多紀理毘売命《タキリビメノミコト》

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 多紀理(タキリ)は夜霧を観察するために、そっと床を抜け出していた。    その晩も、夜更けに砂浜に立った。  濃い霧で暗く煙った海上に向かって両手を広げ、手のひらで霧の湿り具合を感じ取った。  瞳を閉じて、皮膚感覚に集中する。  次第に、寄せては返す波の音も、意識から遠ざかった。  どのくらい、同じ姿勢でいたのだろうか。  身近に気配を感じ、集中が途切れた。  うっすらと目を開けて、気配のする右後方を振り返った。  若い男神が自分と同じように、瞳を閉じて暗い海上に向かい両手を広げていた。  若者は目を閉じたまま、姿勢を崩さずに問うた。 「海原の霧を鎮めたり、発したり、お出来になるのか」  多紀理は視線を海原へ戻し、恥じらうように答えた。 「まだまだ力不足でございます」  男神は多紀理の隣に並んだ。  先ほどよりは、多少でも霧が薄まったのであろうか。  ぼんやりと視界の効かぬ海原をしばらく眺めていると、静かで落ち着いた声が聞こえた。   「必ずやお出来になる。お励みなされ」  多紀理は隣に立つ若い男神を、見上げた。  涼し気な切れ長の瞳を持つ、端正な顔立ちの若い神であった。  多紀理に注ぐ眼差しは、優しさに満ちていた。    姉妹を除けば、温かい励ましの言葉を掛けられることはない。  思うように術を習得できず、焦りで心が張りつめていた。  若者がと断言してくれたことが嬉しくて、自然と涙が頬を伝った。  男神はいたわるように、多紀理の背にそっと手をあてた。 「可哀想に。心を追い込んでおられたか」  霧深い夜の海岸で聞こえるのは、寄せては返す波の音。  背に添えられた男神の手の温もりが、張り詰めていた心を和らげていく。    多紀理(タキリ)の心が揺れ動いた。  生まれて初めて恋をした。    諸国を併合しながら、蘆原中国(あしはらなかつくに)を建国する出雲の統治者・大国主命(オオクニヌシノミコト)だった。
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