八上比売の受難

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 皆が見守る中、無事に赤子は生まれた。  幸いなことに、母子共に健康であった。  母と子を優しく気遣う須勢理毘売に、八上は全く打ち解けようとはしなかった。  頼りたくなどなかった。  ネズ乃の言葉で、八上は自分の立場に気付かされた。  国を広げるにあたって、統治者が妻に求めるのは愛だけではない。  外戚の政治的背景も重要なのだ。  大国主命が正妻に選んだのは須勢理毘売ほど、強力な後ろ盾を持つ女神はいない。  赤子誕生の知らせを送った大国主命は、いまだ遠征先から戻らない。  こんな惨めな思いをするくらいなら、出雲へなど来なければよかった。   床上げをした八上は、ウサ吉に言った。 「明日の夜明け前に、因幡の国へ帰ります」  翌朝、赤子を抱いた八上とウサ吉は、誰にも告げずに、出雲神殿を後にした。  まるで夜逃げのようだった。  八俣の大蛇(おろち)で名の知られた、出雲地方の斐伊川(ひいがわ)を渡り、しばらく進んだ辺りで、一行は最初の休憩を取った。  日もすっかり高くなっていた。  日除けとなる大きな木の根元に腰を降ろし、八上は赤子に乳を含ませた。  赤子を連れて出雲神殿を出てから、八上は思い悩んでいた。  夢中で乳を吸う我が子を愛おしく見つめて、ゆっくりと語りかけた。 「大国主命の御子でもあるソナタを連れて帰れば、因幡に災いをもたらすやもしれぬのです。出雲はソナタを取り返すという口実で、きっと攻め入るでしょう」  赤子は乳に吸い付いた口元を小さく動かしながら、母の顔を見つめた。  やがて須勢理も大国主の御子を産む。  正妻の産んだ御子らに侮られながら、我が子が育つことは我慢ならなかった。  守る者のいない出雲へ、赤子を残してこれなかったのだ。  八上はこの場所に置いて行くことを決意した。 「大国主命がソナタを見つけてくれたなら、神殿へお戻りなさい。迎えに来ぬ時は・・・・・・」  八上は、いったん瞳を閉じた。 「迎えに来ぬ時は、近隣の者がソナタを育ててくれるでしょう」  赤子は母の瞳をじっと見て、「オウオウ」と可愛い声をあげた。  八上は嗚咽を堪えた。  優しく赤子を抱きしめ、頬ずりをした。  しばらく腕の中で揺すっていると、赤子はすっと眠りついた。  赤子を木の俣にそっと置いた。 「母の祈りで、ソナタをきっと幸せにしてみせます。元気にお育ちなさい」  八上は赤子の頭をそっと撫でた。  傍らで、しゃくり上げるウサ吉を促し、木の俣に寝かせた赤子をそのままに、隣国の因幡へ向けて歩き出した。 「ウサ吉、振り向いてはなりませぬ」  八上も赤子を振り返らなかった。    赤子はこの村で育ち、後に木俣神(キマタノカミ)と呼ばれる。     
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