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彼らの頼み事は、八俣の大蛇退治だった。
八俣の大蛇は、一体に八つの頭と八の尾を持つ巨大な化け物だ。
この化け物が山から下り、老夫婦の八名いた娘を毎年順に喰らっていったという。
最後に残った娘の櫛名田比売の命を救って欲しい。
これが願い事だった。
詳細を聞きながら、須佐之男命の視線は、うつむく娘に向けられていた。
我が身に降らんとする不幸ゆえか、娘の濡れた長いまつ毛が震えていた。
なんと、見目麗しい娘であることよ。
老父の話を聞き終えたところで、須佐之男は再び、足名椎、手名椎、櫛名田比売の順に目をむけた。
やはり、この娘は美しい。
須佐之男命は、ことさら険しい顔つきのまま「手はある」と、力強く言った。
家族の顔に喜びが広がった。
それまで血の気が失せていた娘の頬にほんのり赤味がさした。
おぉ。愛らしいではないか。
親子は手を握り合ったまま、固唾をのんで次に語られる言葉を待った。
「櫛になれ」
発せられた須佐之男の一言に、老夫婦と娘は互いに顔を見合わせて、首を傾げた。
再び須佐之男に視線を戻し、問うことはせずに、次の言葉を待った。
須佐之男は、咳払いを一つして続けた。
八俣の大蛇はとても狂暴な化け物であること。
娘の命を守り抜くためには、その姿を小さな櫛に変え、須佐之男の髪に挿して守るのが、一番良い方法であろうということ。
櫛名田比売だけに、櫛に姿を変える。
我ながら洒落た思いつきである。
恐れ入ったか。と、ばかりに一家を見回した。
「娘の姿を櫛に変えることができるとは、さすが、天から降った神のなせる技」と、感心しきりだった。
しかし、肝心の洒落に関しては、気付いていないようだ。
ふんと鼻を鳴らした須佐之男は、あっさりと案を取り下げた。
「だが、この娘には使えぬな。櫛に変えるという神技を授けることが出来るのは、ワシの妻なることが条件だ。別の手を考えるとしよう」
これは、出まかせだった。
須佐之男が神技を授けるにあたって、妻である必要はなかった。
誰でも、櫛に変えることができた。
「櫛名田比売だけに、櫛に姿を変える」の洒落が見落とされたことに、少々臍を曲げた。
厳しい表情を保ったまま須佐之男は、目を閉じて口元を堅く結んだ。
「どうか、娘を娶って下され」
叫んだのは、老父だった。
老母は夫の言葉に合わせて、再び額ずいた。そして額ずいたまま、片手で娘の膝に触れた。
娘は膝に置かれた母の手に己の手を重ねた。
「どうぞワタクシを、偉大な神とお見受けする須佐之男命に仕えさせてくださいまし」
娘は顔を上げ、はっきりとした声で願った。
須佐之男は新たな展開に、心の中で快哉を叫んだ。
妻となってくれるのか。
だが、ほくそ笑みに気付かれぬよう、眉根を寄せて頷いた。
「仕方あるまい。オマエを娶ってやる」
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