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「お代わりは、何になさいますか?」
「それじゃ、同じものを」
「オンザロックで?」
「はい」
「畏まりました」
カウンターの中の鳥飼が包丁を手に取ると、丸氷を作り始めた。シャキシャキと小気味よい音が、静かなバーの中に流れ始める。止まり木に座った横山は今のところ、この店のたった一人の客である。
「お客様、ひょっとしてここのご出身ですか?」
手際良く包丁を動かしながら、鳥飼が愛想の良い笑顔で訊ねる。ぼちぼち頭には白いものが混じり始めている。
「いえ、そういうわけでは。何故そう思ったんですか?」
横山が少し驚いたような顔をする。こちらも50絡みで、恰幅の良い紳士、という雰囲気である。会社でもそれなりの要職にあるような印象を与える。
「いえね、先ほどからお話してると、妙にここら辺の地理にお詳しいようですから。T街道という名前は国道○○号線の別名だとか、M大橋と大川の位置関係とか、ここに土地勘のある人のようにお見受けしたもので」
「ああ、そうでしたか。実は、ずっと以前、もう何十年も前のことですけど、若い頃ここら辺に住んでいたことがありましてね」
「そうだったんですか。どのくらい住んでらしたんですか?」
「半年くらいだったんですがね。長期出張で」
「ああ、そうでしたか、それでご存知なんですね」
「今回、たまたまこっちの方に用事が出来まして、それこそ何十年ぶりかに訪れて来たんですが、まあ、色んな所が変わっちゃいましたね。当たり前と言えば当たり前ですけど」
横山が懐かしそうな顔をする。
「そうですね。確かに何十年もたてば、こんな田舎町でも色々なものが変わりますよね。まあ、どちらかと言えば、悪い方に変わってますがね。この界隈でも、色んなものが消えて行きましたよ。電車やバスの便も減ったし」
「電車と言えば、Y鉄道の支線が通っていましたよね」
「あれはもう随分前に廃線になりました」
「ああ、そうなんですか……」
横山が感慨深げに目を閉じた。扉の外で、屋根から滑り落ちた雪の塊が、どさりと音を立てた。朝から降り始めた雪は、未だに止む様子も無い。
「こちらへは、ご出張ですか?」
横山の前に静かにオンザロックのグラスを置きながら、鳥飼が尋ねた。
「ええ、ちょっと現場の方を視察に」
「普段は本社ですか?」
「ええ、東京の本社で働いてます」
「そうですか。東京の方は、こちらみたいに雪が降ることはないんでしょう?」
「まあ、そうですね。だから、ちょっと積雪があるとすぐバタバタしてしまってね。よく雪国出身の人に笑われますよ、はは」
横山がわざとらしく笑って見せた。鳥飼は黙って頷いている。その淡々とした表情に、横山は何となく居心地の悪さを覚えた。
「生まれも育ちもずっとこちらなんですか?」
「はい、ずっとここで生まれ育ってきました。もう何十年も」
「そうですか。ご家族も」
「はい。と言っても、両親含めみんなもう他界しましたけどね」
鳥飼の見た目から言って、両親が既に他界しているのは、おかしくはないだろうと横山は思った。
「ご両親以外のご家族は」
「妹が一人おりましたが、これも、もうずっと昔に亡くなりました。そう、丁度Y鉄道の支線が廃線になって間もない頃でしたね」
相変わらず、淡々とした表情で鳥飼が応える。
「ああ、そうですか、それはどうも……」
横山が神妙な顔をする。
「その妹ですがね」
鳥飼が顔をあげて、少しあらたまった表情を浮かべた。
「実は、自殺したんですよ」
「自殺?」
横山が驚いた顔をした。
「ええ、それこそもう何十年も前のことですがね。妹はK町の小さなスナックに勤めていたんです」
グラスを拭きながら鳥飼が淡々と話し始めた。
「そこに、ある頃から、若い男の客が熱心に通いつめるようになりました。要は妹に一目ぼれしたらしいですが、まあ、結論的に言うと、その男と妹は、いつか男女の仲になっていたんです」
薄暗い照明が、鳥飼の顔に微妙な陰影が与えている。横山は黙って話を聞いている。滑り落ちた雪の塊が、また扉の向こうで音を立てた。
「その男っていうのが、この近所に大きな工場を持っている一流企業のエリート社員でしてね。ほら、あのK町の電子部品工場ですよ。ご存知ですよね?」
「ああ……あれは、有名な工場ですね」
横山が乾いた声を絞り出す。
「そうです。あの会社の東京本社に勤めていた男なんですが、一度現場を経験させようという会社の方針で、半年ほどここの工場で勤務していたんですよ」
横山は相変わらず押し黙って話を聞いている。
「男の方もまだ若く、独身でした。本社に戻ってそれなりに身を立てることが出来たら、結婚しようとか調子のいいことを言ったまま、結局男は東京に行ったまま、音信不通になりました。自分が捨てられたことを知った妹は、ある日、M大橋から身を投げて……」
横山の目の前で放置されたグラスの中で、丸氷がゆっくり溶けている。
そんなこと……こんな何もない田舎町、他に何の楽しみも無いんだから、そのぐらいいいじゃないか。もうお互い二十歳も超えた大人同士だったんだし……
「あの、お勘定お願いします。お釣りは取っておいてください」
そそくさと一万円札をカウンターに置いた横山は、隣の椅子にかけてあったコートをひったくるように取り上げると、足早に出口へと向かった。
だが、その扉は開かなかった。横山は、真っ赤になって全力で扉を押し続けたが、びくともしない。
「あはは、無理ですよ。扉の外には、もう人の背丈ほどに雪が降り積もってます。貴方が入ってきてからずっと、長い時間放置してましたからね」
屋根から滑り落ちた雪の塊が、もう一度、どさりと音を立てた。
「貴方がここで暮らしてたのは、春先から秋口にかけての半年間でしたよね。だからここの冬をご存知無いのも、当然でしょうね。ふふ」
カウンターの中で、包丁を固く握りしめた鳥飼が笑った。
[了]
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