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根の堅洲国と黄泉の国は、ともに地の底にあった。
だが、両国には決定的な違いがある。
肉体が存在するか否かだ。つまり、生ある神は根の堅洲国では暮らせるが、黄泉の国では暮らせない。逆もしかりである。
根の堅洲国に住まう須勢理毘売命は、機転の利く利発な女神であった。
たぐいまれな美貌を母から受け継ぎ、豪胆な父から受け継いだ芯の強さもあった。
父は須佐之男命。母は櫛名田比売。晩年の末娘として生をうけた。
幼い頃の須勢理毘売が、寝物語として母に度々せがんだのは、両親のなれそめ話だった。
八俣の大蛇という巨大な化け物から母を救うために、父は勇敢に立ち向い退治したという。
戦いの間、母を小さな櫛に変えて、我が身から離さずに守ったそうだ。
このような縁で結ばれたとは、まるでおとぎ話のようである。
「ワタクシにも父母様のような出会いがありますように」
と、幼き胸を密かに高鳴らせたものだった。
須勢理が、父神と根の堅洲国に居を移したには経緯がある。
須佐之男命には、幼き頃よりの永年の夢があった。母・伊邪那美命に一目会うことだ。
母への思慕ゆえに、黄泉の国へと幾度も足を運んだ。
果たして、その夢は未だ叶わず。
大昔のことである。黄泉の国に生ある者が侵入し、一悶着あったそうだ。
生ある者は須佐之男命の父・伊邪那岐命であり、一悶着の相手は黄泉の国に住まう母・伊邪那美命だと語り継がれている。
それ以降、生ある者は例外なく立ち入りを禁じられた。
諦めきれぬ須佐之男命は、黄泉の国と同様、地の底にある根の堅洲国へ住まいを移し、目通りの機会を伺っていた。
父神から誰よりも愛しまれて育った須勢理としては、父の手助けがしたいと、共に地の底へ下った次第である。
地上の神殿の造りは、檜を主とした木造建築だが、これに対し地の底の神殿は石造りだ。
黄泉の国は、磨き上げた黒曜石が漆黒の闇を作りあげ、所々に埋め込まれた大小の水晶の瞬きで、夜空のごとく無限の広がりを感じさせていた。
根の堅州国は、切り出された花崗岩の岩肌そのままに積み重ねられ、岩のつなぎ目には篝火が焚かれていた。
荒ぶる神と恐れられた須佐男命にふさわしく、野趣溢れた神殿だった。
須勢理の居室だけは、壁の岩肌を滑らかに加工し、女神が住まうに相応しい内装をほどこしていた。
その居室で、側仕えの侍女が須勢理の豊かな黒髪を梳いていた。気の利いた世話人として母が供を命じたその侍女は、髪を形よく結うのが得意だった。
豊かで艶のある黒髪の、額中央の前髪だけを頭頂でまとめてから後ろに流すだけだが、侍女が結うと見目が良い。
頬に少しだけかかる黒髪が、色白の肌を浮き立たしていた。
仕上がった髪型を鏡で映し見ていたところに、一匹の鼠が鏡台に駆け上がってきた。
「ちょいと、ちょいと。珍しいこともあるもんだよ」
雌の鼠のネズ乃だ。
根の堅洲国きっての情報屋で、お喋り好きのネズ乃は、須勢理を殊の外、気に入ってるようだった。
あちらこちらを走り回り、見聞きしたことをいち早く須勢理毘売に報告しては、手柄顔をした。
「まぁ、なにかしら」と須勢理と侍女は顔を見合わせ、おどけて笑った。
ネズ乃は、木国の穴から根の堅洲国へ訪問者がやって来ると告げた。
根の堅洲国への訪問者はまれである。興味をそそられた須勢理は、侍女を伴い神殿の戸口へ足早に向かった。
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