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黄泉の国の食は、現世の食とは大きく異なる。
そもそも、魂の維持のみに有効であればよいからだ。
黄泉の食の栄養分は、肉体の代謝を促さない。
必然的に、ここでは現世の肉体という装いを脱ぎ捨て、神々は魂のみで暮らすことになる。
伊邪那美命のかつての肉体(透き通るような白い肌・均整がとれた体型・美しい顔)は、脱ぎ捨てられて久しい。
黒御影の石棺に保管されてはいるものの、すでに腐りかけて異様な臭気を発している頃だ。自然と醜い虫も湧いていよう。
生ある夫には、黄泉の国で暮らす神々の姿が見えない。
肉体を持たないからだ。
この場で夫・伊邪那岐と抱擁しあうにせよ、現世に戻るにせよ、かつての自身の肉体を纏うほかに手立てはない。
伊邪那美は心の声を使って夫の脳内へ語りかけた。
「オマエ様と帰れるように黄泉の国の神々にお手伝い頂きますので、しばらくそちらでお待ちあれ。ワタクシの体は黄泉の国の食で穢れております。どうぞお呼びするまで、部屋の外でお待ちあれ。それまで、決してワタクシをご覧になってはなりませぬ」
夫の弾んだ声が聞こえた。
「長くは待てぬぞ。急ぎ支度せよ」
生前の美しかった姿に戻るには腐りかけたこの肉体を、まずは纏わねばならない。
なぜなら、内側からと外側からと同時の清めが必要なのだ。魂を滑り込ませることで内側から清め、同時に外側は他の神々に清めてもらう。
かつての肉体を石棺から取り出すよう、伊邪那美は下女に命じた。
この下女の名は黄泉醜女という。
読んで字のごとく、たいそう容貌の醜い鬼女であるが、鬼だけに力もあり足も速い。
何かと役立つので、そばに置いて仕えさせている。
醜女は軽々と石棺のフタを奥にずらした。途端、とっさに込み上げた吐き気を押さえるように口元に手をあて、石棺から目をそらせた。
醜悪な姿の鬼でさえ、この腐りかけの肉体に吐き気を催したのだ。
おぞましや・・・。
伊邪那美は身震いをした。
意を決した。
愛する夫のために息を止めて、穢れた肉体に魂を滑りこませた。
奥の間には、外側からの清めに手を貸してくれる神々が、お出ましになったようだ。
儀式の段取りが整ったところで、地底に存在する必要のない炎が、黒御影石の壁にを照らした。
炎を手にした夫が、待ちきれずに扉を開けて覗き込んだのだ。
互いの視線が絡み合った。
夫の動きと息が止まっている。
「オマエ様・・・」
纏っていた腐りかけの肉体の一部である傷んだ声帯から発せられた声はしゃがれていた。
まさに老婆の声だった。
「化け物・・・・・・」
目を見開いたまま夫がつぶやいた。
我に返るや、妻に背を向け、一目散に逃げ出した。
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