。友達だろう。それこそN君に失礼だ。だから、ゆっくりと息を吸って、吐け。
私はそう自分に言い聞かせる。あの得体のしれない目。
きっとあの目の奥に宿る光こそが、愛というものなのだろう。そんなことを冷静になりかけてきた頭でぼんやりと考える。
私は人を好きになったことがないからわからないけれど。人に好きになってもらったことがないから、分からないけど。
あれはきっと、私には害はなさない。だから落ち着け。私は何度も何度も自分に言い聞かせる。
とりあえず、今の問題はあの視線だ。ずっと監視されているみたいで怖い。
それに距離もちょっと近すぎる。私たちが付き合うようになってまだ2日しかたっていないのだ。そういうのはもっと段階を踏んでいこう。
そう、提案するつもりだった。そこまで考えたとき、隣の席にふと人の気配を感じた。
そこには目が合った。顔を上げたその先。ニコニコとした、笑顔のままの幸せそうな、N君の目。
そこにはいつの間にかN君が座って、私のことを眺めていた。全然進んでいない小説を小脇に抱えて。
私を眺めているだけで幸せです。そんな目をした、慈愛に満ちた目をしたN君が、そこにはいた。
かひゅっ。思わず喉が鳴った。落ち着いたと思った心臓が再びビートを刻みだす。喉が再びひゅう、ひゅうとか細い音を立てだす。脂汗が額に浮く。拭っても拭っても浮いてくる。
私は何も言わず別のテーブルに進み、無言で本を広げる。近寄らないで、お願い。無言で態度で示す。お願いだから、一人にさせて。
今だけはその目を向けないで。理解できない。怖い。怖いの。本当に怖い。そんな得体のしれない目で私を見ないで。
まだ、父さんが私を見る無機質な目のほうがまだ怖くない。殴る前の血走った眼とか。そっちのほうはまだ理解できるから。
だからそんな、理解できない目で私を見るのはやめて。私は必死に荒ぶる鼓動を収めようとする。ひっひっひっひと浅くなりがちな息を抑える。ゆっくりと息を吸う。浮いてきた涙をN君に見せぬようさっと拭う。
そして再び目が合った。無言で追いかけてきたN君。私の対面の席に座っている。どうしたの、とこてんと首を傾けているけれども、それでもN君は微笑んでいた。幸せそうに笑っていた。ニコニコ、ニコニコと。
たくさんの慈愛を目に浮かべ。怒ることなく、ただ、無言で、ニコニコと。
ぞぞぞぞぞ、と。背中を駆け上がるような不快感。胃がひっくり返るような心地に、思わずうっぷと口元を抑える。ただただ、気持ち悪かった。
なんでN君は、血のつながりさえない私をこれほどまでに愛しげに見つめるのか。理解できない。理解できない。分からない。分からなくて、気持ちが悪い。
家族ですらないのに。家族だって私をそんな目で見ないのに。思わずそう毒づきそうになるのをかろうじて精神力で抑える。
もう、限界だ。私は悟った。私はN君と付き合えない。私はN君と付き合うためには感情が剥落しすぎている。
私の脳みそは、N君の私に向ける感情を理性では理解できても、感覚として理解することができない。
理性ではそれが愛情と呼ばれるものであることはわかる。だけど感覚としては、それは未知の感情としてしか理解できない。
理解できないことは、恐怖だ。N君の次の行動が予測できない。今はN君も紳士的だからいい。
でも、何かが間違っていつかまた、小学校の時の友達みたいに私を組み伏せキスを迫って来たら?
あるいは、父さんみたいにいきなり殴りつけてくるかもしれない。母さんみたいに心を抉ってくるかもしれない。
理性では、N君がそんなことをするはずがないと頭ではわかっている。
でも、感情が、心が、魂が、N君に対して怯えている。
何を考えているのかわからない、次にどう行動するのかわからないクリーチャーとして。心底私は怯えていた。
歯の根が合わない。その目を向けられるだけで体ががくがく震える。そんな目で私を見ないで。私に、そんな目を向けられる資格なんて無いのだから。
同時に、酷く気持ち悪かった。
なんで他人のあなたがそんな目を私に向けるの。私がどんな人間かなんて知らないくせに。
私がどう生きてきたかなんて、知らないくせに。私がどんな風に感じているか、考えているか知らないくせに。
知ったような顔をして、分かったような顔をして私を見るな。そんな気持ちの悪い目で私を見るな。
そう叫びたいのをぐっとこらえる。これでも私はN君の友達だから。
でも付き合うのは無理だ。そう、心から理解した。私たちは付き合えない。付き合ってもお互い不幸になるだけだ。
だから。私は、対面の席でニコニコしているN君の目をしっかりと見ると、一言だけ謝った。
「ごめん」
そして私は走り出す。ぶつかりそうになった人に謝りつつ、私を呼び止めるN君の声は聞こえないふりをして。
そして私は自転車に飛び乗った。
いつまでもいつまでも私を呼び止めるN君の声が耳にこびりついて離れない。私が家について真っ先にしたことは、携帯からN君の連絡先を消すことだった。
それから、私はトイレにこもって泣いた。泣きながら吐いた。胃の中をすべて。ああ、このまますべて吐いて、私さえも消えてしまえればいいのに。そう、心から思った。
9.
私の恋愛は、たった二日で終わった。N君は、二度と私に話しかけてこなくなった。時折、S君からは咎めるような視線を送られる。私はその視線に、ただ頭を下げることしかできなかった。
それから12年近くたった今。
私は依然、人と付き合えずにいる。N君が、今どこで何をしているのかも知らない。
それでも私は願ってしまうのだ。
どうか彼が、いい人を見つけ結婚できますように、と。
それが、酷い振り方をしてしまった私にできる、唯一の償いなのだから。
最初のコメントを投稿しよう!