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ネズ乃の憂鬱
出雲神殿内で、最も情報取集に長けているのはネズ乃だと言われていた。
ネズ乃は、須勢理毘売命が可愛がる雌鼠だ。
小さな体で、至る所に潜り込む。
壁の隙間で話を聞いていることもあれば、部屋の隅でこっそり見ていることもある。
鼠仲間から提供される情報量も、馬鹿には出来ぬ。
ネズ乃の活動範囲は神殿内にとどまらない。近くの町へ頻繁に足を運び噂話に耳を傾けて情報収集に励む。
鼠の身ゆえ、天の高天原にこそ上れないが、かつては地の底の根の堅洲国に出入りをしていた。
根の堅洲国で、須佐之男命の娘の須勢理毘売と懇意になった。
根の堅洲国から脱出する大国主命は、須勢理毘売を背負った。
背負われた須勢理の衣にネズ乃がしがみつき、この出雲までやってきた次第だ。
「なんだかんだ言っても、ヒメはアタシを頼りにしてるだろ。放っておけやしないよ」
飼い鼠と勘違いされては、沽券に関わる。出雲では、折に触れて言いまわった。
根の堅洲国の須勢理毘売は、朗らかであったし、男神との劇的な出会いを夢見る、無邪気さも持ち合わせていた。
大国主命が根の堅洲国に現れた時、須勢理は運命の出会いだと感じ、心をときめかせた。
ネズ乃は、むろん恋の成就に一肌脱いだ。
出雲の宮殿に移り住んだばかりの須勢理は、生き生きとしていた。
透き通るような色白の頬を、ほんのり上気させて、大国主命が手掛ける国造りに関して知恵をしぼった。
当然のことながら、ネズ乃も近隣諸国の特産品から統治者の性格に至るまで、集めた情報を須勢理に伝えて、一役買った。
大国主命は、度重なるヒメの知恵や思慮深さに感心し、「掛け替えのない妻参謀殿」と呼んでは抱き寄せて、須勢理のふっくらとした頬に自分の頬を合わせた。
ネズ乃は、夫婦の仲睦まじい様子を目にして、「あら、いやだよ。新婚時代のアタシとネズエモンみたいじゃないか」と照れたものだ。
ネズ右衛門とは、早逝したネズ乃の夫だ。
記憶の中のネズ右衛門は、とても見目麗しい若い雄鼠だった。隙あらば、大国主命のようにネズ乃に頬を寄せてきた。
ネズ右衛門の髭がくすぐったいったら、ありゃしなくてさ。
戯れ合う若い夫婦を眺めながら、ネズ乃は楽しかった新婚時代を思い出したのだ。
次々に新な側室を娶る現在の大国主命には、嫌みの一つも言ってやりたい。
諸国を併合するにあたって、須勢理が強く願った点がある。
殺戮を避け、和議による併合を行うことだ。
大国主命は、「交渉に応じぬ時は交戦あり」を条件に、「和議による併合案」を了解した。
須勢理は大いに喜んでいた。
残念なことに、実行された和議交渉によって、須勢理は明るさを失うことになった。
和議の証として、併合された国の長は、次々と娘を大国主命へ差し出したのだ。
ただし、大国主命に好意を抱き、自ら進んでこの役目を引き受けた女神も多くいた。
体の良い人質とはいえ、表向きは側室として迎えられる。大国主命の床も共にすれば、子も成すのだ。
須勢理の心中を思うと、ネズ乃は我がことのように、胸が締め付けられた。
自ら願った平和的な案と引き換えに、次々とやってくる側室の世話に、須勢理は追われていた。
最近は、鳥取神とやらが新たに側室として加わった。むろん大国主命の御子付きだった。
「ワタクシこそが、大国主命が愛してやまぬ后である」と、勘違い甚だしい人質に対しては、ネズ乃は少しばかり思い知らせてやった。
因幡の国の八上比売には、身の程知らずだと気付かせてやったし、高志国の沼河比売には、国を売った女と蔑んでやった。
高天原の天照大御神の耳に噂が入るように手を回したのは、宗像の多紀理毘売命を追い出す時であっただろうか。
側室のうち、何人かは御子を残して出雲を去った。ネズ乃にとっては、溜飲が下がる思いだった。
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