40人が本棚に入れています
本棚に追加
八上比売の受難
八上比売は、大国主命の訃報を受けて床に臥せった。
話は少し戻る。
因幡の国の八上比売を語るとき、誰もがその美しさを次のように表現したものだ。
愁いを帯びた目元は優しく儚で、その瞳の奥を覗き込みたくなる。ふっくらと艶のある唇に視線を写せば、己の唇を重ねたい衝動にかられる。静かな微笑みを向けられたなら、心は喜びに満ち、その可憐な笑みを我が物にしたいと望む。
美し過ぎるという噂ゆえ、近隣諸国からは有力者の子息が、妻にしたいと引きも切らずにやってきた。
出雲の国から妻問いに訪れた八十人の若者が、順番に上げる名乗りを聞いていた時、屋敷の門番から「至急、お越し願いたい」と連絡が入った。
八十神らに断りを入れ、門番が告げた別室に向かった。
部屋には、背と腹の一部の毛が抜け落ち、痛々しく赤剥けた肌を露出させたウサ吉がいた。
ウサ吉とは、八上比売が可愛がっている雄の白ウサギである。
しばらく姿が見えないと心配していたところ、見るも無残な姿で現れた。
「まぁ、ウサ吉。その姿はどうしました」
驚く八上の言葉を最後まで聞かずに、息せき切って白兎海岸の一件をウサ吉は話し始めた。
ワニに食いつかれ、九死に一生を得たはいいが、激痛で動けなくなったこと。
通り合わせた八十神らが、悪ふざけでいい加減な治療法を教えた上に、増した痛みに悶え苦しむ姿を滑稽だと笑ったこと。
遅れて通りがかった大国主命の親身な治療で、良くなったこと。
「断じて、八十神は選ばねぇで下さいまし。選ぶなら大国主命をお薦めしやす」
八上はウサ吉を抱き上げ、透き通るような白くふっくらした頬でウサ吉の顔にそっと頬ずりした。
「よく知らせてくれました。ウサ吉、礼を言いますよ」
八十神らが「今や遅し」と待つ部屋へ戻り、全員の名乗りを最後まで聞いた。
返事を待つ八十神らの問うような目線を受け止めて、八上はもう一度、それぞれに憂いを帯びた眼差しを向けた。
視線が合った兄弟は「ワレの元に嫁がれよ」とばかりに大きく頷いた。
「有難き事でございますけれど、ワタクシが夫婦となりたき御方は、いらっしゃいませんでした。どうぞ、道中気を付けてお帰り下さいまし」
これまで何度も繰り返したように、おっとりと感謝と断りを述べ、深く一礼をした。
失望と不満を面差しに浮かべながらも、八十神らは作法にのっとり、時間を儲けてくれたことに対する礼と、別れの挨拶をした。
ほどなく、帰路についた。
遅れて到着する大国主命は、八十神らと会わぬよう別室へ案内するよう申し付けた。
若者の待つ客室へ足を運ぶと、入口に背を向ける恰好で、大国主命はウサ吉と話をしていた。
その背に向かって声を掛けた。
「ウサ吉がたいそうお世話になりまして、感謝申し上げます」
振り返った男神は、切れ長の涼し気な目で、眩しそうに八上を見つめるて言った。
「出雲の国より参りました大国主命でございます。いや、噂通りの見目麗しい女神でございます」
大国主命は嬉しそうに、満面の笑みを向けた。
大方の女神はこの笑顔で虜になるだろう。
八上も、精悍な顔立ちの大国主に目が釘付けになっていた。
「ヒメ。どうです? アッシが言った通りの、男っぷりでございましょ」
ウサ吉の発言に、八上も大国主も我に返った。
「まぁ、ウサ吉ったら、失礼ですよ」
「おいおい、ウサ吉」
同時の発言に、二人は照れたように笑い、再び目を合わせた。
八上は、今まで多くの若者から妻問いを受けたが、これほど心が弾んだことはなかった。一目で恋に落ちるとはこういうことか。
気が付くと、はにかんだ笑顔で告げていた。
「ワタクシは大国主命と夫婦になりとうございます」
大国主が喜ぶのは言うまでもないが、ウサ吉もたいそう喜んだ。
その晩、しきたり通りに床入し、結ばれた。
作法通りに、大国主命は八上比売に後朝の別れを告げ、夜が明けぬうちに出雲の国へ立った。
最初のコメントを投稿しよう!