八上比売の受難

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「なに、無理することたぁ、ありませんよ。湯に浸かりながら、のんびり行きやしょう」  ウサ吉は道中、身重(みおも)の八上比売を気遣った。体に良いと評判の湯があれば、八上を浸からせて、疲労がたまらぬようにした。  八上を休ませている間に、ウサ吉は出雲に関する情報を集めた。 「大国主命は、根の堅洲国(かたすくに)で須佐之男命から助言を得たそうですぜ」とウサ吉が伝えれば 「まぁ、一体に八つの頭と八の尾を持つ巨大で狂暴な八俣(やまた)大蛇(おろち)と戦い、勝利した伝説の須佐之男命がお力を貸して下さったのですね。心強いことです」  と喜び、白い頬を上気させた。 「須佐之男命から授けられた生太刀(いくたち)生弓矢(いくゆみや)で八十神を追い払い、近隣国を併合して、出雲の国を大きくしてなさるそうですぜ」とウサ吉が伝えれば 「まぁ、なんと御立派な事で御座いましょう」  ふっくらと艶のある唇を綻ばせ、祝福をした。  ウサ吉が八上に伝えなかったことが一点ある。  大国主命が須佐之男命の娘・須勢理毘売(スセリビメ)を正妻として、出雲の国へ伴ったことだ。    事実であっても、今更、来た道をへ引き返すわけにもいくまい。  ウサ吉は、「後は野となれ山となれ」と、八上の耳に入れずに出雲神殿へ向かった。  出雲神殿に到着した八上比売は、道中、それぞれ効用のある良質な湯に浸かったことと、赤子を宿していることで、本来の肌の美しさに加えて色香と丸みが加わり、それはそれはお綺麗だった。  出迎えた使用人は、言葉を発っすることも忘れ、しばし見とれたくらいだ。  通された客間に現れたのは、大国主命ではなかった。 「ワタクシは大国主命の正妻・須勢理毘売(スセリビメ)でございます。因幡の国から起こしになったと伺いました。夫が戻るまで、この部屋でお待ち下され。何かお望みがあれば、遠慮なくお申し付けくだされ」  凛とした(たたず)まいの女人であった。八上比売の突然の訪問にまったく動じた様子をみせず、歓迎の意を述べる須勢理毘売に、ウサ吉はたじろいだ。  しかし、大国主命の子を宿している八上比売も、委縮することなく、おっとりと訪問の口上を述べた。 「大国主命の正妻であられる須勢理毘売にご挨拶申し上げます。ワタクシは、因幡の国の八上比売でございます。大国主命より請われ、夫婦の契りを結びました。この度、子を授かりましたことをご報告に参りました」  両者以外は、視線を床に落としていた。  微笑みを交え、穏やかな口調で言葉を交わす大国主の妻たち。  その背後に漂う緊張感に、身動きが取れないのは、ウサ吉も同様であった。  温かい飲み物が供された客間で、黙したままの八上と共に、大国主命を待つウサ吉はいたたまれなかった。 「こう言っちゃなんですが、随分とお気の強そうな奥さんでやすね。アッシは苦手だな。ヒメの方がずぅ~と……」  八上はちらとウサ吉を見ただけで、何も言わなかった。  ウサ吉は首をすくめた。  このような時、オスのウサ吉では用が足りない。  三度目の茶が運ばれた後、ようやく大国主命が顔を見せた。 「八上比売、遠い道のりをよくいらした。ご無事の到着なによりだ。さてさて、愛らしいお顔を見せておくれ」    大国主は両腕を大きく広げ、八上比売をその腕に抱きしめた。せり出た腹部を優しく撫でながら「元気なお子を産んでくだされ」耳元で囁いた。  八上は、何から話していいのかわからず、唯々(ただただ)大国主命の腕の中からその精悍な顔を見上げて、瞳を濡らして頷くのみだった。  ウサ吉は、大国主命に会ったら恨みの一つも言ってやるつもりだったが、 「おぉ、ウサ吉。すっかり毛も生え揃って、何よりだ。八上比売を無事連れてきた礼を言うぞ」と、背の毛をくしゃくしゃと撫でられ、言いそびれてしまった。  大国主は「ソナタのお産は、須勢理毘売(スセリビメ)が良きに計らうゆえ、安心して時をお過ごしなされ」と言い置いて、翌日には近隣諸国併合のため、神殿を出てしまった。  ウサ吉は神殿を散策中に、鼠に喧嘩を売られた。  根の堅洲国から須勢理毘売についてきた、雌鼠のネズ()だった。 「因幡のヒメはどういう了見なんだい。新婚夫婦のところに、押しかけてさ」  ウサ吉は、売り言葉に買い言葉で言い返した。 「どういう了見もくそもあるかい。うちのヒメさんは、いいか、ここんとこよ~く聞きやがれ、大国主命から結婚してくれって請われたんで、そこまで言うんなら、よござんしょ、夫婦になりましょってんで、子まで作ったんだぃ。そっちこそ、怪我をした大国主命に付け込んで、正妻になりやがったな」  ネズ乃も(ひる)みはしない。さらに声を上げて言った。 「何言ってんだい。 こっちのヒメさんとオタクのヒメじゃ格が違うんだよ。格が。須勢理毘売のお()っつぁんは須佐之男命だよ。その後ろ盾あってこそ、大国主命が国を統一できるんじゃないかっ。邪魔しないで、さっさと国へ帰んな」  ネズ乃の声にかぶさる様に「およしなさい。ネズ乃」の声がした。    須勢理毘売だった。  須勢理毘売は、傍らに立っていた八上に申し訳なさそうに視線を送った。  八上の顔は蒼白になり、体は小刻みに震えていた。  八上は唇をかみしめ、きつい目で須勢理を睨んだ。  ゆっくり息をはき、産気づいた。    
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