三番目の妻・沼河比売《ヌナカワヒメ》

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三番目の妻・沼河比売《ヌナカワヒメ》

 高志国(こしのくに)は、後に、(こし)(くに)を経て、越後となる。    高志国の糸魚川の周辺には、翡翠(ひすい)の鉱脈があった。直径が1メートルを超える大きな原石が数多く採掘された。    翡翠と言えば、まずは深緑を思い浮かべるであろう。高志国では深緑は無論のこと、白・淡緑・青・薄紫・黒の翡翠も採掘された。  高志国の重要な資源となっていた翡翠は、(つや)やかな勾玉(まがたま)に加工され、首飾り等の装身具として用いられたり、祭祀(さいし)呪術(じゅじゅつ)に欠かせない品だった。  勾玉は生命力を高める。と考えられていた。    皇室に伝わる三種の神器の一つである、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)高志国(こしのくに)の翡翠で作られた勾玉であった。    この翡翠の国を統治していたのが、沼河比売(ヌナカワヒメ)だ。  その胸元の首飾りと耳飾りは、同色の翡翠で加工された勾玉が使われた。    沼河比売は、衣に合う配色を、色彩豊かな翡翠の装身具から選び、身に着けた。  洒落た統治者の姿は、女人の憧れになるとともに、高志国の翡翠の魅力も口伝てに広まった。  晩のことだ。  すでに床についていた沼河(ヌナカワ)は、物音で目が覚めた。耳を澄ますと、入口の戸を叩く者がいるようだ。  夜分の訪問者に心当たりはなかった。 「沼河比売(ヌナカワヒメ)。戸開けて下され。ワレを迎えて下され」  若い男の声のようだ。  誰かと尋ねると、八千矛神(ヤチホコノカミ)と名乗った。遠方から会いに来たという。   「賢く才があり、美しいと評判の沼河比売を、是非とも我が妻に迎えたい」と、閉ざされた戸の向こうで、妻問いの言葉を投げかけた。  八千矛神(ヤチホコノカミ)とやらの、身もとろける様な口上に悪い気はしなかったが、すぐに戸を開くのも、はしたない事なので、まずは断った。  高志国の統治者に対し、このような大胆な恋の告白をした者は皆無であった。    世の中の男女間ではよくあることでも、沼河(ヌナカワ)にとっては、初めての経験であった。  翌晩、またもや沼河の部屋の戸を叩く音がした。  八千矛神が昨晩と同じように、恋の口上を熱く語った。  どのような姿の若者であろうか。  興味を搔き立てられた沼河は、音を立てぬよう忍び足で近寄ると、僅かに戸を開けて外を覗き見た。  その僅かな隙間に手が差し込まれ、戸が力強く開かれた。  すかさず居室に押し入った若者は、沼河を腕に引き寄せた。  予期せぬ大胆な行為に、声も出なかった。  (まつりごと)では手腕を振るう女性統治者だが、男女のことは、初心者同然だった。   「無礼者!」と𠮟り飛ばすべきなのか。 「まぁ、大胆な方」と余裕を見せるべきなのか。  とんと、わからない。  抱きしめられたまま、おずおずと目線を上げた。    若者は涼し気な切れ長の瞳で、愛おしいそうに見つめていた。 「評判通りの、素晴らしき御方だ。遠くから訪ねた甲斐があると言うもの」  口元を耳元に寄せて「やっとお会いできた」と囁いた。  沼河は耳にかかった息が、くすぐったくて首を(すく)めた。  不思議な感覚だった。  若者に抱かれて、身も心もとろけていく。    その晩、契りを交わした。  沼河(ヌナカワ)の豊かな黒髪を、若者は優しく撫で続けた。 「ワレは果報者だ。素晴らしき女神が妻となってくれた」  繰り返し、耳元で甘く囁いた。  八千矛神(ヤチホコノカミ)仕来(しきた)り通り、後朝(きぬぎぬ)の別れを告げて、夜が明ける前に立ち去った。  高志国を統治する沼河比売(ヌナカワヒメ)は、子を宿した。  
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