伊邪那美命 黄泉の国での再会と別れ

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 「お待ち下され」    思うように声が出ないのが、もどかしい。  伊邪那美命(イザナミノミコト)は腐った肉体を(まと)ったまま、夫を追った。      黄泉の国の仕組みについて夫に説明しなければならぬ。  直に、元の美しい姿を取り戻すと伝えねばならぬ。   「誰か、誰か夫を止めよ」  声を聞きつけて集まってきた下々の化け物たちは、(なか)ば腐って融けかかった醜い肉体を纏う伊邪那を前に、悲鳴をあげた。中には、腰を抜かして尻もちをついている小妖怪もいた。  その混乱を目にしたは、伊邪那は老婆同様のしゃがれた声を震わせながら一喝した。  「止めよと言うておるのだ!」  下女として伊邪那に仕える醜女(しこめ)を先頭に、化け物たちは伊邪那岐命(イザナギノミコト)を追い始めた。  悲しい。恥ずかしい。悔しい。  こんな姿を夫はもとより、下々の小者にまで晒してしまった。  自らも夫を追いながら、崩れて下がった頬に涙が伝った。  「()(はじ)見せつ」(ワタクシによくも恥をかかせてくれた)  さて、俊足を誇る黄泉醜女(よもつしこめ)は、たちまちのうちに伊邪那の背に追いついた。   伊邪那は振り向きざまに、髪を結っていた蔓草(つるくさ)を投げつけた。  そこから山ぶどうの実が生えたのは、神のなせる(わざ)である    黄泉の国では、醜女(シコメ)のような小者は、めったに山ぶどうを口にできない。鬼女にとっては、生の酸味と渋味がとてつもなく美味に感じる。山ぶどうは好物だ。    食に対する欲望を抑えることができないのも、鬼の(さが)である。その場で山ぶどうを貪り始めた。 「何をしておるっ。追わぬかっ!」 伊邪那 の叱責する声に、我に返った醜女(しこめ)は、再び伊邪那を追う。    再びその背に迫った。  振り向きざまに、伊邪那は髪に刺していた櫛を抜き取り、その櫛の歯を折って投げつけた。そこからタケノコが生えたのも、神のなせる(わざ)である。    黄泉の国で、醜女のような小者は、めったに生のタケノコを口にすることはない。鬼女にとっては、生の苦みがとてつもなく美味に感じる。生のタケノコは好物だ。    食に対する欲望を抑えきれずに、その場で生えているタケノコを抜き、喰らい付いた。  タケノコを夢中で抜く醜女の横を、伊邪那とその他大勢の化け物たちが駆け抜け、伊邪那を追った。    伊邪那は、天上界の神々が持つ十拳剣(とつかのつるぎ)を振り回し、化け物らを牽制しながら逃げた。  ようやく黄泉比良坂(よもつひらさか)に辿り着いた。ここは、黄泉の国の出入り口だ。  その背に、妻が「お待ちあれ」と、しゃがれた声を振り絞る。  夫は外に出ると、大急ぎで地上にある坂の入り口を、千引岩(せんびきいわ)と呼ばれる大きな岩で塞いだ。  岩を背にして夫は妻に告げた。 「もはや、夫婦である必要はなかろう」  岩を挟んで離縁を告げる夫の声に、負の感情がふつふつと湧き上がる。  部屋の外で待つとの約束を(たが)えたのは夫だ。  その上、醜悪な姿についての説明にも耳を貸さずに、一方的に離縁を告げた。  思いもよらぬ夫の訪問に舞い上がったワタクシの心を、粉々にした。  何より我慢ならぬのは、黄泉の国の神々だけでなく、下々の小者にまで恥を(さら)してしまったことだ。    恨みごとの一つも言ったとて、罰は当たるまい。    岩向こうで返事を待つ夫に、呪いの言葉を投げつけた。 「今後、オマエ様の産んだ(いのち)を、毎日1,000ずつ奪ってご覧に入れましょう」  むろん、本気ではなく、単なる脅しだ。  恐れをなした夫の、せめて許しを請う言葉を聞きたかった。    ところが、夫は許しを請うどころか開き直った。 「よかろう。我は毎日1,500 の命を産んでみせようぞ」  しばしの沈黙の後、伊邪那は夫婦を隔てている千引岩に向かって(つぶや)いた。 「金輪際(こんりんざい)、伊邪那命を夫とは思いますまい」
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